3.
「ストライクアウト!」
審判が片手を上げて高らかに宣言をする。ベンチからそれを見ていた脩一は軽く舌打ちをした。
(これでツーアウト、か)
センターバックスクリーンの電光掲示板に目をやる。二つの赤い光を灯すアウトカウントの横には凍りついたように動かない『1』と『2』の数字。逆に確実に動いていくのが、すでに『9』を差しているイニングだ。
九回裏、ツーアウト。一対二のまま迎えた最終回、ランナーは四球で出た一人が一塁上にいるだけだ。圧倒的に不利な状況である。しかし、ホームランが出れば逆転サヨナラという局面でもあった。
そのことを理解しながら、脩一はネクストバッターズサークルから立ち上がる。が、すぐによろけてしまう。――足が震えていた。
状況は理解した。だが、理解したからこそ脩一は震えていた。それは緊張から来るものではなかった。むしろ圧倒的な恐怖から来るものであった。
詰めかけた大勢の観客の視線が、ベンチから見守る仲間の声援が脩一に突き刺さる。そして、なにより脩一にとって一番怖いことは、自分がアウトになれば試合が終わるということだ。それはつまり、先輩たちの最後の夏を自分が終わらせてしまうということだった。
(それだけは……嫌だ!)
脩一は自分を奮い立たせる。それが功を奏したのか、一応震えは止まった。
サインを確認した後で、右打者用のバッターボックスに入る。そして相手のピッチャーを睨みつけた。
(このピッチャーは初球をストレートから入ることが多かったな。……よし、初球から狙って行こう!)
頭の中で相手ピッチャーのデータを思い返して、脩一は構える。狙いはストレート。甘く入ってくれば初球からでも振っていくつもりだ。
相手ピッチャーが投球モーションに入る。それと同時に脩一もテイクバックを取り、タイミングを計った。
そして、相手ピッチャーの腕が素早く振られ、初球が投じられた。脩一はストレートのタイミングで左足を踏み出し、スイングの初動にかかる。……が、ボールが来ない。
「ぐっ!」
脩一は思わず声を漏らしながら、初動しかけた腕を止める。前方に体重移動をした勢いで上体が倒れそうになった。
ピッチャーの手から離れたボールは、大きく弧を描くようにして上体を支える脩一の眼前をあざ笑うかのように通り過ぎてキャッチャーのミットに収まった。
「ストライーク!」
一拍置いてから審判が宣言をした。
(……初球、カーブか)
脩一は悔しそうに相手ピッチャーを見る。相手ピッチャーの投じた縦に大きく割れるカーブは球速が遅く、ストレートと読んでいた脩一のタイミングでは速すぎた。見事に裏をかかれた形だ。
(次は……? アウトコースに見せ球のスライダー、か?)
脩一は再び配球を読もうと頭を回転させる。そして、次の球をストライクからボールになるスライダーと読んだ。
相手ピッチャーの決め球をここで見せておくのは悪くない手だ。バッターがうまく手を出してくれれば打ち取ることも可能だろう。
(その見極めが大事だな)
脩一はフッと短く息を吐くと、打撃フォームを構えた。相手は必ずボールにしてくるだろうが、万が一甘く入ってきたら強打するつもりだ。
だがまたしても、脩一の読みははずれてしまう。相手ピッチャーが投げてきたのは一転してストレートだった。コースが少し甘かったため脩一は反応してバットを出したのだが、今度はタイミングが遅い。
鈍い音がしたボールはガシャンと音を立てて一塁よりのバックネットに突き刺さった。これでツーストライクだ。
(……追い込まれた)
あと一球、ストライクを取られると終わってしまう。それを意識すると、心臓の鼓動がドンドンと速くなっていく。
(次は一球外してくるはずだ)
脩一はまた配球を読む。しかし、それはすでに彼の頭にあるデータを使ったものではない。脩一自身の願望だった。
『一息つきたい』
そんな思いの表れだ。
しかし、無情にもその思いは通らない。相手バッテリーの配球は『三球勝負』だった。
脩一の眼前を矢のようなストレートが通過していく。脩一はまったく反応できないままにそれを見送った。ボールがキャッチャーのミットに収まる音がやけに大きく響く。――世界が一瞬止まった気がした。
「ボール!」
審判の声を合図に止まった世界が動き出す。観客席では観客が一斉に息を吐く。それほどきわどい判定だった。ボール半個分アウトコースに外れていたようだ。
キャッチャーは余程悔しかったのか、ミットを動かさずじっと構えている。ピッチャーは天を仰いで大きく息を吐いていた。
その中で脩一はまさに混乱の境地にあった。九死に一生を得たとはいえ、一瞬負けたと本気で思ったのだからしかたがない。さらに自分の予想がことごとく外れていることが、その混乱に拍車をかけていた。
(……分からない。次に来るのがなにかが……ストレート? スライダー? いったいなにを投げてくるつもりなんだ……?)
