好転?
そんな「人の噂も七十五日」とは言ったものだが、気がつけば、そんな有らぬ疑いもきれいに消え、その代わりに「これまで隠し通せていたはずのこと」は、お盆休み前には完全に社内には広まっていた。
その主たる原因は、単なる男の嫉妬からだ。
小松川さんに好意があった男性社員が、彼女の住むマンションまで行って、その噂の件を直接問い詰めたとのことだ。
その男性社員が小松川さんのマンションまで行った口実はというと、「会社に彼女の忘れ物があったので、それを届ける」との理由だったが、そんなものはもちろん噓で、それをする為に人事部で彼女が住んでいるマンションの住所のデータを調べた上で、その様な行動を取ったという。
これではストーカーとなんら変わりない。幸いにも、小松川さんは大事にはしなかったが、その男性社員は部署の上司と人事部から少なからず厳重な注意を受けたそうだが、その男性社員が意気消沈して歩いているところを、オレも会社の廊下で見かけた。
そんなことよりも問題なのはオレの方だ。
オレが副業として、「お笑い芸人」をしていることが完全に社内にバレた。
小松川さんの『ソルティドッグ』のブログも、すべて明るみになり、そこから噂がうわさを呼んで、社員数が数百人規模の会社だったということもあり、社内でまだ碌に話したこともない人からも声を掛けられることも多くなった。
その大半は、男女問わず、他の芸能人を紹介してくれないかだとか、知り合いのモデルやタレント、お笑い芸人と合コンを開いてもらえないかだとか、それより質が悪いのは、評論家気取りで、まったく的外れなお笑い論を語る者までいた。
ここまで来ると、自分は本当に「お笑い芸人」なんだと、改めて実感する。
そもそもオレは確かにお笑い好きではあったが、自ら望んでなったわけではなく、気がついたら「お笑い芸人」になっていたというような人間だ。
それもまだ舞台に立って2年未満の駆け出しで、その上まだあのスランプから抜け出せずにいる。
会社の廊下で名前の知らない相手から声を掛けられ、社交辞令のように愛想笑いをするのにも、正直もう疲れた。
オレは、「お笑い芸人」と「サラリーマン」の境界線を見失っている。
もう「お笑い芸人」としての限界を認めて辞めるという選択肢もなくはない。
ただこのまま辞めるにしても、やはりオレ自身の中でまだ腑に落ちないところがあるのも事実だ。
このままの状態でいれば、どちらも中途半端になってしまうことはわかっている。
散々悩んだ末、オレはエイジに初めて相談してみることにした。
やつにも、この芸能界にオレを連れ込んだ責任というものがある。
そこで次の事務所の定期ライブのあとで、反省会前のふたりだけのときを見計らって、オレは出来るだけ不自然にならないようにさり気なく、エイジにそのことを聞いてみる。
エイジの答えは、意外なまでにシンプルで真面目だった。
「うーん……どうなんだろう……」
エイジは珍しく真面目に困った顔をしている。
「単純にオレの思う芸人としての心構えっていうのはさ……。目の前の見に来てくれているお客さんを心から大笑わせること。好きで始めたことだけど、好きだけじゃ駄目なことも、もうわかってる」
この当たり前の予想外の言葉に、オレは驚いていた。
「オレはさ、前にも一度話したけど、オレのずっと自分勝手なことしてたのが原因で、前の相方に捨てられてっから、まずはハゼの考えを最優先するし、待ち合わせで待たせるようなことは出来るだけしない」
あのエイジが谷底に突き落とされたことだというのは、それだけで瞬間的に理解できた。
「オレは基本的に思いつきだけでネタは一切書けないから、ネタのことなんかも聞かれない限りはなにも言わない。それでも最後には、観客を大笑わせたいっていつも思ってる」
やつはこんなにも「お笑い」を真剣に考えていたのか。
「なんだよ。ずいぶんとマジメじゃねーか。意外だなー。お前がそんなことを思ってるなんて」
真面目に答えたエイジに、オレは照れ隠しで少しおちゃらけて返す。
しかし、エイジにこんな真面目なところがあるなんて意外だ。
「オレはねー。これからいろんな番組に出て、そこからMCもやってみたいし、もっともっと女のコにモテたいのー!」
これはエイジの本音とも取れる照れ隠しだと思う。
「まったく、お前どこまでモテたいんだよ。いまのままでも充分じゃねーかよ」
なんだか今日の反省会は、気持ちいい酒を飲めそうだ。
久しぶりに今日の失敗のことや嫌なこと全部忘れて、楽しいだけの酒が飲めている。
ここにもう一人、恵美が居たら最高だ。
あれから恵美とはあまり会えてはいないが、それでもオレが恵美を好きであることに変わりない。
だからライブ終わりのあとに、今日の反省会に恵美を誘ったが、今日はどうしても外せない用事があるとのことで来てもらえなかった。
♢
その反省会のあと、気持ち良く酔っぱらって帰る途中、オレは谷どころか崖下まで一気に突き落とされることとなる。
あの恵美が、他の見知らぬ男と肩を組みながら、一緒にホテルから出てきたののである。
それも見るからにだらしない恰好をした、チャラそうな男と一緒にだ。
もはや冷静ではいられない。
「恵美!?……」
なにを考えるでもなく少し大きな声で名前を言ったオレに、恵美はゆっくりと振り向く。
「洋ちゃん……」
そうして驚くオレの顔を見て、恵美は静かに男から離れると、そのまま、まっすぐにオレの前に来る。
そうしてオレと目を合わせないまま顔をそむけ。
「幻滅……した? 幻滅したよね、わたしのこと。あの男の人に仕事の帰りに声を掛けられたからついてったの……」
恵美は静かにそう言った。
「なんで!? どーして!? どういうことなんだよ!?」
オレは震える叫び声で彼女に聞いた。
これは怒りなのか、それとも悲しみなのかわからない。
「洋ちゃんはさ。本当は、わたしのこと本気で好きじゃないんだよ。あのとき、そう思ったの」
そのまま彼女は、淡々と言葉を続ける。
「もうね。洋ちゃんは、わたしの手に届かないところに行っちゃいそうなの……。あのとき、わたしがあんな余計なことを言わなければ、現在でも洋ちゃんと、ごく普通に付き合えてたってそう思ってる」
彼女がなにを言おうとしているのか、その意味はオレには理解できなかった。
そこから彼女を問い詰めるでもなく、彼女を引き留めるでもなく、返す言葉が見つからないまま、自分の情けなさ、不甲斐なさ。
なんともいえないやるせなさに押しつぶされて、オレはその場に膝から崩れ落ちて座り込んだ。
「これからも頑張ってね」
彼女はそう言って、出会ったばかりの男と、その場から居なくなった。
「くっそぉー! なんでなんだよーー!」
オレは叫び、溢れる涙が頬を伝う。嗚咽まみれの声でオレは恥ずかしげもなく大声で泣いた。
ここで雨でも降ってくれば、オレは安いドラマの中の悲劇の主人公になれたのだろうがそんなわけもなく、オレは巡回の警察官二人に優しく声を掛けられて、ただひとりで虚しくアパートに帰った。




