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第39話 ギルバート・ヘインズの海

 黒々とした空に冷たく降る雨は、周囲の余計なものを寄せ付けない障壁のようだった。


 他の人々から隔絶された世界で、ギルバートとダンは互いのソウルを向かい合わせていた。


 対面に座るダンを、ギルバートは見た。その顔にはいかなる表情も浮かんでいなかった。そこにあるのは、ただ終焉のときに向けて、魂を刃のように研ぎ澄ましている一人の男の姿だけだった。


(ダン……君ってやつは、なんて気持ちがいい男なんだろう)


 この男とだったから、ギルバートはこの世界にやって来ることができた。


 ここは暗くて、冷たくて、深くて……とても気持ちがいい世界だった。


 闇の色をした深海をゆったりと揺蕩いながら、ギルバートはアンジェラの魂を胸に抱き締めていた。


 全身の官能が目覚めていた。海の潮流、星の運行、宇宙の光。アンジェラの魂を胸に抱いたギルバートは大きな流れに身をまかせて、深海を泳いでいた。


(こういう世界が、あるんだ)


 自分の意識が大きなひとつの流れの中に溶けていく。すべてのものが黒い海の中に溶けていく。


 ここではすべてのものが繫がり合っていた。ギルバートとアンジェラ、アンジェラとゴブリン、ゴブリンとダン。閉じられた深い世界で、それらの魂は見えない糸で相互に繫がり合っていた。


 この世界でギルバートは一人ではなかった。


 アンジェラと結んだ糸の先に、彼の存在を感じていた。


 突然、なぜだか泣きたくなって、涙がこぼれないようにギルバートは上を見上げた。


 ――ずっと一人だった。


 家族や友人というものを知らず、愛というものを知らずに生きてきた。


 それがアンジェラに出会ってからすべてが変わった。


 そして、彼女とともに歩んできたこの道で、この男に出会うことができた。


 この男がギルバートをこの世界に連れてきてくれたのだ。


(ダン――君の欲望に敬意と感謝を。君のような男に出会えて……良かった)


 この男の欲望がなければ――この男の(ソウル)がなければ、ギルバートはこの世界の存在を知ることすらできなかった。


 だが、どんな時間にも終わりというものがやってくる。


 ギルバートは最後に残った一枚の呪文カードに手をかけた。


 ギルバートもダンも、限界に達していた。体力も集中力もマナも、すべてが極限に達していた。


 この永遠の世界にも終わりのときが来ていた。


 だが、蝋燭の火は消える瞬間にこそ、もっとも激しく燃え上がる。


 最後の輝きを発するべく、ギルバートは深く息を吸い込んで、アンジェラの魂をギュッと胸に強く抱き締めた。


 アンジェラの瞳で、ギルバートは対陣の敵を見た。


 激戦を経て、場に残っているゴブリンは、三体のみとなっていた。


 〈ゴブリンの暗殺者〉。


 〈ゴブリンの戦士〉。


 そして、〈隻眼のゴブリン〉。


 ここまでの戦いによって、すでにギルバートはダンの手筋とその癖を見切っていた。


(〈隻眼のゴブリン〉……あのソウルこそが、ダンのデッキのキーカードだ)


 それはアンジェラの魂を賭けても間違いがない事実だった。


 無数のゴブリンが爆発する乱戦の中で、時折飛んできた、果てしなく重い攻撃。


 間違いない。他のゴブリンの影からこちらの死角を狙ってきたあれらの一撃はすべて、この〈隻眼のゴブリン〉によるものだった。


 これまで情報収集をしていても、ダンの試合を観戦しても、外からでは気づくことができなかった。


(十二匹のゴブリンで絶え間なく物理攻撃と自爆攻撃を繰り返して敵を焼き尽くすのが、〈十二匹の怒れるゴブリン〉デッキの真骨頂かと思っていたけど……)


 そうではなかった。


 乱戦の状況を作り出し、あの〈隻眼のゴブリン〉の一撃で獲物を影から仕留める――それこそがダン・ギャラガーの〈十二匹の怒れるゴブリン〉デッキの真髄だったのだ。


 敵のデッキの秘奥とその精神性を見抜いたギルバートは、うふッと笑った。


(ヤれる――)


 その確信があった。


 大詰めのときを迎えて、敵がどういう手を指してくるか。それがギルバートにはすっかりお見通しだった。


 ――トーナメントのルールでは、戦闘継続不可能となったほうが負けとなる。


 戦闘継続不可能の定義はマナ切れ、気絶、降参、と様々だが、その中のひとつに、手持ちのソウルをすべて失う、というものがある。


 トーナメントのルールの根底にあるのは、対外戦争時のウィザードの戦力向上という考え方だ。仮に戦争の最中に、手持ちのソウルをすべて失ってしまえば、身を守るすべがほとんどなくなってしまうため、ウィザードは極めて危険な状態――戦闘継続不可能な状態に陥ってしまうことになる。


