13.
電車のドアが開き、目的の駅に着いた人たちが降りていく。その最後尾に並んでいた峻ものろのろとした足取りで続いた。
峻が降りたのは家への最寄駅ではなく、それを一駅過ぎた学校の近くの駅だった。最初は当然家に帰るつもりだったのだが、今の気分のまま家に帰ると余計に気が滅入りそうだと判断し、わざと最寄駅を通り過ぎた。
この駅から家までは約二十分かかる。その時間を利用して、峻は少しでも気分転換を図ろうとした。
昼間の主役である太陽は西の稜線を縁取りながらその身を沈めていき、空にわずかな残光を輝かせていた。空には一番星の他にもいくつかの星々が姿を現してきて、その中央にまだ少し白みがかった月が自身の存在を主張している。
峻はそんな空の下をとぼとぼと歩いていた。すでに五分ほど歩いているが、気持ちが晴れることはない。
(……この作戦は失敗だな)
自分の浅はかな考えに、峻は自虐的な笑みを浮かべた。
「ん?」
峻が視線を上げた先、そこは公園だった。隣にマンションが建っていることから、もしかすると付帯する施設なのかもしれない。入り口には特に遮るものもなく、一般的にも開放されている場所のようだ。ここに公園があることは今日初めて知った。いつもと違う道を歩いてきたおかげだ。
峻はなんとなくその公園に足を向けていた。公園といってもそこまで広くはない。遊具は滑り台とブランコ、あとは砂場があるだけだ。小学生になってしまえば、鬼ごっこをするにも手狭になってしまうくらいのスペースしかなかった。
峻は立ち止まって砂場を見た。誰かが忘れていったのかスコップが砂でできた山に刺さったままだ。
(そういえば、昔はよく奈亜とトンネル掘ったっけ)
昔の記憶が蘇ってくる。奈亜と砂の山を作って、対面で座った後トンネルを掘っていった。中で手と手がぶつかった時にどっちのトンネルが進んでいるかいつも勝負した。
(大抵は俺が勝ってたな)
峻がクスリと笑う。負けた後、悔しそうに砂の山を作り直していた幼い頃の奈亜の顔を思い出したからだ。
しかし次の瞬間、峻はそれらを掻き消すように首を振ると、近くにあった少しガタがきているベンチに腰かけた。体重をかけるとベンチはギィッと鈍い音を立てた。
それから峻はしばらくそのまま座ったままでいた。なにをするでもなく、なにを考えるわけでもなく。ただ虚空を見つめて座っていた。しかし、その時間はある音で打ち破られた。誰かが公園の中をこちらに向かって歩いてくる音だった。いつの間にか灯っていた電灯の光が逆光になって、その人物の顔はよく見えないが、どうやら女の人のようだった。
峻はすぐに興味を失ったように視線を外す。一人きりの時間を過ごして、少し帰る気になった峻だったが、立ち上がるのは女の人が通り過ぎてしばらくしてからにしようと思ったのだ。今立ち上がると、下手すれば不審者に間違われかねないからだ。
峻がうつむいたままいると、女の人の足音が一瞬止まる。向こうも峻に気づいたようだ。そして少し警戒するようにまた峻の方へと歩みを再開した。心なしか少し歩速が速くなったように感じた。
峻はあくまでそのままの姿勢を貫く。足音はすぐ目の前まで来ていた。そのまま通り過ぎるのを待つ。だが、予想外なことにその足音は峻の目の前で止まってしまった。
(……ん?)
