4.
「特に呼んでないけど?」
「ひでぇ!」
峻の返事に大袈裟に仰け反りながら浅田脩一が言った。
「おはよう、浅田君」
「おはよう、藤宮さん」
董子が挨拶をするやいなや、仰け反っていた体勢を戻して返事をする。運動部らしい爽やかな笑顔だ。
脩一は野球部に所属していた。自分の教室に来るのがいつもHR直前になるのは毎日朝練に精を出しているからだ。百八十センチを超える身長をさらに大きく見せるがっしりとした体型はその練習の賜物といえた。
その体型と短く切った黒髪は、脩一が根っからのスポーツマンだということをよく表していた。
「そうだ! 愛沢さん、デート成功したんだって?」
いきなり脩一が峻に話を振ってきた。
「お前……その情報どこで手に入れたんだ?」
「フフフ、内緒だ」
そう言って脩一は不敵に笑う。
(ホントに、こいつはいつもどこから情報を手に入れるんだ……?)
雰囲気は絵に描いたようなスポーツマンな脩一なのだが、何故か情報収集も得意としていた。しかもその情報網は謎だった。
この映画の件に関しても、峻ですら今日の朝に奈亜から直接聞いて知ったというのに。まったくもって不思議な話ではある。しかし峻にとってその情報は時として役に立つ。主に奈亜の相談を聞いている時にだ。
とは言え、峻がこの脩一と付き合っているのはそんな情報欲しさにではなかった。峻は脩一の竹を割ったような性格に好感を持っていた。脩一と会ったのは董子と同じく高校一年の時からだが、脩一はすでに峻の大事な友人の一人だった。
「峻、お前はいいのかよ?」
「なにがだよ?」
急に真面目な口調になった脩一の質問に峻は質問で返した。
「俺は本命に賭けてるんだぜ?」
「誰のことか知らないが、その賭けはお前の負けだな」
「せっかく人が心配してやってんのにお前ときたら……」
「大きなお世話だ」
そう言って峻は視線を逸らす。
「相変わらずつれないなぁ」
軽くため息をつきながら脩一が峻の左隣の席に腰かけるのと、担任が教室に入ってくるのはほぼ同時だった。
担任が早速HRを始める。いつもと同じつまらない連絡事項をだらだらと述べていた。
峻はチラリと左を見た。峻の視線の先では、脩一がその話の内容に相応しい顔で前を見ていた。
(本命か……)
峻はそんな脩一に心の中で問いかけた。
(その本命がすでにフラれていると知ったら、お前はどう思う?)
その問いの答えが脩一から帰ってくることはない。声を出していないのだから当然だ。
(……アホらし)
峻は自分自身に苦笑すると、顔を前に戻した。
放課後、峻は下駄箱からの道を一人で歩いていた。脩一は野球部、董子は吹奏楽部とそれぞれの部活へ行ってしまっていない。奈亜はというと、それは峻にも分からなかった。奈亜の恋愛にはあまり立ち入らないようにしていた。あくまで奈亜が頼ってきた時にだけ峻は手を貸す。それが峻のスタイルだった。
だから峻には時間があった。その時間をどう潰そうか考え結論を導き出したのが今から約八か月前だ。
学校から五分ほど歩いたところに小さな喫茶店がある。平成の十の位も二になって久しいのに、そこだけは古めかしい雰囲気を残したままだった。
『フォレスト』、それがその店の名前だった。
店の窓から中を覗く、店の中は今日も閑散としていた。ドアを引くとそのドアの上に備え付けられた鈴がチリンと音をたてた。
「こんにちは」
峻が声をかけると、初老の男性はそっと手を挙げて答えた。蓄えられた口髭が男性の積み重ねた年月を象徴しているようだ。
峻は素早く奥の部屋に入ると、そこで着替えを始めた。そう、峻が八か月前に始めたこと、それはバイトだった。
学生服の上着を脱ぎ、代わりに黒のベストを羽織る。イギリスではウェストコートと呼ばれる袖のないものだ。本来はその下のカッターシャツ及びズボンもあるのだが、これは学生服をそのまま流用していた。
奥の部屋からから出てくると相変わらずマスターがコップを磨いていた。しかしカウンターには出てくる前にはなかった白いカップが置かれ、その中にはホットコーヒーが注がれていた。バイトに来るといつも最初に淹れてくれるものだった。
峻はこの店が好きだった。カウンター六席、テーブル席が二つと店内は手狭だ。だが、その代わりすべてのお客さんの顔が見える。それは同時にお客さんからも峻の顔が見えることを意味していた。そんな風にお客さんと給仕する側との間に壁がないこの空間がまず一番に好きだった。
そして二番目が店に流れる音楽だ。店の中にはクラシック音楽やジャズなどがその日のマスターの気分に合わせて流れていた。今日はヴィヴァルディの『四季』という名曲だ。ゆったりと流れるこの曲は店の雰囲気とマッチしていた。いや、知名度で考えると店の雰囲気が曲にマッチしていると考えた方がいいのかもしれない。どちらにせよ、それは峻にとって些細な問題だった。
「いただきます」
そう言ってから置かれたコーヒーに口をつけた。それ相変わらずおいしかった。峻はこのコーヒーを無料で飲ませてもらうだけで十分にバイト代に足りると感じていた。ほとんどお客さんが来ることはないため、給仕の仕事は最低限。それがない時はこの落ち着いた雰囲気の店の中でコーヒーが飲めるのだ。逆にバイト代を貰うのに気が引けてしまうくらいだった。
「ちょっと奥にいるよ。コップの片付け頼めるかな?」
「あ、はい」
マスターはそう言うと奥へと入っていく。たぶん誰か来るまでは出てこないだろう。
「ふぅ……」
一人っきりになった峻は、手早くマスターの残したコップを片付けてカウンター席の隅に腰かけるとカップのコーヒーを一口飲んだ。