8.
八月十四日、時刻は午後十一時を半分以上過ぎている。昼間の暑さよりは幾分かマシではあるが、それでも真夏を思わせる熱帯夜だ。
そんな夜でも、奈亜はいつもと変わらずに峻のベッドの上に寝転がっていた。今月発売のファッション誌を読みながら、上機嫌に最近覚えた曲を口ずさんでいた。その装いもいつもと同じで、半袖のシャツ一枚に短ジャージといった姿だ。
奈亜が大の字で占領するこのベッド。その本来の持ち主はというと、こちらもいつもどおり机に向かっていた。ただし、今は勉強をしているわけではなくて、今日買ってきた小説を読んでいるところだった。
奈亜は手元のファッション誌から顔を上げて峻の背中に視線を向ける。峻が本を読み始めて小一時間が経過していた。
奈亜は次に壁にかかる時計に視線を移す。そして時刻を確認すると、すぐに視線は峻の頭の上くらいにあるカレンダーへと注がれた。八月になったカレンダーの一点、カラフルに色づけされた日にちを凝視する。その日をしばらく眺めていた奈亜は、表情をムッとさせながら視線を峻の背中へと戻した。
(むー……峻のやつ、今日が何日か忘れてないよね?)
先ほどから一定のリズムで本のページをめくり続ける峻。毎年ならもっと早くある種のアクションを起こしているはずなのに、今年はそんな気配をまるで感じない。あれだけでかでかと頭の上に書かれているのに、あれだけ派手に装飾されているのに、まさか忘れてはないだろうと思って今まで黙っていた奈亜だったが、さすがに少し焦りを感じていた。
(まさか今年はなにもなし。……なんてことはないよね? 峻)
心の中で峻に問いかける。その答えは返ってくるはずもなく、一度湧いた不安は奈亜の心に広がっていく。
(私……なにかしたっけ? 峻の怒るようなこと……。今日、峻のアイスを勝手に食べたこと? いや、昨日峻の背中に氷を放り込んだことかな? いやいや、やっぱり一昨日の?)
この夏休みは、久しぶりに誰とも付き合わずに過ごしているため、峻と一緒にいる時間が多かった。改めて思い返してみると、連日のように峻にちょっかいをかけていた自分に気づく。
(……怒ってるかなー? やらなきゃよかった)
今さら思っても後の木阿弥である。奈亜は額に手をあててなんとか打開策を考えようとする。素直に謝るという選択肢がすぐに出てこないのが実に奈亜らしかった。
「うーん……うーん」
目を閉じて必死に考えるが、浮かんでくるのは形にすらならない案ばかり。これだというものは浮かばない。悩んでいる間に時間も過ぎていく。体勢をうつ伏せからあお向けに変えても同じだ。
「……うーん」
頭の中に浮かぶたくさんの廃案を一度整理しようと、奈亜が大きく唸った時だった。
「……お前、さっきからなにやってんの? 腹でも痛いのか?」
「へ?」
頭の上から唐突に聞こえた声に驚いて、奈亜は素っ頓狂な声を出す。目を開けると、そこには変なものでも覗き込むような顔をした峻がいた。
「しゅ、峻!? いつからいたの!?」
「いつからいたのってお前……最初からいただろうが」
「そ、そういうことじゃなくて! いつから覗いてたのってこと!」
「だいたい三分くらいは見てたかも」
「そんなに!? も、もぉ! もっと早く声かけてよ!」
「なかなかおもしろかったぞ。新種の生物を観察してるみたいで」
そう言って峻がニヤリと笑う。奈亜は、顔の表面温度が一気に高まるのを感じながら、それを峻に悟られないように背中に敷いていた枕を投げつけた。
「バカ! 女の子の顔を凝視するとかサイテー!」
奈亜は体勢をうつ伏せに変えて、顔を布団に埋もれさせる。顔が赤いのを隠したかったのだ。
「耳も真っ赤だぞ」
「――っ!」
奈亜の思惑を見事に見抜いた峻の一言。その一言で羞恥心も限界を超えた奈亜は、体を素早く反転させる。そしてその勢いのまま、峻に回し蹴りをくらわせた。しかし、それも峻に避けられてしまう。
「な、なんで避けるのよ!」
「お前、行動がワンパターンなんだよ」
「――もう知らない! 帰る!」
肩をすくませる峻を見て、今度はついカッとなってしまう。そして頭に浮かんだ言葉をよく考えもせずに口に出す。
(しまった!)
