9.
「やってしまったぁ!!」
時計を見た峻が悲鳴を上げる。時計の短針が、峻の予定していた行動開始時間から一周半ほど余分に回っていたからだ。
バイトの時間は迫っているし、今日はそのバイト帰りに奈亜と食事に行く予定にしている。身だしなみもいくらか整えておかなければならない。それに加えてバイトの前によっておかないといけない場所があった。そのことも考慮すると、もう時間的余裕はないに等しかった。
布団から飛び起きた峻は一度一階に下りて、身だしなみを整える。そして二階に急いで戻ると、前日に選んでおいた服へと手早く着替えた。
小物入れの肩掛けバッグと財布、そして枕元に転がっている携帯を引っ掴み、部屋から飛び出る。
そんな峻の様子を見た恵美の小言を聞こえないふりをして流す。恵美も今日が奈亜の誕生日だということを知っているため、必要以上の引き止めはしない。峻はそのことに心の中で感謝しながら家を出発する。
外は今日も茹だるような暑さで、立っているだけで汗が浮かぶほどだったが、すでに冷や汗をかいている峻にとっては気になるものではなかった。
(とにかく! まずは駅前に!)
峻が最初に目指すのは甲城駅構内のショッピングエリアだった。
普段は乗らない自転車を駆り、最寄りの駅へと到着すると、駅の階段を一段飛ばしで昇り、二段飛ばしで降り、電車に滑り込む。無理やり乗らなくても、すぐに次の電車は来たのだろうが、峻の心情としてはそのダイヤ一本分の待ち時間ですら惜しかったのだ。
甲城駅に着いた峻はすぐにショッピングエリアへと足を向けた。起きてからまだ一滴も水分を取っていないため、喉が渇いていたが、悠長に自販機へと立ち寄っている暇もない。それに構内の自販機が設置してある場所には、三か月前の苦い思い出もある。
その時のことをチラリと思い出した峻だったが、すぐに頭を切り替えると目的の店へと歩を進めた。
広大なショッピングエリアの中、区画分けされたブースの一角にその店はある。店の名前は、『メモリーズ』といった。店の中には様々なアクセサリーが展示されている。一期一会がテーマの店で、このアクセサリーはすべてオーナーのオリジナルデザインだ。そのため展示品限りの一品しかない。『いい品物との出会いは一瞬、しかしその品物との思い出は永遠に』、それがここのオーナーの格言であり、店名に込めた想いだ。
「柿谷さん!」
峻がオーナーである柿谷を呼ぶ。峻と柿谷は知り合いだった。柿谷がフォレストの常連だからだ。アクセサリーのデザインを構想する時に柿谷はよくフォレストを利用していた。そしていつの間にかそこのバイトである峻と意気投合したというわけだ。
「よぉ、遅かったじゃないか」
店の奥にいた柿谷が表に出てくる。ちょび髭で丸レンズのサングラス。そして赤いバンダナを頭に巻いた柿谷は見た目だけだとかなり怪しい。だがそれは本当に見た目だけであり、話すととても親しみやすい人物だ。
「注文の品、できてるぞ。――ほら」
柿谷は片手に収まるサイズの小箱を取り出すと、それを開いて中身を峻に見せる。中にはイヤリングが入っていた。
風をイメージした形、色はエヴァーグリーンだ。エヴァーグリーンは、日本では常盤緑と呼ばれている色で、『永遠に変わらない』という意味がある。そこに常に気ままで自由奔放な風を組み合わせる。そうすることで、峻が持つ奈亜のイメージである『永遠の自由』という意味を持たせていた。
このイヤリングは、峻が柿谷にそのイメージを伝え、柿谷がそれを元に作ったオーダーメイド品だ。
「ありがとうございます! 無理言ってすいません」
「気にするな。それよりうまくやれよ」
「いてっ!」
柿谷に背中を叩かれて、峻は顔をしかめる。
「なんだぁ? 最近の若いもんは軟弱だな。それじゃあ夜にハッスルできないぞ!」
「今は昼前ですし……」
峻はヒリヒリと痛む背中をさすりながら財布を取りだす。柿谷が値段表を見るでもなく値段を峻に伝える。その値段は他の商品の三割引きといったところだった。そのことを峻が指摘する。すると柿谷は、「引いた分、女に貢いでやれ!」と言って豪快に笑った。
そんな柿谷の厚意をありがたく受け取って、峻は店を後にした。携帯で時間を確認すると、もうバイトの時間が迫っている。
(急がないと)
峻は早足で折り返しの電車に乗るために、駅のホームへと向かった。
「ふぁ……」
奈亜が目を覚ましたのは、もう昼が目前というくらいの時間だった。奈亜にしては遅い目覚めだ。
(んー……ジャンキーコング久しぶりにやると難しかったなー)
布団から起き上がった奈亜が最初に思ったのは、昨日――正確には今日の深夜――に峻と一緒にしたゲームのことだった。
(ラスボスまでたどり着けなかったし……時間があったらまたやろっと)
「うんっ……ハァ……よし!」
手を頭上で組み、体を伸ばす。それで奈亜の試運転は完了だ。
奈亜は自分の部屋から出て一階に下りる。リビングを横切ってキッチンに行き、冷蔵庫から牛乳を取り出した。食器乾燥機からコップを出して牛乳を注ぐ。その牛乳を一口飲んでから奈亜は室内を見回した。
いつものことだが、その室内に奈亜以外の人の気配はない。さらにいうと、リビングにもキッチンにも、この家のほとんどの場所に生活感というものがなかった。その場所を使う人がいないからだ。唯一の住人である奈亜も、ほとんどの時間を桐生家で過ごすため、この家は寝るだけの場所だった。
奈亜は牛乳を飲み干すと、コップを洗って食器乾燥機に逆さに置いた。キッチンから離れて、再度リビングを横切る、奈亜は家の奥へと歩いて行く。そこへは普段はまったく行かない。だが、今日は特別な日だ。
襖を開ける。他の部屋はフローリングの床だが、この部屋だけは畳が敷かれた和室だ。
「お父さん、お母さん、おはよう」
奈亜が微笑みながら言う。その視線の先には仏壇が置かれていた。仏壇の中では奈亜の父と母の遺影が飾ってある。二人とも幸せそうに笑っていた。
奈亜が一人でこの部屋に来るのは、二人の月命日と奈亜の誕生日の時だけだ。それ以外の日は来ないようにしていた。
奈亜は仏壇の前に正座をすると、静かに手を合わせて目を瞑る。
(お父さん、お母さん、今日は奈亜の誕生日だよ。もう十七歳……早いなぁ。)
そして声には出さずに二人に語りかけた。
(今日はね、峻が食事に連れて行ってくれるの。とってもおいしいって評判のお店なんだよ。楽しみだな。……今度、なにがおいしかったか報告しに来るね。どんな雰囲気の店だったとか……)
「……っ、うぅ……」
奈亜の無言の語りが途切れて、代わりに小さく嗚咽が漏れる。閉じた目蓋の縁に溜まる雫を指で拭って、奈亜は目を開いた。両親の遺影に視線を向けて、奈亜は口元に笑みを作った。
「……私、大丈夫だからね。私には峻がいるから。――いってきます!」
奈亜は立ち上がると、振り返ることなく和室から出た。
「よし! 準備するぞー!」
独り言にしては少々大きな声を出して、奈亜は和室をあとにした。