石を磨く者
石を磨け。
人は最後に石を残す。
美しい者は美しい石を、醜い者は醜い石を。
ハンタは歩いていた。落ち葉の降り積もった紅葉の道を、控えめな足音を残してハンタは歩く。
ハンタは考えていた。俺が死んで、それで残るのはどのような石だろうか、と。
その石は人を語る。その石の持ち主が、どのように生きてきたかを物語る。
ハンタは、美しく透き通る透明な石を想像した。しかし、自分の人生を思って、今度はただの石つぶてを想像した。
路傍の石。
ハンタの人生はそのようなものでしかなかったに違いない。彼は自分でそう思ったのだ。未だ二十に満たず、しかし人生を終えようとしている青年にとって、自分の人生とは、誰にも見られず、気にされず、時には踏み転がされる路傍の石でしかなかった。
陽が暮れ始めた。落ち葉の道に葉を落とした木の寂しげな影が伸び、そのしたの葉を、暗く、しかし紅く染めていく。今日は何処で夜を越そうか、それとも夜通し歩き続けるか?
ハンタは、段々と肌寒くなるのを感じて、何処か夜の寒さと暗闇をやり過ごせる場所を探した。暫く道を行くと、こじんまりとした街道宿場が見えて来たから、彼は迷いなくその戸を叩いた。
「一晩泊めてくれないか」
返ってきたのは、抑圧され虐げられて来た農夫がよく出すような掠れた高い声だ。
「金はあるのかい」
「いくらかある。頼む。夜が怖いんだ」
ハンタは実に正直にそう言った。見栄は必要なかった。
暫く答えは返ってこなかった。ハンタがもう一度戸を叩こうとすると、軋みと共に戸が開き、想像していた通りの、哀れにしわくちゃになった農夫の顔が現れた。
「入りな」
暖炉。ハンタはその薄い明かりに向かってあぐらをかいていた。彼はずっと火を見ていた。人は火を欲するが、そのものを欲するのではない。暖かさと明かりを欲するのだ。その安心と豊かさを求めるのだ。
「金は明日の朝でいい。それより頼みがある」
どれくらいの年月を費やしたのか、酷く腰を曲がらせた農夫が言った。その暗くあってしわに包まれた顔と腰からは、長年の苦渋が見て取れた。
「なんだい? できることならやるよ」
農夫は嬉しそうに顔を歪めた。見る力のない者が見れば、それはただ苦しんでいるだけに見えた。だがハンタには、やはり喜んでいるようにしか見えなかった。
「飯を作って欲しいんだ。材料なら少しはある」
「わかった。それくらいならすぐできる」
農夫は首をゆっくりとふった。
「いいや、すぐじゃだめなんだ。ゆっくりと、時間をかけて作ってくれ」
どういうことだ? ハンタは首を傾げながらも、農夫が指差した棚へ向かった。暗くてわかりづらかったが、確かに幾つかの野菜と、それに燻製肉があった。それに、いくつかの調味料もだ。それを、ハンタは一つづつ指で、舌で確かめていった。
「胡椒なんてあるのか」
ハンタはその希少品の調味料を舌で知って驚いた。この哀れに朽ちた農夫が、そんなもの持っているとは思えなかったのだ。
「驚くことじゃない」
農夫は弱々しく答えた。
「いいから、飯を作ってくれ。代わりに、俺はその胡椒をどうしたか教えてやろう」
暖炉の上に荒い網を載せ、そこでハンタは切った燻製肉を焼いた。隣には小さな鍋を起き、吊るしてあった牛の骨でスープを作る。
「大分前だよ」
農夫はゆっくり、スープに旨みが染み出るのと同じように話し始めた。
「吹雪の夜、男がこの宿場にやってきた」
ハンタはそれを聞きながら、段々と焼かれていく燻製肉に塩と胡椒をまぶす。
「だが、金がないと言った。外にいれば、寒さをしのげず死ぬだろう」
溢れ落ちた塩のいくらかが炎に弾けて音を鳴らした。
「男は、分厚い外套を開いた。そうすると、かわいい、まるで湖みたいな、綺麗な目の小さい女の子が出てきた」
段々と骨から旨みが染み出し、油膜が鍋の中に広がっていく。そこに、ハンタはまだ幾らか若かったろう農夫の、脂ぎって広がる欲情を見た。
「それで、次は大きな袋が見えた。男はそっから小さな袋を取り出して、金の代わりによこした」
ハンタは今手に持っている、動物の腸の皮の袋に目を落とした。そこには細かく砕かれた胡椒が入れられている。殆ど使われてはいなかった。
「中身は胡椒だ。これは値打ちがある。俺は喜んで泊めた。でも・・・・・・」
「でも?」
ハンタは手を止め、その続きを促した。その先にあるのは美しい石ではなく、醜い石に違いない。
「あんな目を見せられたら、我慢なんかできねぇ・・・・・・」
鍋に染み出した旨みが獣の香りを発て始め、炙られる燻製肉の香りと混ざって食欲を刺激し始める。ハンタは太陽の色をした根菜を簡単に切り分け、鍋に放り込んだ。
「眠ってる間に、男は殺した。首をブッ刺して、殺っちまったんだ」
