6.
「しゅ、峻。あのー……こんにちはー……」
「なんでここにいる?」
峻は奈亜に白々しい挨拶を一蹴する。口調はいつになく厳しかった。
「そ、それは……」
峻は奈亜と董子が座るテーブルに両手に持ったシェイクのカップを置く。そうでもしないと勢いでこぼしてしまう可能性があったからだ。
「奈亜、お前少しやりすぎだぞ!」
「ひっ……!」
峻の怒声に奈亜は怯えて身をすくめた。峻が本気で怒った時、奈亜は蛇に睨まれた蛙のように動きが取れなくなる。高校生になった今でこそ、そうそうはないが、昔ならすでに涙を流しているだろう。
(たく……こいつは!)
目の前で震える奈亜を、峻は容赦なく睨みつけている。しかし峻が怒っている理由は、別に奈亜が峻たちの後を尾行してきたからというわけではない。怒っているのは董子に接触したということだ。
峻が怒ると予想できるラインを奈亜は分かってくれていると思っていた。今回の場合でいうと、尾行はギリギリセーフのラインだった。それを越えてまで妨害をしてくるとは思っていなかった峻は少なからずショックを受けていた。峻たちがいた席から少しではあるが離れた席に董子を連れだしているということがそれに拍車をかけている。確信犯だということだ。
「峻……ご、ごめんなさい……」
奈亜が呟くように謝罪を口にする。しかし今回ばかりはそう簡単に許すわけにはいかなかった。
「謝ってすむと思ったら――」
「桐生君!」
さらに奈亜へ言葉を重ねようとした時、それを遮るように董子が口を開いた。
「董子、すまん。いろいろと……」
「桐生君、そうじゃないの。勘違いしてるよ?」
「えっ?」
不快な思いをしただろうと思って峻は董子に謝ろうとしたが、それを間違っていると指摘されてしまう。
「奈亜には私から声をかけたんだよ?」
「……え? 董子から声をかけた?」
「そうだよ。私が奈亜を見つけて声をかけたの。だから奈亜は悪くないよ」
董子の表情は真剣だ。嘘をついているようには見えなかった。しかし峻には、なぜ董子がわざわざ奈亜に声をかけたのか分からなかった。
「なんでだ?」
率直に董子へ聞く。董子は奈亜の方を見て微笑む。
「私ね、奈亜と友達になりたかったの。今日はそのチャンスだったから。ね、奈亜?」
董子が呼びかけると、奈亜は峻の方を見て小さく頷いた。奈亜がこの状況で嘘をつくはずがない。どうやら本当のようだ。
「……お前ら本当に友達になったのか?」
峻はまだ疑わしそうに奈亜と董子を交互に見る。その峻の視線が自分の方へ向くのに合わせて、二人がそれぞれ頷いた。それを見て、峻から怒気が消えていく。奈亜への視線も鋭さがなくなって、いつもの温かみのあるものに戻っていった。
峻は完全に怒気が自分の中から消えたのを感じた後、大きく息を吐いた。
「……奈亜」
「な、なに?」
名前を呼ぶと、奈亜はまだ緊張しているようで、固い調子で返事をした。
「すまん! 俺の早とちりだったみたいだ!」
そんな奈亜に峻は頭を下げた。
「へ?」
奈亜が驚いたような声を漏らした。いきなり謝られて頭の処理能力が追い付いていないようだ。
「お前が董子を呼び出したんだと勘違いしてた。……悪かった」
「峻……」
奈亜が峻の名前を呟く。峻がなぜ謝ったのか理解したようだった。
「董子も……」
峻は次に董子の方を向いて謝ろうとする。だが、それを董子は手と首を振って制した。
「私はいいよ。別に嫌な気持ちになんてなってないし。ね、それより桐生君、そろそろこの新作のシェイク飲みたいんだけどいいかな?」
董子が峻の持ってきたカップを指差す。
「私、すごく楽しみにしてたからおあずけされている気分なんだけどー。駄目かな?」
首を少し傾けて、董子が微笑む。
「はいはい、どうぞ。もう俺も怒ったり、謝ったりするのは止めた」
