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第6話 霧のロンドンとバーンズ・カードショップ

 アンジェラの胸を枕にして少し二度寝したギルバートは、今日の予定をこなすために家を出た。


 少し広めの通りで乗り合い馬車を捕まえて飛び乗る。


 乗り合い馬車の中は様々な臭いでいっぱいだった。


 何日も体を洗っていないかのような体臭と煙草が入り混じった悪臭。むせ返るような化粧と香水の臭い。そして誰かが持ち込んできたフィッシュアンドチップスのキツイ油の臭いと安酒のアルコール臭。


 空気の悪い中でギュウギュウ詰めにされるのを嫌って、外に出ていたアンジェラもカードの中に戻ってしまっている。


 ギルバートが少しでもマシな空気を吸おうと窓の外に顔を出してみれば、お馴染みロンドンの汚染された空気が即座に鼻をついてきた。


(まったくたまんないね)


 数十年前に比べればかなり改善されたとはいえ、人口密度が高いロンドンにはいまなお様々な環境問題がある。ロンドンは六百万人以上の人口を誇る世界有数の大都市だ。それだけの数の人がいれば、それに応じた量の生ゴミや排泄物が出るが、それらを処理するための設備は完璧なものとはとても言い難い。それに、人々が食事や暖を取るために石炭を使えば、煙やすすが出て、それが霧に混じることで空気が汚れて、テムズ川の汚水と一緒に悪臭の原因となる。


 霧の都ロンドンなんていえばなにやら幻想的な感じがするが、その実態はたんなる石炭と蒸気機関による大気汚染にすぎない。


 アンジェラとともに本格的にロンドンで暮らし始めてから数ヶ月。もうだいぶ慣れたとはいえ、幼少時代の大半を地方の田園地帯にあるカントリー・ハウスで過ごし、広々としたイートンで少年期を送ったギルバートからすれば、やはりロンドンの悪臭は強烈なものだった。


(少し落ち着いたら、アンジェラと一緒にピクニックにでも行きたいな)


 思わず顔をしかめてしまいたくなる悪臭から逃れるために、アンジェラが入ったカードの匂いをスーハーと嗅ぎながら考える。


 人口過密な中心部は騒音問題や大気汚染で決して住みやすい環境ではないが、その一方で、少し郊外のほうに足を伸ばしてみればそこには意外なほど穏やかで落ち着いた豊かな自然が広がっているのが、ロンドンの面白いところだ。昨日の試合会場であるクリスタル・パレスがあるシドナムもそうだが、ロンドン郊外のハムステッドやリッチモンドなどは特に人気の行楽地としてロンドンっ子に知られている。


(誰もいない緑の森の中で穏やかな日差しを浴び、小鳥の歌を聞きながら、アンジェラにマナ供給か……いいかもしれない。うふッ、なんだか興奮してきちゃった)


 青空の下でアンジェラと愛し合う妄想をしながら楽しんでいると、突然、ギルバートのすぐ隣にいた中年のご婦人がたまりかねたような悲鳴を上げた。


「痴漢! こいつ、痴漢よッ!」


 唐突に妄想を突き破って聞こえてきた悲鳴にびっくりして、ギルバートは思わず声を上げた。


「痴漢だなんてどこのどいつですか」


 そんな不貞な真似を働くやつがいるとは、と思ってご婦人に問いただすと、答えは一発の平手打ちをもって返された。


「とぼけるんじゃないわよ、この変態野郎!」


「……はい?」


 ジンジンするほっぺたに手を当てながら呆然としていると、ご婦人はこちらに向かって指を突きつけてきた。


「さっきからあんた、人の匂いを嗅いだり、ニヤニヤしたり、挙句の果てにはわたしに大きくなったもんを見せつけてきたり――ふざけるんじゃないわよ! イヤらしいことしたいなら金払って淫売女にでも相手してもらうんだねッ!」


「えっ、いやその、な、なにか勘違いしているんじゃ……」


 別にあなたに興奮していたわけではないし、僕はそもそもアンジェラにしか興奮したことがなくて、仮に普通の女の人に興奮することがあったとしてもあなたは列の順番でいったらかなり後ろのほうになると思います……といったことを説明したいのだが、突然のぬれぎぬにしどろもどろになってしまって、言葉がうまく出てこない。