そう思ってからではもう遅い。帰ると言ってしまった手前、このまま立ち尽くすわけにもいかずに、奈亜は部屋のドアへと体を向けた。しかし――、
「ちょっと待てよ」
後悔しながら一歩目を踏み出したところで、右腕を峻に掴まれて引き止められた。
「なによ!」
引き止められた嬉しさを感じる間もなく、奈亜の口からは裏腹な言葉が出てしまう。峻の手を払うように体を動かす。しかしその手を払っても奈亜はもうドアへと向かおうとはしなかった。
「なにか用でもあるの?」
奈亜が問いかける。心の中にはまた不安が広がり、それを反映するように奈亜の表情も曇りがちだった。
「あるよ」
「なに?」
峻の口元が動く。その形で発せられる言葉がなにか瞬時に理解し、奈亜はそれに被せるように聞き返した。
「お前、明日暇か?」
それは奈亜が一番聞きたかったセリフだった。だが、それを悟られぬように返す言葉は素っ気ない。
「……暇、だけど?」
「よし、明日飯食いに行くぞ! 母さんには晩飯いらないって言っておく」
峻が笑顔で言う。その笑顔に奈亜の心も弾みだす。
「どこいくの!?」
さっきまでの素っ気なさはどこへやら、奈亜は急いて聞く。
「縦陸市のイタリアンの店。お前、行きたがってただろ?」
「『夕凪』の!? どうやって!?」
奈亜が驚いて聞くと、峻は視線を逸らして頬をポリポリと掻きながら答える。
「たまたま空いてたんだよ」
「……くすっ」
バレバレの嘘をつく峻が面白くて、奈亜の口から笑いが漏れる。
(嘘ばっかり)
奈亜がそう思うのも無理はない。イタリアンレストラン『夕凪』は現在、大人気のレストランだ。予約も一ヶ月以上先から取らなければならないことも奈亜は知っていた。
だからこそ奈亜は嬉しかった。一ヶ月以上前から峻が明日の為に準備していてくれたことが分かったからだ。
「じゃあ、決定だな。明日、夜の七時に駅前の公園で待ち合わせだ」
「ここから行くんじゃないの?」
「すまん。昼間はバイト。終わったらそのまま行こう」
「そっか……うん! 分かった」
奈亜の少しだけ残念そうな顔を見せたものの、すぐに笑顔になると頷いた。
これで例年どおり予定ができた。毎年の恒例行事、自分自身の誕生日。この日だけは他の誰でもなく、峻と過ごすと決めている。と言っても奈亜から誘ったことは記憶にないが。
「そうと決まれば! 景気づけにゲームでもしようよ!」
「なんでだよ!」
「まぁいいじゃん! 久しぶりに二人で『ジャンキーコング』でもやろうよ」
「……また古いゲームを」
「だめ?」
「あぁ、分かったよ。でも、あんまり遅くまではできないぞ」
「うん!」
話が決まり、奈亜はドアへと歩く。しかし、その腕もまたしても峻に掴まれる。
「峻?」
振り返り、不思議に思った奈亜が首を傾げる。目の前の峻が満面の笑みを見せた。
「誕生日おめでとう」
「あ……」
反射的に壁にかかった時計を見ると、長針と短針がちょうど真上で重なっていた。午前零時、日付が変わって八月の十五日。ちょうど十七年前の今日、奈亜は生まれた。そして、その四か月前に峻が生まれている。隣同士の家、家族ぐるみの付き合い。二人はすぐに仲良くなって、そして今日まで幼馴染の関係であり続けている。
奈亜は自分と峻の歴史を少しだけ思い返した後、笑顔で言った。
「ありがとう、峻」
「ふぁ……」
峻は部屋に戻ると抑えきれずに欠伸をした。時刻はすでに深夜の三時過ぎだ。夏ということも考えると、あと一時間もすれば空が白み始めるだろう。
「……寝なきゃ明日も早いのに」
倒れるようにベッドに寝転がる。奈亜とのゲームが長引いてもう限界だった。
「ふぁ……そういや……携帯……充電しとかないと……な……」
頭でそう思ってももう体が動かなかった。手に持った携帯の明かりを視界の端で捉えながら、峻の意識は深く深く落ちていった。