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第37話 覚醒

 死線――


 それを感じていた。


 今までにも見たことは何度かあった。だがこれほどまでに濃厚な線は初めてだった。実際に手で触れて、臭いまで感じ取れるほどだった。


 息ができなかった。そもそも身体が呼吸を必要としているのかさえわからなかった。渇いているのはわかるが、それを危険だと感じ取る力さえ失われていた。


 ダン・ギャラガーは死の淵に足をかけていた。


 それでも、指は勝手に動く。カードが動く。それとともにソウルが動く。


 それらの動きは、もはやダンの意思とはほとんど関係のないところで行われていた。


(飛んでるのか、おれは……)


 ダンの意識を繋ぎ止めているのは、もはやその一点だけだった。


 そして、そのギリギリで繋ぎ止められた一点を無意識で綱渡りして、それを乗り越えた瞬間――


 その世界がやってきた。


 それは、ギルバートにとっては初めて知る世界だった。


 周囲のすべてのものがゆったりとした時間の中にあった。


 夕暮れの波打ち際に立っているような気分だった。


 海と岸辺の狭間の境界線には白い衣を身に着けたアンジェラが立っていた。彼女は波打つ銀髪を潮風になびかせながら、こちらに向かって手を伸ばしていた。


 すべてのものが橙色から暗闇の中へと沈んでいく。それとともに自分の足が、暗くて深い海の向こうへと進んでいく。


 浜辺から沖のほうへと向かっていく自分の身体を止めることができない。ずんずんと海へと沈んでいく身体は、呼吸もできないのに、それを心地よいと感じてしまっている。


 頭のてっぺんから爪先まで、黒い海へと沈み込んだギルバートは、息ができなくなった。


 なのに、なんだろうか、これは――


 ギルバートは、自分が一本の線を超えてしまったことを感じていた。


 シェリルとの試合でわずかに感じたこの領域。


 相手の鼓動どころか、周囲の万物一切合切を感じ取れるこの境地。


 ――息ができないのに、気持ちいい。


 それはこれまでに足を踏み入れたことがない、初めての世界だった。


 ギルバートはアンジェラと手を繋いで、どこまでも続いていく深い海の底へと潜っていた。


 一見凪いだように見える大海の深くには、計り知れないほど大きな海流がうねっていた。


 ギルバートはそのうねりに身を委ねて、感じるがままに無限の深海を泳いでいた。


(なんだろう、この感覚は)


 頭のてっぺんから指先までのすべてが、いくつもの魂に繋がっていた。


 自分の心臓。


 アンジェラの鼓動。


 ダンの呼吸。


 十二匹のゴブリンの動き。


 そして、それらの一切合切を大きく包み込むなにか。


 ギルバートが呪文カードをドローすべく指を動かせば、アンジェラはするりとポジションを取りに行く。


 それと同時にダンが息を深く吸って、十二匹のゴブリンが隊列をそっと組み替える。


 アンジェラがどう動くか、ダンと十二匹のゴブリンがどう応じるか。そういった一連の動きが、ギルバートには指を動かす前から見えていた。


 視界が澄み切っていた。自分が息をしているのかわからなかった。ギルバートは暗くて冷たい深海にいた。そこはすべてを見通せる静かな世界だった。


(これは……気持ちいい、のかな……?)


 その未知の感覚を探るべく、ギルバートはさらに深く潜った。


 大蛇のようにうねる海流に逆らわず、ゆっくりとアンジェラにマナを供給した。今までのエクスタシーとは違ったスローでディープな感覚が下半身から全身に広がっていく。熱い氷が血管を流れていくようだった。


 ゾクゾクとした感覚が背筋を駆け上っていく。ギルバートの乳首はシャツから透けるほどに勃っていた。熱い吐息が思わず漏れた。


(もっと潜りたい、もっとこの世界を知りたい)


 ギルバートは感じていた。


 自分の魂からは糸が伸びていた。


 その先でみんなと繋がっていた。


 彼女も、彼も、彼のソウルカードたちも――みんなこの感覚を感じていた。


(すごいよ、ダン・ギャラガー……)


