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第40話 馬鹿で頑固なアイルランド人は空を飛ぶ

(この野郎、読んでやがるな)


 底知れぬ静謐な海のように集中を高めている相手を見て、ダンは思った。


 相手はこちらの手筋を読み切っている。場に残った三体のゴブリンを同時に突撃させて、最後を〈隻眼のゴブリン〉で決めることを完全に読んでいる。


 だがそんなことはわかりきっていることだった。ギルバートに手筋を読まれているのは百も承知のことだった。


 なぜならば、ダンのほうもギルバートの最後の一手を見切っていたからだ。


(最後はやっぱりあのスキルか)


 黒い尻尾を槍のように固く尖らせるサキュバスを見て、確信する。


 ――これは一瞬の勝負になる。


 カワセミが水面に飛び込む瞬間のように。稲妻が空から落ちる瞬間のように。


 ダン・ギャラガーのこれまでのすべてが、この一瞬に賭けられている。


 ダンは自身から〈隻眼のゴブリン〉に流れるマナをこの上ないほど研ぎ澄ませた。


 クリスタル・パレスの暗黒の空では轟々とした嵐が猛威を振るっていた。向こうのソウルとこちらのソウルのあいだでは篠突く雨が降りしきっていた。


 〈隻眼のゴブリン〉の視界には矢弾のように天から落ちてくる雨粒が映っていた。それらの一粒一粒がダンにははっきりと見えていた。


 雨粒がやけに鈍臭く目の前を落ちていく。ほとんど止まっているような速度だった。隻眼の短剣を振るえば、狙った一粒をあっさりと切り裂けそうなほどだった。


 隻眼から伝わってくる鋭敏な感覚は、この嵐にももうすぐ終わりがやって来ることを告げていた。


 ダンは二度深呼吸して……それからゆっくりと、三体のゴブリンをナメクジが這うような速度で前進させた。


 それに呼応するようにして、相手のサキュバスも薄氷を踏むようにゆっくりと近づいてきた。


 激しく降りしきる雨の中、ソウルたちは互いの間合いを少しずつ詰めていく。


 そして、あと髪一筋分で互いの間合いに触れる――そのときだった。


 嵐とともにやってきた雷光がクリスタル・パレスの空を真っ白に染め上げた。


 その瞬間、場に出ているすべてのソウルが疾走った。


 サキュバスは夜の嵐のような勢いをもっていた。それに対して、ダンは研ぎ澄ませた己の刃を静かに振り上げた。


 〈ゴブリンの暗殺者〉と〈ゴブリンの戦士〉をほんのわずかに先行させて、後ろに〈隻眼のゴブリン〉を構える。


 手札にあるのは二枚の攻撃呪文カード。〈ゴブリンの暗殺者〉と〈ゴブリンの戦士〉を自爆させるための最後のカードだった。


 読み切る――


 極限まで集中して、真っ白な空のように澄み切った双眸で敵のすべてを見切る。


 敵の技量、精神性、その魂の在り方、そしてこれまでのすべて。


 それらのすべてを見切った結果――ダンは自身のソウルがほんのわずかに遅れを取っていることを悟った。


(やつらのほうが深い)


 ほんのわずかに……紙一重の差で、彼らの間合いのほうが深かった。


 経験と勘が告げていた。


(このままでは殺られる)


 この間合いならば、敵の攻撃のほうが先に届く。


 そうなれば詰みだ。敵のサキュバスによって、ダンのソウルは破壊される。


 だが、そのときだった。


 魔術回路の先で突然、なにかが急に引きちぎられる感覚があった。


(隻眼――?)


 先行していた他の二体のゴブリンを追い抜いて、〈隻眼のゴブリン〉が急激に間合いを詰めていた。


 その行為の意味するところに、ダンは気がついた。


(そうだな――最後はおれとお前だけでカタをつけよう)


 ジジイに出会って、この隻眼を与えられて……。


 そこから始まった道だった。どんなに苦しいときでも、このソウルとならばダンは空を飛べることができた。


 だから、この勝負の終わりも隻眼とだけで迎える――それがダンとこの隻眼の、あるべき正しい貌だった。


 二体のゴブリンを置き去りにしたことで、こちらより深かった敵の間合いを潰すことができていた。


 互角だ。


 ダンとギルバートのソウルは間合いも技量も速度も、すべてが互角だった。


 ダンはギルバートを見た。


 ギルバートはダンを見た。


 その瞬間――


 雷光に遅れてやってきた雷鳴がクリスタル・パレスの雨空に轟いた。


 そして……。


 その音が鳴り止む頃には決着が着いていた。


(――負けた)


 サキュバスの槍のような尻尾が、〈隻眼のゴブリン〉の腹に深々と突き刺さっていた。


 隻眼の手から〈ゴルグの短剣〉がポロリと落ちた。隻眼を動かすことはできなかった。敵の黒い尻尾は隻眼の身体から凄まじい勢いでマナを吸い上げていた。


 サキュバスは蕩けきった笑みを浮かべていた。その赤い瞳には、隻眼の後ろから遅れてやってくる二体のゴブリンの姿が映っていた。


 敵のサキュバスは指を二体のゴブリンに向けた。


 ――詰みだ。


 それを、悟った。


 ここから挽回するすべはなかった。すべてはやはり一瞬で決まってしまった。


 すでに〈隻眼のゴブリン〉は死に体だった。今から二体のゴブリンを自爆させても、物理攻撃を仕掛けさせても、なんの意味もない。サキュバスの攻撃の狙いはすでに定められていた。こちらが攻撃を仕掛けるよりも、敵が攻撃呪文を放つほうがはるかに速いだろう。


(ここまで……なのか?)


