王太子が婚約破棄でざまぁされている真横で、ひっそり失恋していたモブ男爵令息。泣きそうな僕の手を取ってくれたのは、いつも図書室で目が合う彼女でした
月明かりに照らされた貴女の横顔は、息を呑むほどに美しく、それでいて儚い。
先程までホールで渦巻いていた、あの冷酷な罵声と視線の数々が、まるで幻であったかのように、貴女は凛と佇んでいる。
──婚約破棄。
それは、貴女をどれほど傷つけたことだろう。
張り詰めて今にも壊れそうな貴女の、その手を引いて、この冷たい場所から連れ去ってしまえたなら。
だが、貴女の心を解きほぐす資格を持つ人は、すぐ現れるのだ。
重厚なドアが開き、ホールの眩い光を背負って颯爽と現れた彼が手を差し出すと、ようやく貴女の肩から力が抜けていく。
その手を取り、柔らかく微笑む貴女の姿に、私は心から安堵し、その場から立ち去る。
この手で温めることが叶わなかった夜を、一度だけ振り返りながら。
彼らの行先に、どうか幸在らんことを。
◇
「……声をかけなくて、良かったのですか」
背後からかけられた静かな声に、私は振り返る。そこにいた彼女は、かけるべき言葉を探すように視線を彷徨わせていた。
「ええ。ヒーローが颯爽と姫を救い出してくれましたから」
少しおどけてこたえた。
夜風が、私たちの間を吹き抜けていく。
「ですが…そうですね。物語の哀れな脇役に、一曲踊っていただける姫がいらっしゃれば、脇役は泣かずに済みそうです」
彼女は私の不器用な冗談をすべて受け入れるように、ただそっと、私に向かって手を差し出してくれた。
私は促されるままに、その手を取る。
ホールの中心で響く華やかな音楽と、貴族たちの楽しげな喧騒。その眩しい光から隠れるようなテラスの片隅で、私たちは静かにステップを踏み出した。
彼女の腰にまわした手のひらと、重ねた指先から、驚くほどまっすぐに体温が伝わってくる。
本当は、今すぐこの場に崩れ落ちてしまいたいほど、胸の奥が痛い。先ほど別の男の手を取って微笑んだあの人の横顔が、目に焼き付いて離れない。
──けれど、いま私のステップに合わせて揺れる彼女の体温が、かろうじて私をこの世界に繋ぎ止めていた。
「……少し、疲れましたね」
私が小さく呟いたその言葉は、何に対する言い訳だったのだろう。令嬢を失った悲しみから目を逸らすための言い訳か、あるいは、こうして別の彼女の手を握りしめていることへの言い訳か。
彼女は何も言わず、ただ私のステップに身を委ねてくれている。そっと私の手に力を込め、私の痛みに寄り添うように一緒に踊ってくれている。
あの人を想う私はいまどんな顔をしていたのだろう。ふと視線が合うと、彼女は少し驚いた顔をして、一度目を閉じ…また、静かにいつもの笑みを浮かべてみせた。 その優しさに、私の張り詰めていた何かが、静かにほどけていく。
この温もりがあるから、私は今、泣かずにいられる。
恋愛の始まりなんて大層なものではない。ただ、この冷たい夜の中で、お互いの体温を分け合うような、優しくて、少し切ない時間だった。
──これが僕たちの、恋の、始まり。
続きが書いてみたくなり、
連載版を投稿し始めました。
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