不審に思って峻が顔を上げた。すぐ目の前に月明かりを背後から浴びて、さっきの女性が立っていた。そしてその女性は顔を上げた峻を見て、驚いたような顔になった後、
「桐生、君?」
峻の名前を呼んだ。それには峻も驚いて相手の顔をよく見た。そして今、目の前にいる相手が誰なのか把握する。
「……董子?」
峻がその名前を呼ぶと、呼ばれた董子は嬉しそうに顔をほころばした。
「やっぱり桐生君だ。あはは、こんばんは!」
「……こんばんは」
董子の朗らかに笑いながらの挨拶に、峻も同じように返す。しかし、その声のトーンはまだ本調子ではなかった。
「桐生君がどうしてこんなところにいるの? この辺、全然違う方向でしょ?」
「道に迷った」
当てもなく彷徨っていてたどり着いた場所がこの公園なのだから、その表現はあながち間違っていないのだが、董子はそれを峻の冗談と取ったようだった。
「ふふふ、桐生君ってば」
軽く口元を押さえて董子が笑う。そしてその笑いが治まると、峻の方を見て言う。
「あ、あのね、桐生君。……隣、いいかな?」
董子が峻の隣を指差す。意味を理解した峻は座り直しながら言った。
「あぁ……どうぞ」
「はい、お邪魔します」
董子は丁寧にそう言うと、峻の隣にちょこんと座った。両手を膝の上に乗せ、少し緊張しているように見えた。
ちょうど会話が途切れてしまっていたこともあって、二人はそのまま少しの間黙っていた。どこからか虫の声が響いてくる。
「桐生君」
そんな中、話の口火を切ったのは董子の方だった。
「……ん?」
「なにかあったの?」
董子は敏感に峻の空気が重いことを感じ取っていたようで、心配そうな顔で聞いてきた。
「どうしてそう思うんだ?」
「だって、さっきから悲しい顔してるよ? ……それにその口元の傷」
董子は峻の傷にも気がついたようだった。峻はなにも言うことができない。董子の方へ視線を持っていくこともなかった。
「桐生君」
董子が手を峻の頬に当てる。その温かく柔らかな感触に、峻は少し驚いて董子の方を見た。董子は峻の方をまっすぐに見上げていた。
「なにか、辛いことがあったのなら言ってね? 私にできることならなんでもするから」
「董子……」
月明かりで照らされたその整った顔に峻は思わず見惚れてしまう。董子の優しい言葉は峻の心の傷を癒してくれるかのような感覚すらも覚えた。
二人は見つめあったまま動かない。その時間は永遠に続くようにも思われた。が、案外に早くそれは終了した。終わらしたのは董子だった。
董子は突然ハッとしたような顔をした後、全力で顔を背けた。その顔は、淡い月明かりでも分かるほど赤くなっていた。
「わ、私ったら……え、えぇっと……ごめんなさい! い、いきなり頬っぺを触ったりして……あ、あ、あの、ふ、深い意味はないから!」
そして慌てて自分がしたことの弁明に走った。そんな董子を見て、峻はクスリと笑みを漏らす。
「董子、慌てすぎ」
「え、えぇ? そ、そうかな……あははは」
峻の頬に当てていた手を胸に抱えたまま董子が笑う。まだ落ち着きはしていないようだ。
逆に峻の心は落ち着きを取り戻していた。あれだけ沈んでいた気持ちが董子と少しいただけなのにいつの間にか晴れていることに驚いた。
「よし!」
そう言って峻が勢いよくベンチから立ち上がった。
「な、なに?」
董子が驚いて尋ねてきた。峻はまだ座ったままの董子に笑いかけながら言う。
「帰る! 今なら迷わず帰れそうだよ」
「それは……よかった、ね?」
峻が言うと、董子は不思議そうに首を傾げた。よく意味が分かっていないようだ。
「あぁ、董子のおかげだ。元気出たよ。ありがとう」
「私は何もしてないよ? でも、元気出たならよかった」
峻の言葉を聞いて董子は嬉しそうに笑った。理由はどうあれ、峻が元気になったことに心から喜んでいる顔だった。
「ホントありがとう。お礼に何か俺にできることはないか?」
「えぇ? いいよー、別に」
峻の問いに董子は両手を顔の前で振りながら答えた。しかし、すぐに思い直したように考え込むと、峻の方を上目遣いで見上げて言った。
「だ、だったら、明日、私と一緒に買い物に行ってくれない? 新しい本を買いたいの。どんな本がいいか、一緒に選んでほしいな」
「それくらいならお安い御用だ」
「ホント!?」
「あぁ」
「ありがと! ……嬉しい」
まだ赤みが差している顔を伏せたまま董子が言った。峻は嬉しそうな董子を見て満足そうに微笑む。
「さ、そうと決まったら早く帰らないとな。董子、家どこだ? 暗いし送るよ」
「うぅん、大丈夫。私、このマンションだから」
そう言って、董子は公園の横に建つマンションを指差した。
「へー、董子の家ってここだったのか」
「う、うん、あんまり広くないけど」
「そっか。まぁ、ここならすぐ帰れるな。じゃあ、俺も帰るよ」
「うん、気をつけてね」
「分かってる」
あとで時間を連絡すると董子と約束して、峻は家路に着いた。依然として奈亜のことは心配だったが、さっきのように自分の気持ちのことで悩むことはなかった。
(董子、お前は最高の友達だよ)
峻は心の中でもう一度董子に感謝した。