第5話 サキュバスと迎える朝
「あら、マスターったら♡ 昨晩あんなに頑張られたのに、朝からすごい♡」
「ぅん……んぁ? ああ、あー……あさ?」
「はい、朝ですわ、マスター。おはようございます♡」
ぼーっとしながら上半身を起こすと、波打つ銀髪がまるでシーツのようにギルバートの身体を覆い尽くしていた。アンジェラがこちらの下半身に絡みついて、紅い瞳を上目遣いにこちらを見つめていた。
こちらよりも早く起きたのか、アンジェラはすっかりお目覚めのご様子だったが、ギルバートはまだねぼけまこをこすっていた。
「んぁ……まだ眠いよ、アンジェラ……」
「そんなことおっしゃって……こちらはもうすっかり起きていらっしゃるではありませんか♡」
「ひゃんっ」
指先で敏感なところをツツっと撫でられるかのように体内の魔術回路をイジられて、ギルバートは思わず声を上げてしまった。
「あら、マスターったら、お可愛いこと♡ 女の子みたいな声ですわね」
朝からなんてことをするんだと無言で睨んで抗議すると、アンジェラは真っ赤な舌で口の端を舐めた。
「うふッ、申し訳ございません、冗談ですわ……お楽しみはまたあとで」
紅い瞳に怪しい光を浮かべて、アンジェラは先にベッドから抜け出していった。
と思ったら、またすぐに戻ってきた。その手には湯気を上げるお盆があった。
「マスターはまだおねむのようですし、今朝はベッドで朝食にいたしましょう」
そう言ってベッドに入り込んできたアンジェラは甲斐甲斐しくこちらの世話を始めた。
今日の朝食は紅茶にパン、それにベーコンと卵とマッシュポテトという、シンプルにして最高ないつものメニューだった。昨今のロンドンにおける食品偽装は凄まじく酷いが、ギルバートの家で使う食材はどれも信頼できる店に届けてもらった一級品だ。
アンジェラの手でパンをちぎってもらい、カリカリのベーコンとトロトロの卵を上に載せて、口へと運んでもらう。アンジェラのお手製の料理は今日も美味しかった。
「いつもすまないねえ、アンジェラ」
「マスター、それは言わないお約束ですわよ。構いませんわ、わたくしが好きでやっていることですもの」
本来ならば食事の用意なんていうのは使用人にやらせることなのだが、朝食だけは自分が作るといってきかないアンジェラだった。
その理由についてはよくわからなかったが、この習慣が始まったのはこの家で二人一緒に暮らし始めてからのことだった。
今年の六月にイートンを卒業してからこの数ヶ月、ギルバートとアンジェラはロンドンのメリルボーンにある、この中流階級向けの集合住宅で二人暮らしをしていた。
本当はロンドンの郊外のほうに実家が持っている社交シーズン用の別宅もあるのだが、そちらは現在使うことができない。
(なにしろ事実上、勘当されちゃってるものねえ)
七月頃、イートンを無事卒業できたことを実家に報告しに行ったときにあった一悶着を思い出す。
アンジェラを初めて家族に紹介したときの家族の驚き。そして、彼女とともにトーナメント・プレイヤーとして生きていくと告げたときの義母のヒステリックな怒り。
そのとき、義母に投げつけられた非難の数々が思い返される。
「愛人の子供のくせに」
「引き取って養子にしてやった恩も忘れて」
「お父様がご用意してくださった魔術省の官僚職を蹴るとはどういうつもりか」
昔から頭のおかしな人だった義母のことは今さら気にもならないが、あのときの父とのやり取りにはさすがのギルバートも心が傷んだ。
父は静かに言った。
「かつてはお前をわたしの跡継ぎにしようと思っていた。コリンが生まれてお前に相続権がなくなったときも、わたしはお前に期待していた」
確かにそうだった。
ヘインズ家は代々貿易業を営んできた家で、現在では世界各地の植民地に支店を持つほどの資産家だ。
しかし、現当主である父と義母のあいだには長いあいだ子供ができなかった。そこで父は愛人とのあいだにできたギルバートを自分の養子にしていた。
ギルバートの生みの母親は出産時の病で亡くなっていた。他にギルバートの引き取り手はいなかった。
そんなギルバートのことを不憫に思って引き取ってくれたのか。それとも、父はギルバートの実の母のことを愛していたのか。それはわからなかったが、父が立派な教育を与えてくれたことは確かなことだったと思う。感情を表に出すことは滅多にない静かな人だったが、ことあるごとに父はギルバートをそばに呼び寄せていろんなことを教えてくれたし、嫉妬深い義母の病んだ怒りと過度な体罰に対してはいつも公平に対処してくれた。
だが、父が本当に自分のことを愛してくれていたのかどうかについては、ギルバートは確信が持てなかった。
正統な跡継ぎたるコリンが父と義母のあいだに生まれてから、ギルバートに対する父の扱いはおざなりになっていった。会話の機会は減っていった。そばに呼び寄せられることは滅多になくなった。ギルバートが将来独り立ちできるように、イートンに通わせてウィザードになる訓練を受けさせてくれたのは父だったが、それもコリンを跡継ぎにするための厄介払いだったのかもしれない。
この七月、ギルバートがトーナメント・プレイヤーになると言ったとき、父は言った。
「お前がわたしの望んだ道と違う道を行くというのならば、わたしがお前にしてやることは一切ない。これからは自分の足だけで歩いていけ。たとえそれで折れることがあろうが、ヘインズ家の敷居をまたぐことは断じて許さん」
