6.
「お前はバカか?」
そう言われて、峻はコップを洗っていた手を止めた。顔を上げると、カウンター越しの席で、頬杖をついたままニヤリと笑っている海人と目が合った。が、峻はすぐに視線を手元のコップに戻す。そしてまた手を動かし始めた。
「それにしても、いつの間にか課題プリントを全部解いちゃうなんて、すごく峻君らしいねー。……ふふふっ、また笑えてきちゃった」
海人の隣に座る優希が、口元を手で押さえる。峻が奈亜の課題をいつの間にかやってしまっていたというこの話題で、先ほどまで海人と優希はひとしきり笑った後なのだ。
そして、峻の汚点ともいえるこの話題を、『フォレスト』で海人と優希に提供したのはもちろん――、
「でしょー? でもすごく助かった! ありがとー、峻」
最上級の笑顔を見せる奈亜だった。
「ねぇ、峻」
「…………」
奈亜が下から覗き込むようにして声をかけるが、峻はまったく反応しない。
「ねぇってばー……もぉ! マスター! このバイトさん、接客態度悪いんだけどー!」
何度呼びかけても峻が反応しないため、奈亜はムスッとした表情で店の奥に控えるマスターに言う。マスターは微笑みとも苦笑いともとれる静かな笑みを奈亜に返す。
「……お客様、他のお客様の迷惑ですから即刻お帰り下さい」
と、コップをすべて洗い終わった峻が顔を上げて言った。
「他のお客さんってどこ?」
奈亜がわざとらしくきょろきょろと店内を見回す。海人、優希、奈亜の他に客の姿はない。いつもどおりの光景だ。
「……今に来る」
「でも今はいないじゃん」
「…………」
峻は無言で視線を落とすと、さっき洗ったばかりのコップをまた洗い出す。
「あ、逃げたー」
「逃げたな」
「逃げたわね」
奈亜、海人、優希の順に最初から打ち合わせしていたのかと思うほど、見事な三連打を峻に言い放つ。
「――っ!」
峻はコップを置くと、我慢も限界とばかりに三人を睨みつけて言う。
「いったいあんたらなにしにきたんだ!」
「峻の面白い話があると奈亜から聞いて」
「私もそれを海人から聞いて」
「私は峻の面白い話をするために」
しかし三人の反応はいたって冷静で、むしろこの空気を面白がってさえいるようだ。
「――――っ!!」
峻がさらに一喝しようと口を開いた時だった。
チリンチリンと鈴が鳴り、入り口のドアが開いた。先ほどまで峻の待ち望んでいた他の客だったのだが、今が一番悪いタイミングでの来店だった。
「い、いらっしゃいませー」
怒りマークの出ていた表情を無理やり笑顔に変換させる。そんな峻の引きつった笑顔の先、開いたドアから入ってきたのは――、
「こんにちはー……ってあれ? 奈亜?」
「あー、董子!」
季節が夏になり、装いもすっかり軽装になった董子だった。春よりも少し伸びた髪を今日はツインテールに結っていた。肩に下げた小物入れ用のバッグの他に、紙袋を持っている。
「え? あれ? どうして、奈亜が?」
店の入り口に立ったまま、董子が驚きの声を上げた。奈亜がいることを想定していなかったのだろう。
「たまたまだよ。すごい偶然だね!」
奈亜は嬉しそうに言うと、自分の左隣の席をポンポンと叩く。
「ここ空いてるから座って」
「う、うん」
董子はそう答えたものの、なぜか数瞬の間逡巡する素振りを見せた。しかし結局その席に腰を下ろす。
それを確認した後、すかさず峻が水を入れたコップを董子の前に差しだした。
「いらっしゃい、董子。はい、水。外は暑いだろ?」
「ありがとう、峻君。うん、すごく暑い。ここに来るまでに倒れるかと思った」
峻に微笑みかけながら、董子は出された水で喉を潤した。
「まぁ、ゆっくりして行って。注文、決まったら教えてください」
「うん、分かった」
董子の返答に峻は頷くと、いったん店の奥へと入っていく。マスターに一声掛けるためだ。フォレストの昼の営業では、客が来た際はマスターに伝えるのがルールになっている。客が注文する品目によっては、マスターに頼らなければならないことがあるからだ。非常に効率の悪いルールだが、逆に言えばそれをするだけの余裕が店にあるということだ。ストレートにいうと、基本的に暇なのである。
一方の董子は、備え付けのメニューを手に取って、それに目を通す。そして注文するものを決め、メニューを元の位置に戻した。
「なににしたの?」
「えっと、アイスレモンティー」
「そっかー、私としてはミルクティーの方がおすすめ。今度飲んでみて」
「うん、今度そっちも飲んでみるね」
笑顔で会話を交わす奈亜と董子。その様子を静観していた海人が口を開いた。
「奈亜、その子が噂の藤宮さんか?」
「あ、うん! 董子、紹介するね。こっちの人たちも知り合いなの。男の人の方が、八島海人さん、私と峻の小学校からの先輩。それでこっちが瀬川優希さん、海人さんの彼女さん。二人とも甲城大の二年生なの。海人さん、優希さん、この子がいつも言ってる藤宮董子さん、私の友達」
