5.
静寂を破り、教室にチャイムの音が鳴り響く。それと共に教卓にいた担当教諭が「そこまで」と声を上げた。
その言葉が合図になっていたかのように、教室の各所から一斉に息をつく音が漏れた。安堵や落胆を含んだため息だ。
一番最前列でテストを受けていた脩一もそれは同じだった。彼の場合、ため息の内訳は安堵が七割、落胆が三割といったところか。ただの感触ではあるが、今までの経験上赤点は回避できたはずだ。
(けど……あの二人には敵わないだろうなぁ)
脩一の頭に浮かぶのは、峻と董子の顔だった。二人とも同じクラスなのだが、テストが行われている間は妙に話しかけづらい。それがなぜなのか脩一には見当がついている。
脩一はテストの前日からは毎回野球部の連中と勉強会をする。勉強会といえば聞こえはいいが、その実はただ仲間と騒ぎたいだけだ。日頃から野球ばかりの彼らにとっては、テスト前の一週間は貴重な休養期間ともいえるからだ。それに部員の大半はとりあえず赤点回避だけできれば上出来と考えるやつばかりだった。
その野球部の中で脩一の成績はトップに近かった。だから毎回その勉強会に召集され、他の部員に勉強を教える。しかし、残念ながらそれは脩一にとってあまりメリットがなかった。一応、反復練習にはなるのだが、峻たちときっちりと基礎を終わらしている脩一にとってはまさに『石橋を叩いて渡る』状態だった。
そして、その最後の時間に解いておくべき問題を解くことができないから脩一のテストの結果は常に詰めが甘いものになっていた。
脩一は筆記用具を鞄へとしまうと、椅子の背もたれに体をあずける。安っぽい作りの背もたれの感触は固い。
体によくないだろうな、などと頭の隅で考えながら、脩一は他の野球部のメンバーが来るのを待つ。テスト期間の間、席順は出席番号の順番に戻る。苗字が『浅田』である脩一はこのクラスの一番手だった。そのため席の位置は、廊下側の一番前の席である。つまり教室の前側のドアに一番近い位置だ。いつもそのドアから野球部のメンバーは入ってくる。
今日も同じのはずだ。
「おーす、脩一!」
それから二分と経たないうちに、脩一の予想通りにメンバーが教室に集まってきた。
「テストどうだった?」
「まぁまぁだな」
「とか言って、お前はどうせできてるんだろー?」
メンバーの一人が冷やかしてくる。それに脩一は苦笑いを向けながら、内心で(お前よりは間違いなくな)と呟いた。
「さ、今日も勉強しようぜ! あ、息抜きした後な」
「息抜きは勉強の合間にするもんだろ。お前、馬鹿じゃね」
「うるせー! まぁ、明日は歴史とかだしなんとかなんだろ」
「そうだなー」
どこからそんな自身が湧いてくるのか分からないが、すでにいつも通り遊ぶ気満々のメンバーを見て、脩一は小さくため息をついた。その時だった。
「あ、いた! 浅田君!」
むさ苦しさをまとう低い男声を飛び越して、その高く明瞭な声が脩一の耳に届いた。その声に反応して脩一が顔を上げた。脩一の視界に映ったのは予想外の人物の姿だった。
「あ、愛沢さん!?」
「こんにちはー」
そこには脩一に微笑みを向ける奈亜が立っていた。
「ど、どうして?」
脩一は少し狼狽した。奈亜とは一週間前ほどから喋るようになった仲だったし、しかもその場面には必ず峻がいた。そしてなにより、脩一は奈亜のような女の子と喋り慣れていない。
「ちょっとお願いがあるんだけど、聞いてくれるかな?」
奈亜は整った顔の前で手を合わせてお願いのポーズをとった。
「えっと……お願い、って?」
脩一は言葉を絞り出すように言う。自分の口とは思えないほどうまく喋ってくれなかった。
「あのね、私に勉強を教えてほしいの。明日は日本史でしょ? 確か浅田君、得意だったよね? 暗記のコツとか要点とか教えてくれない?」
「え……えぇ? だって、その、峻はどうしたんです?」
脩一には意味が分からなかった。奈亜は峻たちと勉強していたはずだったからだ。脩一は日本史などが得意ではあったが、それと同等以上に峻も点数を取る。暗記科目でもあることから、正直峻がいれば事は足りるはずだった。
脩一は無意識に敬語を使いながらそのことを奈亜に聞く。すると奈亜は峻の名前を聞くと顔をしかめた。
「その峻を見返さないとならなくなったの! あの馬鹿!」
「はぁ……?」
いまいち読み取れなかったが、とにかくまた峻と奈亜が喧嘩したことは分かった。
「そのために力を貸してくれない?」
「えっと……」
奈亜の茶色がかった瞳が脩一を見つめる。脩一はその瞳に射すくめられたように身動きが取れなかった。吸い込まれてしまいそうな感覚に陥る。これは幾人もの男を魅了してきた言わば『魔性の瞳』なのだろう。
脩一はその視線を振り払うかのように首を軽く振ってから奈亜の方に向き直った。
「残念だけど、俺はこいつらと勉強しなくちゃならないから……」
出だしは勢いよかった言葉の語尾が小さくなっていく。そのことに情けなく思いながらも脩一は一応の返事をする。
「あ、そうなんだぁ……」
奈亜が残念そうに周りに立っていた野球部のメンバーを見回した。すると、
「あ、あのー……いいですよ。俺たち自分らで勉強くらいできるし!」
なんとメンバーの一人がそんなことを言い出したのだ。
「ホント?」
「ホ、ホントホント! 明日は楽勝だなって話していたところなんで。な!」
「あ、あぁ! 大丈夫だよ。脩一、愛沢さんに勉強教えてあげろよ」
「お前ら……」
脩一は呆れたように肩を落とした。メンバーたちの発言が優しさから来るものではなく、ただいい格好をしたいだけだということが一目瞭然だったからだ。
「浅田君、お願いします」
奈亜がもう一度頭を下げた。メンバーたちに譲られた今、断る理由は脩一の頭では思いつかなかった。それに理由はどうあれ奈亜が真剣に勉強したいという雰囲気は伝わっていたからだ。
「分かった。いいよ」
「ありがとー!」
脩一が了解すると、奈亜は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔はとても可愛くて脩一は少しの間魅了されてしまった。
「そうと決まれば早速帰って勉強しよ」
「あ、うん」
奈亜に促されて脩一は我に返ると席から慌てて立ち上がった。奈亜はすでに教室から出ていて先を歩いて行く。
(……まるで台風みたいだ)
脩一はそんなことを考えながら奈亜のあとを追った。峻の苦労が少しだけ理解できたような気がした。