11.
奈亜が峻の家を出たのは午後三時を少し回ったくらいだ。熱戦を続ける高校野球の試合が終わった時刻である。
「行くの?」
テーブルで編み物をしていた恵美が顔を上げた。
「うん、外で少し買い物をしてから行きます」
「そう、気をつけてね」
「いってきまーす!」
奈亜はにこやかに手を振る。外の太陽に負けないくらい眩しい笑顔だ。
(……あの二人、うまくいくかしら)
玄関のドアが閉まる音を聞きながら、恵美は心の隅に芽生えた不安を掻き消すように頭を振った。
それから四時間後、奈亜は待ち合わせ場所の公園にいた。ウィンドウショッピングで時間を潰したが、結局待ちきれずに待ち合わせ時間の三十分前に着いてしまっていた。
(うー……遅いなぁ。峻、なにしてるんだろう)
心の中で奈亜がぼやく。自分が早く着き過ぎただけなのは分かっていたが、それを認めるのが少し悔しかった。なんだか峻にじらされているように感じたからだ。
奈亜は腕時計に目を落とした。今日何度目のことか分からない。
時刻は午後七時二分。待ち合わせの時刻を少し過ぎている。
と言っても峻には先日の映画を観に行った時も十五分ほど待たされている。
(……さすがに寝坊はないと思うけど)
朝に弱いとはいえ、今は夕刻だ。バイトにも行っているのだし、その可能性は限りなく低いだろう。――バイトの控室で寝てなければの話ではあるが。
「ふふっ」
そんな想像が頭をよぎり、また実際にそれを峻がやってしまう可能性があることに奈亜は含み笑いを漏らした。
今まで何度となく見た峻の寝顔。毎日峻を起こす前のほんの数秒、その寝顔を眺めているのは奈亜だけの秘密だ。
顔の温度が上昇するのを感じ、奈亜は頬に手をあてる。
(……なんか変な感じ)
奈亜は自らの小さな変化を感じ取る。
それはすべて些細なことだ。
いつもより少し峻が待ち遠しい。いつもより少し心臓がドキドキする。そしていつもより会うのが少し怖かった。
小さな感情の変化だ。だが確実に変化している。その変化の行きつく先にどんなものがあるのか、それは今の奈亜には分からない。
「むぅ……」
だからそれがもどかしく、頬を膨らます。
そしてこの苛立ちの行先は当然峻に向けられる。
「バカ峻。来たらお仕置きしてやる!」
まだ日が残る公園で奈亜は大きく天を仰いだ。
廊下はどこまでも暗く、待たされるものの気分も暗黒へと落としていく。明かりはいつかの記憶と同じく真っ赤な『手術中』のランプだけ。それが体に反射すると、自分自身が血に塗れたような感覚に陥る。
峻はそんな感覚を消し去ろうとするように身を震わした後、隣に座る董子に視線を送る。
まるで徹夜明けでもあるようにぐったりとした姿の董子は見ていて痛々しい。
「董子、大丈夫か?」
董子が小さく頷く。
峻の言葉に反応はしてくれるのだが、さっきから言葉を交わすことはできていない。
沈黙の中、時間だけが刻々と過ぎていく。壁の時計を見ると、午後七時十五分を差している。すでに約束の時間を十五分ほど回っていた。
「……峻君」
しかめた顔で時計を見つめていると、隣から董子が声をかけてきた。
「どうした?」
「……なにか用があったんのじゃない?」
「えっ?」
奈亜との約束は喋っていないのに、董子はまるで知っていたかのように言う。峻は内心で驚きながら聞き返した。
「どうしてそう思うんだ?」
「……だってさっきから時計のこと気にしてるから」
「そ、そうか? 俺、そんなに見てたか?」
董子が頷く。視線はまた自分の足元へと向いてしまった。その横顔はどこまでも悲哀に満ちている。
「……行ってもいいよ。無理に付き合ってくれなくても――」
「行かないよ」
董子の言葉を遮って峻が言う。こんな状況に置かれても峻のことを心配してくる董子。
無理をしているのは一目瞭然だ、それでも他人をいたわる言葉を峻は言わせるわけにはいかなかった。
「えっ……?」
今度は董子の方が驚く番だ。顔を上げると、峻の方に潤んだ瞳を向けてきた。そんな董子に視線を合わせつつ、峻がもう一度繰り返す。
「どこにも行かない。落ち着くまで一緒にいるよ」
峻は小さく笑う。それを見た董子の瞳が再び揺れた。一度止まっていた涙がまた溢れ出す。
「……君……ご、ごめっ……あり、ありが……と」
董子は途切れながらも言葉を必死で紡ぎだす。保っていたものが切れたように峻の肩に顔を埋めた。
峻は董子の頭に手を置くと、優しく左右に動かした。
「うっ……うっ……」
董子の嗚咽が廊下に響く。とてもじゃないが今の董子に奈亜のことは言いだせそうになかった。そしてこの状態が続く限り、電話の一本かけることもできないだろう。
(奈亜……)
峻は公園で待っているはずの奈亜を思う。
(ごめん……まだ行けそうにない、わ)
いつ終わるともしれない董子との時間と、削られていく奈亜との時間。その狭間で、峻は苦々しく赤ランプを見上げると、軽く唇を噛んだ。