 ジジイとの出会いから始まり、隻眼と二人だけで歩いてきた道だった。


 死ぬほどに苦しい日々をもがき、足掻いて……そこからやっと抜け出して、この真っ白な空にたどり着くことができた矢先のことだった。


 こいつとならば、どこまでも飛べる。どんなに高い空にだって飛んでいける。


 そのはずだった――そのはずだったのだ。


(だが、違った)


 ――やつらのほうが、深く、そして高い領域に到達していた。


 なかば我を忘れた状態で、ダンは悟っていた。やつらのほうが……ギルバート・ヘインズとこのサキュバスのほうが、こちらよりも繫がりが深かった。


(おれは馬鹿なアイルランド人だ)


 今さらながらに思った。


 もっと前から、この隻眼のことを知ろうとしていたなら。


 自分の心に巣食った、周囲の環境やジジイに対する憎悪にとらわれることなく、もっと真っ直ぐな気持ちで隻眼と向かい合っていたなら。


(お前をこんな目に遭わせなかったのに)


 魔術回路の先で、サキュバスに生命を吸い取られている〈隻眼のゴブリン〉と過ごした日々に、ダンは激しい悔恨を覚えた。


(もういい――もう終わりだ)


 自身の(ソウル)が傷つくのを、これ以上見ていられない。今ならまだ間に合うはずだ。


 ――降参だ。


 その選択肢を舌に乗せて、言葉にしようとした瞬間だった。


 どこかから声が聞こえてきた。


 耳元から聞こえてきたその囁きは紛れもなく、悪魔のそれだった。


 ――あなた様が次の試合で戦われるときにはすべてを捧げるべきですな。そうでなくてはあのお方は倒せないと、しがない案内人は愚考する所存にございます。


 それは白昼夢のような一瞬だった。


 忘我の境地から、ダンは、はっと目覚めた。


 魔術回路が刺激されるような感覚があった。〈隻眼のゴブリン〉はまだ生きていた。生きて、最後の力を振り絞って――こちらに合図を送っていた。


 今度はなぜか、ジジイの声が聞こえてきた。その声は〈隻眼のゴブリン〉から聞こえてくるようだった。


 ――てめえを引き取ったのはよお、てめえが馬鹿で頑固なアイルランド人だからだよ。おれたちには同じ血が流れてんのさ。


 サキュバスの尻尾で腹を刺された隻眼は、吐血していた。その口から垂れている血が一滴、ポトリと落ちた。


 それはダンと同じ赤い色をしていた。


 その瞬間――隻眼とダンの魂はピタリと重なり合った。


(馬鹿な)


 自分の頭に浮かんできた、この戦いを終わらせるためのもうひとつの選択肢に、ダンは呆然となった。


 それは降参ではなかった。それはあまりにもおぞましく、だからこそ敵が想像することのできない悪魔の一手だった。


 ――〈隻眼のゴブリン〉を自爆させる。


 自らの頭に浮かんできたその一手を、ダンは首を振って否定した。


(ありえない。そんなことはありえない)


 そうすれば、確かに敵のサキュバスはひとたまりもない。〈雷火〉で相殺することさえできないほど、サキュバスと隻眼は密着した状態にある。この至近距離で隻眼を自爆させれば、敵はひとたまりもないだろう。そうなれば、あとは二体のゴブリンを場に残したダンの勝ちとなるはずだった。


(だが、そんな手はありえない)


 この勝負は、この戦いは――勝ち負けとか、そういう単純な次元にあるものではなかった。


 ずっとこの世界を追い求めて、これまでやってきた。隻眼と二人だけでずっとやってきたのだ。


(こいつを犠牲にして、おれだけ高い空を飛ぶなんて、許されるはずがない)


 野良犬だった。ダンはずっとあてどなく彷徨い続けてきた、どうしようないほどの野良犬だった。


 ろくでなしの親が死に、路上に放り出され、人殺し以外の多くの罪に手を染めてきた。


 ジジイに拾われ、捨てられてからも、野良犬の性分は変わることがなかった。たったひとつの空だけを求めて、果ての知れない道をこれまでダンは彷徨い続けてきたのだ。


(だからこそ、飛びたい)


 ――それこそ、自分の魂を生贄に捧げてでも。


 自分の心の底にあるその本心に気がついたとき、そのあまりの罪深さにダンは恐れおののいた。


 だが――


 〈隻眼のゴブリン〉は笑っていた。敵のサキュバスにマナと生命を吸い取られ、死の淵にありつつも、その顔はあのジジイとそっくりの笑みを浮かべていた。


 皮肉なことに、昔はわからなかったその謎めいたような笑みの意味が、今のダンにはあますことなく理解することができた。


 ――それがお前の望みか、隻眼。


 〈隻眼のゴブリン〉が自分とまったく同じ気持ちになっているのを理解した瞬間、ダンは自分の腹を切るような思いで覚悟を決めた。


 腹から真っ赤な血潮を吹き出しながら、ダンは歯を食いしばった。


(悪いな、隻眼。でも、おれは馬鹿で頑固なアイルランド人だから――)


 ――だから、お前と別れて、おれは行くよ。もっと高い空の上まで、飛んで行くよ。


 ダンは自分をここまで連れてきてくれた相棒に別れを告げた。


 そして、自分よりも高い空に到達している男に向けて言った。


(食らえ……そして受け止めてくれ――)


 ――これがおれの魂の一手(ソウルカード)だ。


 最後に残ったその手札を切った瞬間――


 馬鹿で頑固なアイルランド人は空を飛んだ。


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