14.
今日だけで、一生分走ったんじゃないかと思うくらいに足を動かした。
学校までの道のりを、一度も止まることなく走り切った頃には、峻の足は、とっくに棒になってしまっていた。
乱れた息を整えながら、峻は校門へと向かう。
奈亜との電話の時は、気が動転していたために失念していたが、甲城大附属は、大学のキャンパスもあるため、夜遅くまで人がいる。
奈亜もよほどのことがない限り、安全だろう。
だが、それも実際に目で見てみないことには分からない。なにせあれだけの見た目をしている。男なら声の一つもかけたくなってしまう。
奈亜が見知らぬ男に声をかけられ、どこかに連れて行かれてしまう。そんな妄想が、峻の頭をよぎる。
(そんなこと……考えるな、俺)
峻は、自分の頭を左右に振って、その妄想を打ち消す。しかし、不安をすべて拭い去ることは不可能だった。
ならば、と一刻も早く校門にたどり着くために、峻はまた駆け出す。
そして、ついに校門が見えてきた。
「はぁ……はぁ……」
目に入る汗をぬぐって眺めた先に、峻の望んだ人影があった。
「……な、奈亜!」
峻が呼ぶと、別の方向を向いていた奈亜が、声のした方に顔を向ける。その目には、待ち望んだ人が来たという喜びと、できれば今は会いたくはなかったという哀しみが入り混じった複雑な光が浮かんでいた。
しかし、それは峻には読み取れなかった。峻は、奈亜と会えたことへの安堵感でいっぱいだったからだ。
峻が奈亜へと近づく。
「奈亜」
奈亜は返事をすることなく目を伏せた。
(怒ってるな……当然か……)
これはもう覚悟した展開だ。峻はすぐに頭を下げた。
「ごめん……」
下手な言い訳はせず、峻はそれだけ言った。今日のことに関しては、どう考えても峻が悪いのだから。
「…………」
奈亜はなにも言わない。目を伏せたまま、微動だにしなかった。
「今日はお前の誕生日だったのに……台無しにしちまった……本当にごめん」
峻が続けて言う。目を閉じて、悔しさに唇をかみしめている。
二人の間に沈黙が訪れた。
二人とも、目を伏せたままお互いの足元を見つめている。
その重苦しい沈黙を破ったのは、奈亜からだった。
「なんで……」
「え?」
奈亜の声に反応して、峻が顔を上げると、美しい顔を少ししかめた奈亜と目が合った。
「なんで約束の時間に遅れたの? なにか理由があったんでしょ?」
峻の大幅な遅刻に、奈亜が理由を求めるのは当然だ。峻もそれは覚悟していた。そして、峻にはその遅刻の説明ができるだけの明確な理由がある。だが、
(……言えない)
峻は口を開かなかった。峻の視線がまた下を向く。
「ねぇ、峻!」
奈亜の声のトーンが一段高くなる。
それでも峻は口を開かない。
峻が遅刻の理由を語るためには、董子の母親の話をしないといけない。だがそれは、奈亜のトラウマを呼び起こす危険がある。今でも不安定なところがある奈亜に、わざわざそのトリガーともなりえる話をすることは、峻にはどうしてもできなかった。
例えどれだけ自身が糾弾されても、それだけは峻にはできなかったのだ。
「答えてよ! 峻!」
さらに追及する奈亜。峻は、あきらめたように息を吐くと、天を仰いだ。そして、奈亜の方をどこか悟ったような目で見て言った。
「……董子といた」
「え……?」
奈亜の瞳が大きく見開かれていく。峻の言ったことが、信じられないといった風だ。
「……なんで?」
さっきまでとは違い、まるで喘ぐように奈亜が聞く。
「言えない……」
「なんで!?」
奈亜が峻に詰め寄る。峻の目の前に立って、必死の表情で峻を見上げる。峻は、そんな奈亜の瞳を真剣な表情で見つめ返した。
「俺は、お前に嘘をつきたくない。……董子といた。けど、その理由は言えない」
幼馴染の二人だからこそ、通じ合うものがある。
峻の目を見た奈亜には、峻の言葉が嘘ではないことが、しっかりと伝わった。そして、その理由を峻が話すつもりがないことも。
「なんで……なんでよ。なんで私の誕生日に、峻が董子と一緒にいるの!? 今日は……今日だけは……!」
奈亜が叫ぶ。怒りと悔しさが混じった瞳で、峻を睨みつける。
「ごめん……悪かった」
感情を高ぶらせる奈亜とは裏腹に、峻は静かに答えた。
「――っ!」
パンッ!
鋭く乾いた音が校門に響く。
その音と頬に走った鈍い痛みで、峻は奈亜に叩かれたのだというのを知覚した。
奈亜が手を上げたままの姿で峻を睨みつけていた。その瞳には、きらりと光るものが見えた。奈亜はそれを素早く手で拭う。
「どうして……? 峻、お願い……」
そして、懇願するかのように問いかける。
「…………」
だが峻は、それに無言を貫いた。奈亜を見たまま動かない。そんな峻を見て、奈亜は肩を落とした。
「分かった……もういいよ」
今まで多くのことがありながら、ぴたりと噛み合ってきた二人の間で、なにかがずれた瞬間だった。どちらかがもう少し素直だったら、違っていたかもしれない。しかし、人生という一方通行でしかない時の流れに、『たられば』はあり得ない。
時の流れは、誰にも等しく平等で、女神の慈愛と悪魔の残酷さをあわせ持つ。
「……帰る」
奈亜はそう呟いて、峻を無視して歩き出す。
「奈亜」
「触らないで!」
峻が伸ばした手を鋭く払って、奈亜が峻を睨んだ。怒りだけを孕んだ瞳を向けながら奈亜は言う。
「一人で帰るから、もう放っておいて」
「……奈亜」
峻はもう一度伸ばそうとしていた手を虚空で止め、体に引き寄せる。
「あ、あぁ……それと!」
そんな峻に、奈亜が畳みかける。その言い方は、投げやりなものになっていた。考えることを拒んで、暴走気味だ。だが、その状態で放った言葉は、今後の二人の関係をまた大きく変えていくものになった。
「私、脩一君と付き合うことにしたから」
それからどうやって家にたどり着いたのか、峻の記憶はあまり定かではなかった。
ただ、行きの三倍近くの時間が帰りにかかった。
鉛のように重い足を引きずり、部屋に戻る。途中、恵美に声をかけられたような気がしたが、無視した。
奈亜は、茫然と立ち尽くした峻を置いて先に一人で帰っていた。部屋の電気が点いていたから、無事に戻ったことだけは分かる。
部屋に戻ると、峻は椅子に腰を下ろした。机の上には、渡せなかった奈亜へのプレゼントが置いてあった。
峻は、それを手に取ると、机の一番下の引き出しに放り込む。
そして両手で顔を覆った。
音が消えたように静かな部屋で、峻はそれに合わせるように静かに肩を震わせた。
時刻はちょうど午前零時。日付が変わる。――奈亜の誕生日が過ぎさった。