「はい」
と、ギルバートはうなずいた。父の言う通りだった。義母のヒステリックな性格のことはよく知っていたから、最初からヘインズ家の援助などは一切期待していなかった。
それでも、だ。
最期の別れ際に聞こえてきた、静かな失望と苦悩を感じさせる父のため息には心が傷んだ。それは、愛人とのあいだにできた子と、それで心を病んでしまった妻とのあいだで板挟みにされる一人の男のため息だったのだと思う。
(だけどまあ、歩き出しちゃったものはしょうがないよね)
欲しいものがあった。それは父が敷いてくれたレールの先にはないものだった。それを手に入れるためならば、自分を育ててくれた父の期待を裏切っても、その心を苦悩させても、ギルバートは進まねばならなかった。
実家と訣別したギルバートは、持ち物をすべて売り払って、知り合いに借金をし、イートン時代によくしてくれた教師のツテをたどることで、この狭く小さな家を借りた。最初のうちは軌道に乗るまで大変だったが、今では借金もすべて返済することができて、掃除や洗濯をやってくれる通いの中年メイドまで雇うことができるようになった。
――そういえば。
ふと、ギルバートは思い出した。
あれはまだ生活が大変だった頃、せめて二人で毎晩一緒に使うベッドだけはまともなものを手に入れようと、安い中古家具屋を巡っていた頃のことだ。
異国情緒を感じさせるオリエンタルなインテリアを多く取り揃えている家具屋の店員から、旦那の世話をするのは妻の役目という東洋の話をアンジェラと一緒に聞いたような気がする。
思えば、アンジェラが朝食だけは自分の手で用意してギルバートに食べさせるようになったのは、この話を聞いたときからだった。
(ジャポニズム・スタイルが好きなのかな?)
そうかもしれない。ギルバートはアンジェラの今朝の服を見た。
アンジェラはサキュバスのスキルによって自らが身に纏うものや髪型をある程度自由に変えることができる。髪の色や顔、身体などを変えることは不可能だが、その変身能力はファッションにおいてはほぼ無敵の効果を発揮するといってよい。
それを証拠に、今朝のアンジェラの格好は普通では入手が難しいはずのキモノだった。
(ふうん)
数十年前のパリ万国博覧会で陶器や版画が出品されたことをきっかけに、はるか東洋の美術や生活様式は、西欧の絵画、インテリア、装飾品といった様々な分野において影響を与えている。
実家が代々貿易業を営む資産家で、幼い頃は父の仕事をそばで見聞きしていたこともあって、ギルバートの見聞や知識は、社会、経済、軍事、歴史、文化、芸術といった各方面によらず幅広い。
それらの知識に裏付けされて磨かれた審美眼が告げていた。
(これはイヤらしいものだね)
濃紫の生地に艶やかな花が薄い線で儚く描かれた布地を、白銀の帯で軽く結わえて、前は大胆にはだけている。そのおかげでアンジェラがこちらの口にものを運ぶたびに、胸元の深い谷間がちらりと見えそうになる。
そんなこちらの視線に気づいたのだろうか。
「あら……」
そっと袂を大きな胸元でかき合わせて、恥ずかしげに微笑むその様子に、ギルバートの魔術回路はまた励起してきた。アンジェラの真っ赤な唇に思わず目が吸い寄せられる。
――だが。
「いたずらなさってはいけませんわ、マスター」
自分でも気づかないうちに顔をアンジェラの前に寄せていたらしい。こちらの唇にそっと人差し指を当てて、アンジェラは赤くなった頬を隠すようにぷいっと顔を背けた。
「もう外は明るくなっておりますし、今日はお忙しいのでしょう? さあ、早く朝食を済ませてしまわないと……」
そう言ってこちらの口にパンを運ぼうとするアンジェラだったが、その胸元はまたはだけてしまっていた。おまけに裾のほうもずれて真っ白な太ももがあらわになっている。
「……」
「はい、マスター、あーんして……マスター? きゃっ!?」
あまりに無防備なその様子に、我を忘れた。
バキバキに励起した魔術回路をもって襲いかかったギルバートに対して、アンジェラは暴漢に襲われた乙女のような反応を見せた。
悲鳴を上げ、真っ白な太ももをぴっちりと閉じようと懸命な努力をし、いやいやするように首を振り、涙を目ににじませた。
だが、ギルバートが無理やりねじ込んだ魔術回路を激しく往復させ、真っ白なマナを放出すると、その身体はビクンッビクンッと激しく跳ねて、やがて力を失ったようにパタリと倒れた。
ハアハアと荒い息をついてアンジェラの上に倒れ込みながら、しかし、ギルバートにはどうにも解せないことがあった。
魔術回路を挿入した瞬間、アンジェラの紅い瞳が怪しく光ったように思ったのだ。
(そう……あれはまるで、計算通りといったような……)
うふッ、という笑い声を聞いたように思ったが、まあどうでもいいかとギルバートは目を閉じた。
――気持ちよければ、それでいい。
刹那的な快楽の前にはすべてがどうでもいいと思えるギルバートだった。
愛人の子ということで妙な視線を向けてきた実家の使用人たち。義母の病的な怒りと過度な体罰。顔すら知らない生みの母。ほとんど会話したことがない弟。そして父の放任。
そんなことはすべて、十四歳のときにアンジェラと出会ってからはどうでもよくなった。
一瞬の絶頂だけを追い求め、ギルバートは進む。
快楽と堕落をもたらす甘美なるサキュバスとともに、ギルバートは確かに今、自分の足のみで歩いているのだった。