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第9話 貧民窟

 バーンズの店を出たギルバートは、細い路地からいったんセント・ジェームズ・ストリートのほうまで出て、そこで辻馬車を探した。


 よく手入れされた馬とピカピカの馬車の組み合わせに目が留まったので近づいていくと、御者がうやうやしく頭を下げてきた。


「ごきげんよう、旦那様。本日はどちらまで?」


「ロンドン塔へ頼むよ」


 にこやかに行き先を告げると、御者の顔が一瞬で青ざめた。


「他をお探しください。タワーに行くくらいなら死んだほうがマシです」


 そのあと何台かに声をかけたがどれも反応は似たようなものだった。いわく、あんな薄気味悪いところには行きたくない、あそこへ行けば呪われる等々。どうもここらへんの馬車は上品すぎて意気地がないようだった。


 腕組みをしてうーむと立ち尽くしているときだった。


「ねっ、旦那サン。タワーに行く辻馬車を探しているのかい?」


 腰のあたりから聞こえてきた声に目線を下げてみると、そこには一人の少年がいた。


 このあたりを縄張りにしている浮浪児なのだろう。顔や首は垢で真っ黒で、半ズボンからのぞく足はガリガリすぎて、膝小僧が杭のように尖っていた。シラミがたかる頭にはボロボロの鳥打帽が乗っかっていた。立派な身なりをした道行く紳士淑女からは見向きもされない階級の少年だった。


 どんなに美しい区画だろうと、そこから五分も歩けばすぐに貧民窟に行き着くのがロンドンにおける階級社会の実像だ。人口密度が高く、貧富の格差が激しいロンドンでは、貧民窟がそこら中にあった。


 華やかな通りの裏には必ず陰ができる。


 警官が絶えず通りをうろついて物乞いなどを取り締まっているが、生きるのに必死な人々は何度追い払っても蝿のようにまたノロノロと食べ物にありつこうとする。一部の人が多大なる富を享受する一方で、ロンドンにはそんなみじめな生き物がいたるところにいた。


 僕もトーナメントやタワーで、金やアンジェラや健康な身体を失ったらこうなるのかな、案外他人事じゃないなあ、と思いながら、少年のこけた頬を見ていると、彼は骸骨のような痛々しい笑みを浮かべた。見捨てられまいと必死に芸をする子犬の愛嬌だ。


「旦那サン、ロンドン塔に行く馬車を探しているんだろ? おいらの知ってる御者なら連れてってくれるヨ」


 まともな教育を受けていないのだろう。ギルバートが話す英語とは別の言葉かと思うほどひどい訛りでそう言うと、少年は向こうのほうで客待ちをしていた御者を紹介してくれた。


「旦那、ロンドン塔に行く馬車をお探しで?」


 口髭をこんもりと生やした、汚い身なりの男だった。顔の中心には一筋の醜い傷跡が入っている。


「あっしの馬車に乗りなよ。今ならお安くしときやすぜ」


「ああ、助かるよ。どうもありがとう」


 少年に金をやって馬車に乗り込む。こちらが疑う様子を見せずにさっさと乗り込んだのが意外だったのか、男は傷跡を歪めてちょっと笑った。


「ピカデリー・サーカスは避けて行きますぜ」


「構わないよ。あそこはいつだって混んでるからね」


 男は馬に軽く鞭を入れて、馬車を走らせ始めた。


 男は蒸気機関車のようにパイプの煙を吐き出してしばらく馬を走らせていたが、セント・ジェームズ・ストリートからザ・マルに出たあたりで、御者台から急に問いかけてきた。


「旦那はロンドン塔にいったいなんの御用で?」


「なんの用って、僕の格好見てわからない?」


「そりゃもちろんわかってまさあ。このジョンソン、旦那が思うほど馬鹿でも世間知らずでもねえ。旦那がウィザードだってことはそのローブを見りゃすぐにわかるし、ウィザードとタワーは切っても切り離せねえぴったんこカンカンだ」


 御者台から大声を上げて、ジョンソンと名乗った男は続けて尋ねてきた。


「あっしがききてえのは、旦那はなんのお仕事をなさってるかってことでさあ! ウェスト・エリアにいたってこたあ、王室関係? それとも魔術省のお役人様ですかい? タワーに行くのはなんかの調査のため?」


「いや、そんな立派なお仕事じゃないよ。僕はもっとやくざな商売、いつ野垂れ死んでもおかしくない、トーナメント・プレイヤーさ。タワーに行くのはカードの収集とソウルのレベルアップのためだよ」


 ジョンソンはヒューッと口笛を吹くと、器用に手綱を操りながら手を叩いてはしゃいだ。


「そいつぁいいや! あっしもトーナメントには目がねえんだ。BランクからCランク、おおっぴらにゃできねえような裏試合まで、なんでもイケる口なんですがね、最近特にハマってるのがペーパーパトロンゲームって賭け方で――ご存知ですかい? こいつはデビューしたての新人のパトロンになったつもりで賭けるやり方なんだが、これが熱くてねえ……って、あれっ? ううん!?」