 そうこうしているうちに事態は悪化の一途をたどっていた。周りの乗客がジロジロとこちらを見ながら勝手なことを喋っている。


「へえ、あんな若い紳士があんなおばさんにねえ」


「人は見かけによらないなあ。とんだ変態野郎だ」


「せっかく若くてきれいな顔しててお金も持ってそうなのにね。どうせならわたしにしてくれればよかったのに……」


 まずい。ギルバートのこめかみに冷たい汗が流れた。


 このまま変態野郎だと勘違いされるのは沽券に関わる。この危機的状況をどう乗り越えるべきか。


 懸命に頭を働かせて出てきた一手に、ギルバートは飛びついた。


「お、降ります! もうここで降りますので馬車を止めてください!」


 選択したのは逃げの一手だった。


 乗客をかき分けて転げ落ちるように降りると、慰謝料慰謝料と叫び続ける女を乗せて馬車はガタガタパコパコと走り去っていった。


「なんだっていうんだ、まったく!」


 パンパンと服についた塵を払いながら悪態をつく。家から歩いて三十分程度の目的地に向かうのに横着して馬車なんかに乗るから、こんな目に遭ったのだろうか。まったく、なにが痴漢だ慰謝料だ。まるで当たり屋だ。


 ひょっとすると百年後くらいには、どこかの国でこういう痴漢冤罪商売が行われるようになるかもなあ、と到底ありえそうもない冗談を考えながら、スラックスとシャツ、そしてローブについた塵を完全に落とすと、そこでなにかが足りないことに気づいた。


「あ、ステッキ!」


 しまった。せっかくのお気に入りを馬車の中に置いてきてしまっていた。たいした値段のものでもないが、あれを置き忘れてしまうとは痛恨のミスだった。


「まあ一番大事なものは無事だからいいんだけどさ……」


 手の中にはアンジェラのカードがあった。ローブの内側ではデッキホルダーの金色の鎖がチャリチャリと音を立てている。


 まあこれさえあれば他にはなにも要らないか、と気を取り直すと、ギルバートは目的地に向かって元気よく下半身を動かして歩き始めた。


 ずいぶん歩きやすい通りだった。道がギルバートの家の周辺よりも広くて、きれいで、よく整備されている。おまけにまだ上流家庭にしか普及していない自動車が何台も道を走っていた。


 今、ギルバートがいるのは宮殿や国会議事堂、官公庁舎が集まるロンドンの中心街、ウェストエンド・エリアだった。


 このエリアは、高級テーラー、一流画廊、アンティークショップといった富裕層向けの店が立ち並ぶ区画でもあり、王室関連や政治・行政に関する職業に就くウィザードのためのカードショップが密集したエリアとしても昔からよく知られている。


 ギルバートは、王室御用達の老舗食品店であるフォートナム・アンド・メイソンに良い身なりをした人たちが入っていくのを横目にしながら、細い道に入った。重厚な趣のある高級紳士クラブや葉巻の専門店の前を通り過ぎながら、さらに一歩細い裏路地に入って、ようやく目的地にたどり着く。


 ――バーンズ・カードショップ。


 うっかりしていると見逃してしまうほど小さな看板が掲げられた、一見するとなにをやっているかよくわからない外観の店だった。わざとかどうかはわからないが、窓ガラスにはカーテンが引かれて中が見えないようになっている。


 商売する気あるのかな、たぶんないんだろうなと思いながら、人を拒むような重さのドアを開けると、ドアベルが空虚で不吉な音を鳴らしてギルバートの訪れを知らせてくれた。


 薄暗い店内の中にいたのは禿頭の小柄な男だった。ドアからの光に目を細めているその様子は疑り深いゴブリンにどこか似ていた。


「おや、いらっしゃいませ。〈サキュバス狂い〉殿。こんな朝早いうちからご来店なんて結構なことですな」


「迷惑だったかな、バーンズさん」


 ドアを閉めながら静かに問いかけると、この店の主人であるトム・バーンズはにやりと口が裂けるような笑みを浮かべた。光が届かない店内で、欲深なゴブリンを思わせるその目が怪しげに光った。