峻はため息をつきながらそう言うと、椅子をひいてそこに腰を下ろした。
「ではでは、遠慮なくいただきます!」
董子はカップを一つ手に取ると、ストローを差して早速飲み始めた。
「んー! このピーチシェイクすごくおいしいよー!」
一口飲んだ董子が感想を口にする。顔がすごく幸せそうな表情だ。
(買いに行ったかいがあったな)
峻はクスリと笑った後に、奈亜の方へと視線を向けた。奈亜はまだ怒られたショックが抜けていないのかしょんぼりとうつむいている。
「奈亜」
峻が呼びかけると、奈亜は無言のまま顔を上げた。峻は手元にあったもう一つのカップを奈亜の前に置いた。
「やるよ。お詫びの印だ」
「……いいの?」
「あぁ、悪かったな」
峻がもう一度だけ謝ると、奈亜の表情が徐々に笑顔になっていく。
「ありがとー!」
そして、いつもの明るい声でお礼を言うと、カップに手を伸ばす。
「ねぇ、中身ってなに?」
「ストロベリー。お前も好きだろ?」
「うん!」
ストローを差して、董子に負けず劣らず幸せそうな表情でストロベリーシェイクを飲む奈亜を見て、峻は少しホッとした。
(好みが一緒でよかったよ)
そして内心で苦笑した。
「あのー、桐生君」
と、そこで董子が峻を呼ぶ。峻は奈亜に向けていた視線を董子へと移した。
「どうした? 董子」
「えっと、昼からどうしよっか?」
「あ、そうだなー……」
本屋には一緒に回って、すでに購入を終えている。今日の目的は達成されていた。その後のことは峻も特には考えていなかったため、すぐに返答することができない。
「董子はどこか行きたいところないか?」
「うーん……特にはないんだけど」
董子も少し困った顔だ。なにかいい案はないだろうかと峻は思案する。だが、これだというようなものは思い浮かばない。
「ね、ねぇ」
「ん?」
「私にいい案があるんだけど。……聞いてくれる?」
黙り込んで考えている二人に、驚いたことに奈亜が小さく手を挙げて声をかけた。
「奈亜、なにかあるのかよ?」
「う、うん……」
いい案があるという割には、奈亜は不安そうに峻と董子の顔を交互に見ていた。手をテーブルの上でモジモジと動かしている。
「奈亜、どんな案なの?」
なかなか答えない奈亜に、董子が優しく先を促す。それでやっと決心が着いたみたいだ。
「あ、あのね! お昼から……よかったら三人で『金田小五郎』を観に行かない? ほ、ほら、二人とも観たいって言ってたでしょ? それに私も推理ものに興味があるし。……ど、どうかな? やっぱり駄目かな……あははは」
奈亜の提案があまりに予想外だったために峻は言葉を失っていた。予想外というのは、悪い意味ではない。むしろ逆だ。奈亜がこんなにも他人のことを考えた案を出してくるとは思わなかったのだ。ここにいるのが峻だけならまだ分かるが、今回はまず間違いなく董子へ気を遣っている。それが意外だった。
「奈亜! その案すごくいいよー!」
「ホ、ホント?」
「うん! 私は大賛成!」
董子が笑顔で奈亜の案に賛成した。その言葉を聞いて奈亜も嬉しそうに微笑んだ。
(……ホントに友達になったんだな、この二人。案外、いいコンビかもな)
そんな二人を見て、峻は内心でそう思った。
「桐生君ももちろん賛成だよね?」
「どう? 峻」
左右の二人からほぼ同時に尋ねられる。尋ねなくても峻が断るわけがない。いや、もし断ってもたぶんこの二人に強引に連れて行かれるだろう。
(もう、同票数での言い合いはできないかもなー)
これから先、どれだけこの多数決で負けるのかなと考えた。それがすごく可笑しくて峻は笑った。
(とりあえず不利にならないように脩一を引っ張り込むしかないな)
頭の中で今後の対策を考えつつ、峻は言った。
「あぁ、俺も大賛成だよ」
透き通るような青空の下、そよ風がその場にいる三人の頬を優しく撫ぜた。