 深海のさらに奥深くへと潜りながら、ギルバートは自身の相手のことを思った。


(潜れる……君となら、もっと深いところまでイケる……)


 その思いを形にして伝えるべく、ギルバートはこの日初めてとなる攻撃呪文カードを発動した。


 ――空を、飛んでいた。


 真っ白な空だった。雲ひとつない真っ白な空だった。


 ダンはどこまでも果てしなく続く空を飛んでいた。


 夢のようだった。周囲の雑音など一切聞こえなかった。


 全身に風を感じていた。風には無数の向きと流れがあるようだった。


 下から自分の身体を押し上げるように吹く風があった。その流れに乗って、ダンは指をひとつ動かしてみた。


 即座に相手が反応した。四対のゴブリンの前に、竜の顎門のような〈雷火〉が現れた。


 ダンは無言でカードを切った。四対のゴブリンが自爆して、〈雷火〉のエネルギーを相殺した。


 黒煙が灰色の空に広がっていく。クリスタル・パレスの曇り空はいつのまにか雨模様に変わっていた。


 降りしきる雨のカーテンをかき分けて、〈隻眼のゴブリン〉を突撃させる。


 サキュバスがひらりと身を翻した。


 ――わかっている。そうやって躱すことはわかっている。


 ダンはサキュバスの背後に忍ばせていた二体のゴブリンを爆発させた。


 だが、サキュバスは振り返ることすらなく、瞬時に放った〈打ち消し〉でいとも簡単に爆風をかき消してきた。


 ――だが、それもわかっていた。


 そして、こちらがわかっていたことを、向こうもわかっていた。


 鳥肌が立つような興奮を感じながら、大量のカードをデッキから一気にドローした。


 指はガンマンのように動いた。マナは蒸気機関のようによく回った。


 ダンは〈ゴブリンの賢者〉を最前列に展開した。〈ゴブリン特攻兵〉と〈ゴブリンの暗殺者〉で右翼と左翼を固めて、本隊は〈ゴブリンの戦士〉を密集隊形に組ませた。


 今までの人生の中で最高の速度で召喚と展開が完了した。


 〈突撃ラッパ〉と〈部族の掟〉で全体バフをかけながら、十二匹のゴブリンを一斉に動かした。


 ゴブリンたちはひとつの生き物のように動いた。右方から〈ゴブリン特攻兵〉に突撃をさせて、ワン・ツーのリズムで〈ゴブリンの暗殺者〉に攻撃を仕掛けさせた。


 こちらの攻撃を、敵は〈雷火〉によって阻んだが、その瞬間、即座にカードを切った。


 〈ゴブリン式暗殺術〉――


 突撃したゴブリンたちがすべて爆発した。


 飛び散る肉片。


 四散する血飛沫。


 紅蓮の劫火が爆発し、黒煙がもうもうと立ち込めた。


 が、その黒煙の幕を、なにかが貫いてくる気配があった。


(……)


 ダンは、〈ゴブリンの戦士〉を前に出した。


 黒煙から飛び出してきたなにかが、一体の〈ゴブリンの戦士〉の眉間を撃ち抜いた。〈ゴブリンの戦士〉はまたたく間に燐光となって、消えていった。


 敵の〈魔弾〉だった。


 敵のサキュバスは〈魔弾〉を使ってきていた。


 連射される敵の攻撃呪文を、〈幻影の盾〉で防いだ。一時的な防御呪文だったが、十分だ。


 ダンは追加のゴブリンを召喚した。場のゴブリンの総数は再び十二匹に戻った。


 これまでの流れと、この先の展開が、ダンにははっきりと読めていた。


 風が、吹いていた。


 戦場に吹く風の流れがダンには手に取るようにわかった。全身で風を感じていた。波に乗るように、ダンは風の流れに乗っていた。


 肉体の苦痛はどこかへと消え去ってしまっていた。全身に吹き付けてくるこの風が、すべてを取り去ってくれたかのようだった。


 それは飢えも渇きも、苦しみもない世界だった。すべてのものから自由になった空で、ダンは思うがままに翼をはためかせていた。


(これが、おれの世界だ)