農夫は苦しそうに咳き込み、そうしてまず口に手をやって咳を沈めると、そのまま顔を覆った。声は潜もり、嗚咽のようにさえ聴こえた。
「なんで俺にあんなもんを見せるんだ、あんなもん、見なきゃよかった・・・・・・」
野菜が煮え始め、鍋は音を発てて小刻みに揺れ始めた。ハンタは燻製肉の焼け具合に余念なく、その肌を注意深く見つめる。
「あの目に映ったのは、俺が最後だ。俺の汚い石が、あの目には映ってた・・・・・・」
ハンタは最後に、葉物を適当に手でちぎって鍋に放り込んだ。
「なあ、あんたにはどう見える?」
ハンタは農夫の目を見た。しわの中に埋もれながら開かれたそれからは、濁っているようにも見える一筋の雫が流れている。純粋な目だ。恐ろしく純粋な、だからこそ危うい目だ。ハンタは答える言葉を持たなかった。
農夫はハンタの料理を、ゆっくりと味わって食べた。彼が何故、そんなことを自分に話したのか、ハンタにはわからなかったが、とにかく、自分と同じようにこの哀れな農夫もそう長くはないことはわかった。人は石を残すが、酷く汚れ、醜く落ちた石は、人を生かすことをしないのだ。
目覚めると農夫の姿はなく、戸を開けると、落ち葉が宿場の周りを覆っていた。辺りの木から落ちただけでは、どうにもそれだけの量にはなりそうになかった。人知れず、何処かから集まってきたのだろう。ハンタは、落ち葉を見ていると、それが世界の抜け殻のように思えた。抜け殻は無くならず、何処かに落ち、また何処かへと吹き流されていく。行き着くのは世界の終わりだ。世界の終わりで抜け殻はこのようにして地を覆い尽くすのだろう。ハンタは一歩踏み出し、やや進んで降り積もった落ち葉の中から伸びる手を見つけた。袋か何かを握りしめた拳は空を向き、そうして見覚えのある哀れさがそこから立ち上っていた。ハンタはその袋を抜き取り、口を空け中を確かめた。先に勘づいた鼻が臭気に歪み、彼は眉を顰めた。
抜き取られた対の瞳。
干からびて干し豆のようになってはいたが、不思議と美しい瞳孔の虹彩はヒスイのようにしてそこに残り、何かを見つめていた。ハンタは取り出してよく確かめたい衝動に駆られたが、頭を振っていくらかの正気を呼び戻し、袋の口を締めた。そうして元に戻そうと、突き出た手を探したが、何処にも見つけられなかった。ただ落ち葉の海を掻き分けて見つけたのは、どこにでもあるような黒い石だけである。ハンタがそれを摘もうと触れると、その先から崩れ、終いには細かな粒になって、何処かへと吹き流されていってしまった。その細かな粒は朝の陽光に照らされて粒良に煌めき、ハンタは見えなくなるまで煌きに目を見張った。一葉の落ち葉も吹き上げない風が、確かにそこに吹いていたのである。
ハンタは袋をどうしようかと思ったが、ふと感触の異なることに気付いた。恐る恐る口を開けると、そこに先ほどの瞳はなく、ただ荒削りのヒスイの原石が、淡く緑に輝いているだけであった。ハンタはそれを陽光に照らしてみ、あの黒い石のようにして崩れないことを確かめると、自分の腰に吊った革のポーチに入れ、袋には代わりにおおよその宿賃を入れて、宿場へと放り込んだ。寂しい音が響き、ハンタはこじんまりとした宿場を見つめた。
乾拭きの屋根はもう長く手入れされてなく、黒ずんだ板壁も、土台の石も、昨日より薄汚れ、やや朽ちて見えた。人は宿を、宿は主を無くしたのだ。朝の冷たく、しかし清流のような風を感じ、ハンタは一歩踏み出した。落ち葉を踏みしめる控えめな足音を連れて、ハンタは歩き始める。
俺の石も、あのようにして、一葉の落ち葉も吹き上げない風に崩れ、流されていくのだろうか。
ハンタは先ほどの黒い石を思い出し、次いで荒削りの原石を思い出す。それは、美しく磨かれる前に取り出されてしまったが故に、まるで形というものが定かではなく、しかしどのようにでも定まれる余地が残る、まさしく原石なのだ。そしてそれは、一目に他より大きく、価値の高いものだ。高いからこそ、余りにも早く欲の目にとまり、あまりにも早く取り出されてしまった。
延々と、落ち葉が積もっている。道を示すのは、葉を落とした骨のような並木だけだ。
ハンタは最後に、あの黒い石の、砕けた粒良な煌きを思い出す。
陽光に照らされて煌めいた粒は、もしかすると僅かな一片一片は十分に美しいものだったのかもしれない。だがこれもやはり、あまりにも早く固められてしまったのだ。一片一片が光を互いに通し合わせることなく、互いに光を閉じ込め、封じてしまった。だからこそ、醜く脆いものになってしまった。そこには苦渋がある。美しさを知らず、ただ年月を抑圧されて過ごしたのだろう。
新たに加えられた原石のせいか、からからと乾いた音を鳴らしてポーチを揺らしながら、ハンタは落ち葉の中を歩いて行った。
終