董子の願い
テストの結果発表から一夜明けた次の日、峻は教室にいた。最近は騒がしい日々が続いていたが、今日は至って普通の日だった。むしろテスト関連の行事がすべて終わったことにより、とても気が抜けた一日を過ごしたと言ってもいい。
そんな一日が終わって、峻は今教室に一人残っている。本当ならテストが明けて再開したバイトに向かっているはずの時間だったが、今日だけはそれより優先すべきことがあった。
――董子との約束だ。
奈亜との勝負に勝った場合、董子のお願いを聞くという約束をした。今日はそのお願いの内容を伝えたいから教室で待っていてくれと董子に言われている。
(……董子のお願いってなんだろう?)
教室で待っている間、何度となく峻は思案したが、残念ながらピンッとくる答えは出なかった。董子が自分の口で伝えてくれるのを待つ他ない。
その董子はというと、今日は吹奏楽部のミーティングがあるとかで部室に顔を出している。あくまで自分のことよりも部活全体のこと優先するところが董子らしい。峻は多少の巻き添えをくらった形ではあったが、特に不快には感じなかった。むしろその方が董子らしいとさえ思う。
(あいつと会って、もう一年か)
峻は一年前を思い返した。
一年前のちょうど今頃、初めての席替えで隣の席になったのがきっかけだった。その時も董子は小説を読んでいた。読んでいた本は、峻も大ファンである『金田小五郎』だ。同じ趣味を持つ相手だと分かった次の瞬間、峻は董子に声をかけていた。
声をかけた時の董子の反応を峻はたぶん一生忘れないと思う。董子は飛び上がらんばかりに体をびくつかせた後、泣きそうな目で峻を見てきたのだ。
その時ばかりは峻も、俺ってそんなに怖く見えるのか? と思わず自問してしまった。
しかしそれも『金田小五郎』の話題を振るまでだった。その話題が出た瞬間、今度は目を輝かせて『金田小五郎』について董子は語りだした。
「どの話が好きですか?」
「あの犯人の考え、納得できましたか?」
「あそこの時間差トリックが秀逸ですよね?」
そんな質問が次々と繰り出された。そしてそのすべての質問に峻が答えた後で、ハッと我に返った董子は顔を真っ赤にして言った。
「ご、ごめんなさい! わ、私、藤宮董子っていいます。よろしくお願いします」
赤くなった顔を持っていた本で半ば隠しながら上目遣いで見てくる董子を、峻は素直に可愛いなと思った。事実、董子は可愛い。これは間違いない。
それから一年、よく一緒にいるようになって、小説の話題や日常のこと、勉強のことなどいろいろなことを話す。董子もその時々でいろんな顔を見せてくれる。特にここ数週間の董子は峻も驚くほどに積極的で、かつ魅力的な一面を見せてくれた。
(董子、変わったよなぁ……でもなんで?)
董子の新しい一面が見られるのは、峻にとってもいいことなのだが、なぜいきなりそういう風に変わったのかが分からない。なにかきっかけがあったはずなのだが……。
(うーん……)
少し頭を働かせてみると、漠然としたイメージが湧いてきた。空に漂う雲のようなイメージを集めて固めていく。だんだんとそれが輪郭を伴ってきて、ある種の答えが峻の頭の中にできあがった――、
「桐生君、お待たせ」
「おわっ!」
急にかけられた声が、峻の頭のイメージを綺麗に掃き出してしまう。一度霧散したイメージはそう簡単に戻りそうにない。
「ご、ごめん。驚いた?」
峻に考え事をさせていた本人が、申し訳なさそうに峻の顔を覗きこんでくる。それを見て峻は小さく笑う。
「『なさい』がなくなっただけ、仲良くなった証拠かな」
「へ? なんのこと?」
「こっちの話だよ」
首を傾げる董子にそう言うと、峻はかけていた椅子から立ち上がった。
「で、そっちの話っていうのは?」
峻が話を振ると、董子はうつむきかげんになる。
「う、うん。えっと、お願いがあります」
「なんだ?」
お願いがあることはすでに分かっているのに、それを丁寧に言う董子がおかしくて、峻は含み笑いを噛み殺しながら先を促す。
「その……桐生君のこと名前で呼んでもいいですか?」
董子がうつむいたまま絞り出すような声で言った。必死に言い切ったという感じだ。しかし一方の峻はそれにうまく反応を返せない。
「は……?」
思わず口から息が漏れた。
「え、えっと駄目かな?」
董子が慌てた様子で聞く。峻の反応が芳しくなかったからだろう。
「いや、いいけど……」
「けど?」
「そんなのでいいのか? 名前で呼ぶくらいいくらでも呼んだらいいけどさ。そんなのテストの勝ち負けなんて関係なしに呼べばいいのに」
峻は隠さず本音を言った。肩透かしをくらった気分だったからだ。峻からすれば、名前で呼ぶことなどさして重要とは思えない。しかし董子はそうは思っていないようだった。
「私はそれだけでいいの。それで十分なの」
董子が首を軽く振る。その表情はとても満足そうだ。
「ふーん……ならいいけど」
「うん、ありがとう! じゃ、じゃあ早速呼んでみるね」
董子は笑顔を見せた後、真剣な表情になる。すごく気合の入った顔だ。
「き……じゃないや。しゅ、峻君」
「…………」
董子は気合が入りすぎて顔を赤くしている。峻は自分が董子に恥ずかしい単語を言わせているような気分に陥ってしまう。……自分が悪人に思えた。
「ちょ、ちょっと桐生君! 返事してよぉ! 放置されたらなんかすごく恥ずかしいよ、私」
「え、えぇ? 返事しないと駄目なの?」
「当たり前です!」
董子は軽く口をとがらせた。しかし峻から言わせてもらえば、今さら返事をするのが恥ずかしいのだが。
「じゃあもう一回いくね。――峻君」
「おぅ……これでいいか?」
「えへへ、うん! オッケーです!」
満足いったのか董子はとても嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、なぜか照れてしまった峻は窓の外へと視線を向けた。
時刻は夕暮れ時だが、まだ太陽がその存在を主張していた。これからもっと主張していくことだろう。
季節がまた一つ巡り、春が過ぎていく。――そして、今度は夏がやってくる。