「いいえ、ヘインズさん。あなたならばいつでも大歓迎だ。それで今日はどのようなご用件でしょうか。もしかして、ついにあのサキュバスをお売りいただける気になったのですかな?」


「バーンズさん。僕はそういう冗談はあまり好きではありません」


「冗談ではないとしたら?」


「……」


 カウンターの内側でますます口を裂いてにやにやするバーンズに、ギルバートの指先が勝手に反応した。懐のデッキホルダーから〈雷火〉をドローして魔術回路を励起させようとしたところで、ギルバートは自分がしようとしていることにようやく気づいた。


 カードを掴んでいる手をもう一方の片手で押さえつけたギルバートを、店主のトム・バーンズはカウンターの内側で面白そうに見ていた。


「おやおや。デビューしてからわずか数カ月だというのに、とてもよく練習なさっておられる。素晴らしいドロー速度ですな」


「……バーンズさんも。引退なされたというのに、まだまだお元気そうだ」


 ギルバートの目はこちらがカードをドローした瞬間に、バーンズの骨ばった肩がピクリと反応したのを見逃さなかった。


「おや、鋭い。当店に〈サキュバス狂い〉殿をお連れしてきたサブリナの目は確かだったようですな」


 カウンターの下に隠れていた手を降参したように上げるバーンズだったが、その手の中には一枚のカードがあった。どこまでが冗談で、どこまでが本気だったのかはわからないが、ギルバートが自分を抑えることができなければ、そのカードによって間違いなく返り討ちに遭っていたことだろう。


 トム・バーンズは元Bランク・トーナメント・プレイヤーだった男だ。それもただのBランカーではない。この世界の最高峰、たった数人のみしか座ることを許されないAランクの席への挑戦権まで得ていたプレイヤーだったのだ。


 Aランク・プレイヤーに挑んで大怪我を負ったことで現役を退くことを余儀なくされたらしいが、今の動きを見る限り、いまだその実力は今のギルバートよりはるかに上にあることは間違いなかった。


「……」


 ギルバートが黙ったままカードをデッキの元の位置に戻すと、トム・バーンズは急にこちらに興味を失ったようだった。よっこいしょと言いながらフラフラと立ち上がった。


「せっかくいらしてくれたんだ。サブリナを呼んできましょう。やれやれ、あれはあなたのファンでしてな。せっかくシュルーズベリーを出たというのに、あれときたら、トーナメントやらカードやらに夢中で……もう三十歳にもなるというのに、嫁の引き取り手もいない親不孝者です、あれは」


 ぶつくさと娘への不満を漏らしながら、トム・バーンズはステッキをつきながらカウンターの奥へと引っ込んでいく。


 片方しかない足でトム・バーンズが苦労しながら去っていくのを見ていると、懐のデッキホルダーの中から魔術回路を通じて声が聞こえてきた。


(うぅん……あら、マスター? いかがなさいましたか、なんだか様子が変ですけれど……)


(いいや、なんでもないよ)


 マスターが許していれば、ソウルはカードに自在に出入りできる。また、カードの中からその場にいる者に聞こえるように声を出すこともできるし、魔術回路を通じてマスターにのみ話しかけることも可能だ。ちなみにカードの中に入ることは温かい浴槽にどっぷりと浸かるようで案外気持ちいいらしい。


 どうやら家を出てから今に至るまで、浴槽の中でアンジェラはぐっすりと眠っていたらしかった。起き抜けのその声を聞いて、ようやく肩の力が抜けた。


 カードショップでの用が済むまでもう少しカードの中で眠っていてくれるようにアンジェラにお願いしていると、後ろのほうから甲高い女の声が聞こえてきた。


「あらあら、まあまあ! ようこそいらっしゃいました、ヘインズさん!」


 振り向けば、サブリナ・バーンズが胸に手を当てて喜色満面のご様子でそこにいた。

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