6.
奈亜を追いかけて正面玄関を出ると、外は小雨が降っていた。朝から怪しげな空模様だったため、あらかじめ傘を用意していた脩一は玄関先でそれを広げた。同時に出てきた生徒の多くが同じように傘を広げている。
しかし奈亜は、そんな空模様を意に介さず小走りで先を行く。それが脩一にとっては意外だった。脩一の先入観として『女の子は雨に濡れるのを嫌う』というのがあった。もちろん男子だって濡れるのは嫌だが、どちらかというと男子の方がそういった面では無頓着なイメージがあった。むしろ脩一自身、もし部活があったならこれくらいの雨なら練習をしただろう。
「浅田君、おいてっちゃうよー!」
しかし目の前を行く奈亜は、雨の中をまるでスキップでもするかのように軽やかに歩く。それに彼女の左右を歩く人々が差すカラフルな傘と小雨がマッチして、まるで一種のダンスを見ているようだった。
脩一は暫し呆然となりながらも、足だけは動かして奈亜を追いかける。本来ならば「傘を使っていいよ」というセリフの一つでもでてくるところなのだが、脩一の口からそのセリフが紡がれることはなかった。
脩一と奈亜は取りとめのない話をしながら帰り道を歩く。脩一は、途中何度かさりげなく奈亜に傘を差しだすものの、奈亜はその思惑を知ってか知らずか楽しそうに話しながら傘の下から出て行ってしまう。
奈亜が楽しそうに話す内容は、ほとんどが峻に関するものだった。峻とのエピソードを自慢げに、そして楽しげに話し、自分が現在峻と喧嘩中なのに気づいてフンッと頬を膨らます。まさに七変化の如くころころと表情が変わる奈亜が、脩一には微笑ましく感じた。
そうこうするうちに、二人は峻の家へとたどり着く。奈亜は峻と喧嘩中でも勉強場所は変えないようだ。脩一にとっては数日ぶりの来訪だった。
家に入り、奈亜の後に続いていつもの勉強部屋に行く。部屋に入ると、すでに勉強を始めていた峻と董子が驚いたように脩一に視線を向けた。
「脩一、お前どうして……?」
峻は思わず脩一に問いかけたが、数拍後には合点がいったようで視線を奈亜へと移した。
「奈亜! お前、昨日のことで脩一を巻き込んだな!」
ズバリ確信を突いた言葉に、脩一は内心でさすがだなと思った。意思の疎通がばっちりだ。
「別に強引に連れてきたわけじゃないから!」
「ホントか?」
また峻の視線が脩一へと戻ってくる。猜疑心の塊のような視線だった。
「ホントだ。俺もこっちに混ざりたかったし、かえってよかったよ」
脩一が奈亜をフォローしてやると、峻は面食らったようにまばたきした後、意味深な視線を今度は董子に向けながら「なるほどねー」と呟いた。それと同時に峻の顔にニヤリとした笑みが浮かぶ。脩一はなにかを勘違いしている峻の顔に一発叩き込みたい衝動を抑えつつ、苦笑いを返した。
「ね、私の言ったとおりでしょ? というわけで部屋から出てって」
「は?」
勝ち誇った表情で峻に向かって言い放った言葉の後半の意味が分からず、峻が首を傾げた。脩一も声は出なかったものの同じ顔をしている。
「だから、部屋から出てってよ。このままみんなでやったら董子に勝つための秘密特訓の意味ないじゃん!」
「お前なぁ……」
峻が呆れたようにうな垂れる。脩一はまた峻の返しから言い合いが始まることを覚悟して身構えた。しかし……、
「分かったよ。お前ら二人が勝負するって言った以上、仕方ないよな。出てくよ」
あっさり峻は折れた。どうやら二人の勝負とやらに水を差すつもりはないようだった。
「董子、悪いな。折角教科書とか広げたけど、移動しよう」
「うん、いいよー」
董子は朗らかに笑って出したばかりの教科書を鞄に入れると立ち上がる。脩一はその様子を少し憮然とした表情で見ていた。しかし董子の後方に立っていた峻がなんとも言えない生暖かい視線を向けてきていることに気づくと、顔を赤らめてそっぽを向いた。
「峻、見てなさいよ! 私の実力の恐ろしさを!」
「今から出ていくから見れないな。残念」
「そ、そういうことじゃないわよ! ふん! 結果を見て、泣いても知らないからね!」
「……俺が勝負するわけじゃないんだが」
いつも通りの掛け合いをしながら、峻と董子は部屋を出ていった。
(ん? そういえば峻たちはどこで勉強をするんだ?)
脩一の頭に疑問がよぎる。この家の間取りは何度か訪れるうちにだいたい覚えていた。この家にある部屋で勉強できそうな部屋といえば、この部屋を覗くと一階のリビングぐらいだった。しかしそこには峻の母親である恵美がいる。夕食の支度などを始める時間帯でもあるし、その邪魔をしてまで勉強するのは董子が遠慮してしまうはずだった。だとすればどこだろう? そんなことを考えていると、
「えー!!」
ドアの向こうから董子の声が聞こえた。なにかにすごく驚いたような声だった。
(いったいなにがあったんだ?)
脩一は、今すぐに立ち上がって確認しに行きたい衝動に駆られたが、目の前の奈亜がそれを意に介さず勉強を始めようとしているためそうもいかない。
(ま、峻のことだから大丈夫か)
先ほど見せたニヤリと笑う親友の顔を思い出す。
(よし、やっぱり後で仕返ししよう)
脩一はそう心に決めると、頭を切り替えて久しぶりに手に入れた勉強時間を有意義に使うことにした。