奈亜が自身の右へ左へ視線を移しながら三人をそれぞれ紹介する。紹介された三人は、それに合わせて「はじめまして」と軽く挨拶を交わした。
「いやー、話には聞いていたけど。すごく可愛い子だな」
「え、えぇ? 私がですか? そ、そんな……」
挨拶を終えた直後、開口一発目の海人の言葉に董子は激しく動揺する。
「いきなりナンパしないでください、海人さん。しかも優希さんの目の前で」
「いいのよ、奈亜ちゃん。この人、いつもこうだから……ね?」
「……ごめんなさい」
優希の冷ややかな視線を浴びて、海人は小さくなる。そこへ峻が奥から帰ってきた。帰ってくるまでに時間がかかったのは、マスターの指示で店の倉庫に行っていたからだった。
「ん? 海人さん、なにやってんですか?」
「……聞いてくれるな」
「ナンパも大概にしないと、そのうち優希さんに海に沈められますよ?」
「分かってるのかよ!」
「他のことで優希さんは怒らないでしょ?」
「……たしかに」
峻は肩をすくめると、董子の方に視線を移す。
「董子、注文決まったか?」
「うん、アイスレモンティーをお願いします」
「了解。ちょっと待っててくれ」
注文を聞いて、峻はまた奥へと入っていく。それを目で追っていた優希が今度は口を開いた。
「董子さんは峻君と同じクラスだったよね? 峻君、授業中はどんな感じなの?」
「え、授業中ですか?」
「うん、峻君は自分のことはあまり話してくれないから。奈亜ちゃんのことならよく話してくれるんだけどね」
優希がニッコリと微笑んで言う。董子は少し考えた後、
「峻君はいつも真面目に授業を受けていますよ。ノートとかも全部取ってるし。逆に私の方が見せてもらってるくらいです。あとは……あ、午前中の授業はよく欠伸をしてます。朝、弱いみたいだから。すごく眠そうで……でも寝ないんですよ。寝そうになるとほっぺたを自分でつねったりだとかしてて。でもそれがすごく面白くて。一度、私はそれで笑ってしまったんです。クラス中から注目されてすごく恥ずかしかったなぁ」
「ふーん、そうなんだ。峻君は授業中そんな感じなんだ。でも、董子さんはよく見てるのね、峻君のこと」
優希の意地悪な笑顔を見て、董子は激しく狼狽する。自分が今言ったことの意味に気づかされたからだ。
「え……あ……い、いえ! 見てるとかそういうことじゃなくってですね! 峻君がむにぃってほっぺたをつねってるのとか可愛くて……ってこれも違う!」
頬を染めながら、あうあうと喘ぐように董子が弁解するも、混乱しているためによけいに墓穴を掘ってしまう。その横で奈亜が少しだけ口を尖らせている。
「……峻のやつ、やっぱり今も授業中眠そうにしてるじゃん。最近は眠くないっとか言ってたくせに」
「そうなの?」
奈亜の呟きに董子が反応した。
「うん、それに昔はそのつねるやつは私がやってあげてたの。あいつ、横でいっつも眠そうにしてるから起こしてあげてたの」
「お前のは起こすとかそういう次元じゃなかったろ」
そう言いながら手にアイスレモンティーが入ったカップを持って峻が戻ってきた。
「でもでも、そのおかげで起きれてたでしょ! 授業中に寝て怒られることはなくなったじゃん!」
奈亜が体を椅子から浮かして言う。峻はそんな奈亜の前を通り過ぎて、董子の前にカップを置く。
「はい、董子。お待たせしました」
「ありがとう、峻君」
目の前の仕事を済ませると、カップを乗せてきたお盆を脇に抱えて峻は奈亜の方を向いた。
「あぁ、そうだな。でもお前のつねりが痛すぎて、大声出すからそっちで怒られてたけどな」
「それは……しょうがないでしょ?」
「しょうがなくあるか! つねるにしたって限度があるだろ! なんでつねってからひねるんだよ! 回転を加えるな! 回転を!」
「でも、今でも自分でつねってるんでしょ? 眠くないとか言ってたくせに」
「…………董子?」
峻の視線が董子を捉える。視線が合った瞬間に董子はすぐさま頭を下げた。
「峻君が内緒にしてるの知らなくて……喋っちゃった。ごめんね」
頭を上げた董子は、片目を瞑って舌を少し出すと、やっちゃったという風に峻へ両手を合わせた。峻はため息をつくと、「もういいよ」と言ってお盆を奥に置きに行った。そしてすぐに表へ帰ってくる。峻が店の外へと視線を向けると、見るからに暑そうな日差しが降り注いでいた。
たまらないなっと内心に思った後で、峻は海人、優希、奈亜、董子の前にざっと視線を流した。全員のコップに飲み物が残っているのを確認し、自分用に置いてあるコップに水を注ぐ。それを一口飲み、店のカレンダーに目を向けた。八月十五日はあと五日に迫っていた。