 よって、トーナメントでも、場に出せるソウルがそれ以上なくなってしまったら、戦闘継続不可能、つまりは負けと判断されることになる。


(早い話が、最後までソウルが場に残っていたほうの勝ちというわけだね)


 対陣に布陣する三体のゴブリンに視線を配る。


 ダンからしてみれば、あの中のどれか一体が生き残り、なおかつ、こちらのアンジェラを倒すことができれば、それで勝ちとなる。


 逆に、ギルバートの勝利条件は、あちらのゴブリンをすべて殲滅することだ。


 しかし――


 それは、あくまでトーナメントという枠組みから考えた話だった。


 この試合は、この戦いは……すでにそんな次元の低い枠組みからは逸脱した世界に入り込んでいた。


 勝つか負けるかの話ではなかった。この戦いの結末がそんな単純なものであるはずがなかった。


 ギルバートが追い求めるものは、その先……勝敗を超えた領域にあった。


 それはダンにとっても、同様であるに違いない。


 繫がり合った糸の先で、ダンがどういうことを考えているのかが、ギルバートには長年連れ添った夫婦のようにわかっていた。


(うふッ……)


 糸の先で、ダンと〈隻眼のゴブリン〉の魂は一振りの刃と化していた。その他の二体のゴブリンは添え物みたいなものだった。


(最後は〈隻眼のゴブリン〉で来る)


 それは、予測、分析、本能、予感――そんなものを超えた確信だった。


 ダンとはこれまで、お互いに裸になって、むき出しの魂をガチガチにぶつけ合ってきた。だから、相手の気持ちいいところは自分のそれのように感じ取ることができた。


(僕と一緒だね、ダン……君はそのソウルで戦うことが一番気持ちいいんだ)


 ――だから、最後は〈隻眼のゴブリン〉の一撃にすべてを賭けてくる。


 それがギルバートの読みだった。


 おそらく、ダンは三体のゴブリンを同時に仕掛けてくるだろう。


 三体を一斉に突撃させて、そのうちの〈ゴブリンの暗殺者〉と〈ゴブリンの戦士〉を自爆させる。それでこちらの隙を作って、そこに〈隻眼のゴブリン〉で王手をかける。


 それが、ダンの最後の一手に違いなかった。


(最後は、単純なパワープレイということか)


 乾いた唇をペロリと舐めて、湿らせる。


 それと同時に、アンジェラのほうも自らの黒い尻尾をちゅぽりと口に含んで湿らせた。


 黒い尻尾から淫らな唾液を垂らしながら、アンジェラが、うふッ、と笑って言った。


(でも、それはわたくしたちも同じではなくて、マスター?)


(違いない)


 ギルバートはアンジェラと同じ笑みを浮かべた。


 最後のカードを顔の前にかざす。


 激戦を経て、〈ゴブリン砕き〉を含むすべてのカードを消費し、それでも残った最後のカードはやはり〈雷火〉だった。


(こいつと、アンジェラの〈聖なる饗宴〉でキメる)


 ギルバートが選択した最後の一手はそれだった。


 二体のゴブリンの自爆を〈雷火〉で処理する。そして突撃してきた〈隻眼のゴブリン〉に、すれ違いの一閃で、アンジェラの黒い尻尾を突き刺す。


 昔の騎士の馬上槍試合のようなものだ。すべては一瞬の交差で決着が着くだろう。


(そして、これに勝ったほうが、至上の快楽を得ることになる)


 敵の魂そのものである〈隻眼のゴブリン〉を〈聖なる饗宴〉で吸い尽くす――そのときに、得られる快感はいったいどれほどのものになるだろう。


 ギルバートの魔術回路は凄まじい大きさに励起していた。ビクンビクンと血管が脈打ち、マナが滝のように流れ込んでいた。


 鼻からツツーっと垂れてくるものがあった。舌でペロリと舐め取ってみると、鉄と潮の味がした。鼻血だった。


 その潮の味がきっかけとなった。


 潜った。


 これまでにないほど深い海の闇に、ギルバートとアンジェラはふたつでひとつの魂となって、潜っていった。


 夜の嵐のように荒れ狂う大きな流れには逆らわなかった。


 ふたつでひとつの魂となって、黒い海に渦巻く螺旋の中に潜っていった。


 目指しているものは、ただひとつ、最高の快楽だけだった。


 過去の記憶に安らぎはなかった。将来のことはなにもわからなかった。


 追い求めるのはこの一瞬だけ――二人でひとつになれるこの瞬間だけ。


 それさえあれば、もうなにもいらない。それさえ手に入れることができれば、他のことはどうなってもいい。


 愛に飢えた魂は、快楽の螺旋の渦をどこまでも深く潜っていった。


 ――すべては最高の快楽を得るためだけに。

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