1.
峻はポケットから取り出した携帯に目をやる。時刻を知るためだ。
(十時四十三分か……)
昨日電話で董子と取り決めた時間からは約四十五分遅れだ。しかし峻に焦った様子はなかった。逆に昨日、奈亜と買い物に行った時とは違い余裕すら感じられた。
それもそのはず、今日は峻が待っているからだ。いまだに到着していない董子のことを。
峻の目の前を多くの人が通り過ぎていく。家族連れが多いように感じた。
峻がいるのは、昨日奈亜と遊んだ駅から徒歩で三分ほどのところにあるデパートだ。とても大きな店舗で、駅からのアクセスも非常にいい。地上、地下ともに入り口があるからだ。峻は地上側の正面入り口を入ったところにある案内掲示板付近の壁に背中をあずけて立っていた。
峻はあまり待ち合わせで待つということをしたことがない。昨日ことからもよく分かるように、大抵はほぼ同時に着くか、もしくは峻が最後に来ることが多かった。しかし今日の峻はすでに三十分ほども待っていた。それには理由があった。
昨日、奈亜に聞かれてしまった集合場所と時間。それが気にかかっていた。
あいつも子供じゃないんだから……と思う反面、どこか嫌な予感がしていた。だから今日になって場所と時間を変更したのだった。場所はデパートの一階、正面入り口を入ったところ。時間は午前十一時にした。そして峻自身はあくまで午前十時の待ち合わせかのように振る舞って家を出た。奈亜の尾行を警戒しての処置だったが、どうも徒労に終わったようだった。このデパートに入るまでそれらしい人影は見なかった。
気にし過ぎたかなと待ち合わせの場所に三十分前に着いてから思ったが、まぁいいかと峻は自分を納得させた。
今日の董子との買い物はどうしても成功させたかったからだ。先日の映画の件のこともあるのだが、なにより今日は董子が気落ちしていた峻を元気づけるためにわざわざセッティングしてくれたのだ。その厚意に甘えて董子との買い物を楽しもうと決めていた。
峻は再度携帯を見た。約束の時間の十分前を液晶のデジタル時計は示していた。峻は顔を上げて周囲を見回す。週末のデパートは多くの人で賑わっている。
やることもないため峻はその人たちを見ていた。
足早に歩いて行くのは三人連れの家族のようだ。母親と思わしき女性がまだ小学生低学年といった具合の男の子の手を引いている。その後ろでは父親が眠たそうに欠伸をしていた。昼まで寝る予定を狂わされて、無理やり家族サービスをさせられているような顔だった。
その親子から目を離して、次に捉えたのは黒髪で眼鏡をかけた同年代くらいの女子が陳列してあった店の品を派手にひっくり返しているところだ。女の子は慌てて拾おうとしているが、動揺しているのかなかなかうまく拾えない。そこへ近くの店員がやってきて、一緒に拾い始めた。女の子はしきりに頭を下げて謝っているようだ。
大変だなーっと呑気に思っていると、目の前を中学生くらいの男子四人グループが歩いて行く。なにやらとても興奮した面持ちで喋っていた。峻の耳に断片的に聞こえてきたのは、『シンラ』とか『ジンライ』とか『アヤナはやっぱり最高だ』とかだ。峻にはいまいちよく理解できなかったが、アニメかなにかの話をしているみたいだった。
他にもいろんな人たちが峻の前を通り過ぎていく。人たちの流れを眺めることに集中していた峻に横から声がかかった。
「桐生君、お待たせ」
峻が声のした方を振り向くと、そこには朗らかな笑顔を浮かべている董子の姿があった。ワンピースにカーディガンを羽織ったその服装は、董子らしい落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
「董子。ごめん、気づかなかった」
峻がそう言うと、董子はイタズラっぽく笑う。
「えへへ、いいよー。実はね、私どこまで桐生君に気づかれずに近づけるか試してたんだ」
「なんでそんなことしたんだよ?」
峻が呆れていると、董子は少し恥ずかしそうにして言った。
「だって、桐生君の自然な表情好きだから」
「なっ?」
峻が思わずたじろぐ。董子からそんな言葉が出るとは思っていなかったからだ。一瞬、硬直してしまった峻だったが、すぐに咳払いをすると体勢を立て直す。
「……それって俺のマヌケ面は見ていて面白いってことか?」
「え、えぇ!? そんなつもりで言ってないよう!」
董子が慌てて手を振る。そんな董子を見て峻は笑った。
「ははは、冗談だよ」
「……も、もう、桐生君!」
「先に仕掛けてきたのはそっちだろ?」
「むー……」
拗ねたように顔を伏せる董子。そして小さく「……私は冗談で言ってないよ」っと呟く。しかしそれは周囲の喧騒に紛れて峻の耳には届かない。
「董子?」
董子の様子を不思議そうに峻が見つめる。呼ばれた董子は顔を上げて峻を見た。その時、峻は初めて董子の変化に気づいた。
「董子、お前髪を結んでないんだな」
「う、うん」
董子の髪型はいつものツインテールでなかった。普段見慣れていないストレートの髪型の董子。峻は少し大人っぽいなと思った。
「どう? に、似合うかな?」
董子がその場でクルリと回る。その回転を受けた髪は絡まることなくフワリとなびいた。
「あぁ、似合っているよ」
峻が肯定してやると、董子は少し照れて、でも嬉しそうに微笑んだ。
「さ、そろそろ行くか」
携帯で時刻を確認しながら董子に提案する。
「うん、そうしよ。最初は本屋さんだね」
「そうだな。で、なに買うか決めてるのか?」
「うぅん」
董子が首を振る。そして峻を見つめて言った。
「今日は、桐生君と一緒に選ぼうと思って」
「分かった。よし、せっかく選ぶんなら隠れた名作狙いでいこう」
「えー……」
董子が困った顔をする。
「どうした? 駄目か?」
「だって桐生君の選ぶ隠れた名作は、隠れすぎてなにがしたいのか分からなくなった作品ばっかりなんだもん」
「董子……。お前、やっぱり小説のことになると厳しいな……」
峻と董子は、それからも小説談義に花を咲かせながら、今日の目的である書店に向かって歩いて行った。