「どうしたんだい。ちゃんと前見て走りなよ、危ないよ」


「なんか見覚えがあるなと思ってたんだが……旦那はひょっとして……〈サキュバス狂い〉のギルバート・ヘインズ!?」


「だったらなんだっていうんだい。僕の顔なんて見ていないで、前を見てよ」


 うっひゃあ、と奇声を上げながら、御者はこちらの言葉も耳に届かぬ様子で大はしゃぎだった。


「すげえや、すげえや。あっしは旦那のファンなんですよ! あんたがこのまま突っ走って十連勝でBまで上がってくれりゃあ、あっしは大儲けなんだ! よっしゃあ、そうと決まりゃあ、時は金なり、馬は道なり! 舌ァ噛まねえでくだせえよ! このジョンソン、本気を出しゃあ、機関車より早え。ロンドン塔なんてひとっ飛びでさあ!」


 蒸気エンジンでもついているかのようにパイプから盛大に煙を出しつつ、ジョンソンは勢いよく馬車を走らせ始めた。


「オラオラ、どけどけえ! 邪魔だ邪魔だ! こちとらジョンソンとその旦那、〈サキュバス狂い〉のギルバート・ヘインズ様だ! 道を譲らねえと、ぶっ殺すぞ!」


 狂ったかのようなスピードで暴走する馬車はチャリング・クロス駅を通り過ぎ、シティ・オブ・ロンドンのさらに東へと入っていく。


 いつのまにか霧が濃くなっていた。昼だというのが信じられないほどの薄暗さだった。ろくに前が見えず、いつ人が飛び出してきてもおかしくない中を、ジョンソンは鞭を振り立てながら馬車を走らせていく。


「あらよっと! 旦那ァ、ちょいと近道していきやすぜ!」


 馬車が通りを一本横に入ったその瞬間だった。町並みはガラリと一転した。


 不潔、退廃、不道徳――ギルバートの目の前を流れていくのは、そんな言葉では足りないほどの瘴気を放った貧民窟の光景だった。


 今にも崩れ落ちそうなレンガ造りの建物は煤や灰で黒く汚れており、辻や往来は汚泥や糞便、塵芥に満ちていた。道端では昼間からジンで酔っ払った男女が絡み合っており、そのすぐ横では骨が浮き出るほど痩せた子供が汚泥と糞便にまみれたゴミ山を漁って食べ物を探していた。路面に面した建物の二階からは騒々しい音楽に乗せて卑猥な歌詞と下卑た笑い声が響いてきて、窓からは娼婦が胸を丸出しにして客引きをしている。


 馬車なんか他には一台も走っていなかった。貧民窟の住人たちは下手な関わりを避けるようにこちらを遠巻きにして見ていた。だが一部の勇気ある者たち――悪臭をプンプンさせた子供や呼び売り商人や皮膚病持ちの娼婦は、食い物に飛びつくネズミのように群がってきた。


「旦那様、お恵みを! 家で弟や妹が腹を空かせているんです! お恵みを!」


「旦那、新鮮なオレンジが一ポンドで二ペンスだよ! さあ、買った買った!」


「旦那さん、遊んでいけよ、遊んでいけよ! あたしのおっぱいであんたのちいせえ棒を天国に連れて行ってやっからよお! あんた若いんだ、不能だってわけじゃねえんだろうにさあ!」


 豆のような無数の腫瘍がびっしり顔から生えた娼婦に、糞便がこびりついた手で腐りかけの果物を売る商人、そして隙あらば盗みを働こうと目をギラギラさせた子供たち。


 獲物に食らいつこうとする無数の不潔な手が目前に迫り、思わず身をのけぞらす。大量の虫が背筋を這い回るような不快感だ。


 ジョンソンが馬車を巧みに走らせながら、鞭を片手に怒鳴った。


「てめえら、寄るんじゃねえ! これ以上、旦那に近寄ってみろ! 叩き殺すぞ!」


 と、そのときだった。


 ジョンソンの振り上げた鞭をかわそうとした子供がバランスを崩して転倒した。その姿はあっという間に人の群れに呑み込まれていく。


 倒れた子供を次々に踏みつけて、なおも馬車を追いかけてくる人々の様子はさながら地獄の亡者のようだった。


 以前初めてこういった貧民街を通ったときにはつい同情して立ち止まってしまったが、そのときには財布はおろか、アンジェラが入ったデッキホルダーまで盗まれそうになった。


 ジョンソンのほうも下手な情けは無用だとわかっているのだろう。必死に鞭を振り回すその姿からは自分だけでなく、こちらを守ろうとする気概が感じられた。


 だからあえてジョンソンを止めようとはしなかったのだが、辻を曲がって元のまともな世界に戻るときについ振り返ってしまった。


 ボロキレのようになった子供はピクリとも動かずに、骸骨のようなその姿を路上に晒していた。そしてそのそばを笑いながら通り過ぎる者はいても、それををかえりみる人はただの一人もいなかった。


 ギルバートと同じように振り返っていたジョンソンがポツリと言った。


「……あっしが近道しようとしたのが馬鹿だった。悪いことしちまった。帰りはもうちょいマシな道を通りやしょうか」


「……うん、そうしてもらえるかな」


 カードを使えばもう少しうまくやれたのかもしれないが、こんなところでマナや資金を無駄にしたくはなかった。彼らに生活があるように、ギルバートにも大切なものがある。


 選んだ道のためならば、文字通り人を踏みつけることもいとわないつもりだった。

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