あまりの重圧に脩一は立っているのがやっとの状態だった。できることならこの場で尻餅でもついて座り込みたいところだ。しかし観客の応援が、仲間の声援がそれを許してくれない。いつもは心強いはずの声たちが、今はまるで壁を形成しているかのように脩一の頭上に圧し掛かっていた。今の脩一には、周りにすべてが敵に見えてしまう。
(やめてくれ……俺は……)
脩一の心が折れてしまいそうになったその時だ。
「浅田君! 頑張れ! 打てー!!」
どこまでも明るい声が脩一の耳に届いた。塞ぎこみそうになった脩一の心にも確かに届いた。
その声を聞いた瞬間、脩一の脳裏にある出来事が蘇った。そう、あれはあのテスト勝負の時の出来事だ。奈亜と二人きりで勉強をした夜のこと。あまりに会話がなかったために、なにか喋ろうと思った。しかし、元来女子と喋るのが苦手な脩一の口から出た言葉はデリカシーの欠片もない一言だった。
「愛沢さんはいろいろな人と付き合ってるね」
「え?」
脩一が漏らした一言を聞いて奈亜が教科書から顔を上げる。そしてすぐに口をとがらせた。
「それって私が別れてばっかりだねって言ってるのと同じだと思うんだけど」
その返しに脩一は慌ててしまう。
「い、いい、いや、そういうつもりで言ったわけじゃないよ! はははは……」
「ほんとぉ?」
「ホ、ホントホント」
背中を冷や汗が一筋流れていくのを感じながら、脩一は己の無神経さを呪う。こういう時、峻のようにうまく喋れればといつも思っていた。しかし脩一の後悔はこれで終わらない。
「じゃあ、どういうつもりで聞いたの?」
意外にも奈亜が話に乗ってきてしまったのだ。シャーペンを机の上に放り投げて話を聞く体勢に入ってしまっている。これでなにも言わなければ、それこそこの後の雰囲気は壊滅的になることは容易に想像がついた。
(まいったなぁ……)
脩一は内心で激しく後悔しながら奈亜への返事を考える。自分の持っている奈亜の情報の中からなるべく当たり障りのない質問を作り上げた。
「愛沢さんはさ、告白してきた人とは絶対に付き合うって聞いたけど本当?」
「うん、そうだよ。でもそれがどうしたの?」
奈亜が首を傾げると、同時に最近染め直した黒髪が肩口を滑る。そしてその髪の隙間から覗く首筋に、なんとも言えない色気を感じて、脩一は視線を逸らす。
「あ、えっと、そういうの怖くないのかなって思って」
「怖い?」
「うん。だってどんな人か分からないわけじゃん。性格が悪いかもしれないし、暴力とか振るうやつかもしれない。そう考えると怖くない? 一度様子を見てからって思わない?」
その問いに奈亜が笑顔で即答する。
「思わないよ。だってどんな人か理解するために付き合うんだもん。外から見てるだけじゃ分からないものを見るために付き合うの。たしかに外見は豪勢なお城でも入ってみたらハリボテかもしれないよ? でもそんなことをずっと考えても分からない。だったら私はまず入ってみる。で、ハリボテだったら出てくる」
その回答に脩一は呆気にとられてしばらく言葉を失ってしまう。そのアグレッシブさに敬意を表したい気分だ。
「でも……簡単に出てこれるの? そのハリボテ城から」
「出てこれるよー。だって私から告白したわけじゃないからね。告白するってことは、自分の城に相手を招くってことだから。城の主は動けないけど、招待客は帰ることだってできるでしょ?」
そう言って奈亜がウィンクをした。
「じゃあ、例えば愛沢さんが告白した時は?」
「うーん……したことないから分からないけど……もし私のお城に招待してもいいかなって人ができたら、その人は絶対帰さない。ふふふ」
「……なんか危ない表現だなぁ」
「あー、その言い方ひどくない?」
「いやだってさー!」
その後も二人の会話はしばらく続いた。脩一は、いつの間にかスムーズに女子と話せている自分に少し感動した。そして、目の前にいる奈亜のことが少し理解できて嬉しかった。
記憶を巡り、現実に意識が戻ってきた。
脩一は自分でも驚くほど落ち着いていた。
(そうだよな……なにが来るかなんて考えてるから駄目なんだよな。ただ来た球を打てばいい)
荒れていた息が整っていく。これまでにないくらいに意識が集中していくのを脩一は感じた。
相手ピッチャーが投球をする。先ほどまでまったくついていけなかったボールが、今はスローモーションでこちらに向かってきていた。その回転の方向、縫い目までハッキリと見える。
脩一は自分の体の近くまでじっくりとボールを引きつけて、バットを繰り出した。そのバットがボールを捉えた瞬間、脩一は勝ったと確信した。