 激しい風に身を委ねながら、ダンは感じていた。


 これが求めていた世界なのだと、これが自分の生きる世界なのだと。


 頭ではなく本能が感じ取っていた。


 今までに飛んだどんな空よりも高い場所だった。自分がずっと目指していたのは、この空だった。


 あのジジイに置いていかれてから、これまでずっと――


 足掻き続けてきた。もがき続けてきた。息をするのさえ苦しい檻から自由になりたくて、苦しみにのたうち回っていた。


 小さくて狭い檻から自由になるためには、〈隻眼のゴブリン〉の中に残されたジジイの足跡を辿るしかなかったが、ジジイのいた世界は遠く、高い場所にあった。そこを見上げて、手を伸ばして……たどり着くことができずに、ダンは世界に対する激しい憎悪と鬱屈を積もらせていた。


 だが今この瞬間、ダンはようやく求めていた空にたどり着いていた。


 ダンは風の流れの先に、一人の男が佇む気配を感じ取っていた。


 それを求めて一層強く、魔術回路を回転させる。


 真紅の稲妻が走った。ダンは赤雷のようなマナを全身に纏っていた。


 デッキから無数のゴブリンとありったけの攻撃呪文カードをドローしながら、ダンは思った。


 クソみたいな人生だった。掃き溜めに生まれて、痰壺の中で育った人生だった。


 だが、そうではなかった。そうではなかったのだ。


 ――このために、生まれてきた。


 無限の空には永遠の時が凝縮されていた。


 今この瞬間――


 〈赤毛〉の野良犬は自由な空を、確かに駆け抜けていた.


(飛べる――こいつとなら、もっと高いところまで飛べる)


 〈隻眼のゴブリン〉を操りながら思う。


 今や、隻眼は完全にダンのものとなっていた。


 優れた剣士が名剣を自分の一部とするように、優れた騎手が名馬と一体となるように。ダンは〈隻眼のゴブリン〉と己の魂を完全に合致させていた。


 他の十一体のゴブリンたちを指揮しながら、〈隻眼のゴブリン〉で敵の気配を探る。目ではなく、心で。耳ではなく、肌で。魂を研ぎ澄ませて敵のサキュバスの気配を探る。


 すると――いた。


 次々とゴブリンたちを襲いかからせて自爆させた結果、クリスタル・パレスの雨空には暗幕のような黒い煙幕ができていた。


 雨粒にもかき消されない漆黒の暗幕の中に、敵のサキュバスは身を潜めて、〈魔弾〉でこちらのソウルを狙撃していた。


 だが、ダンと隻眼の研ぎ澄まされた神経は、サキュバスの気配の在り処をありありと感じ取っていた。


 ダンは〈突撃ラッパ〉をもう一枚、そこにさらに、対サキュバス用に特別に用意した強化呪文カードの〈略奪令〉を発動した。力と士気と、ついでに肉欲が強化されたゴブリンたちは、暗闇に潜むサキュバスの雌の匂いに敏感に反応した。


 ダンの操作と己の欲望に従って、ゴブリンたちは煙幕の中に隠れたサキュバスに一斉に襲いかかった。


 だが、そのときだった。


 辺り一面に立ち込めていた黒煙が渦を巻いて、一気に小さくなった。


 黒煙は、極小の竜巻となっていた。手のひらサイズのその黒い竜巻は、敵のサキュバスの手の上に乗っていた。


 うふッ、とサキュバスが笑って、自身の手のひらにある竜巻にふーっと息を吹きかけた。


 瞬間――


 全体除去攻撃呪文カード〈ノルドランの大嵐〉が発動した。


 竜巻はまたたく間に巨大な嵐と化して、クリスタル・パレスの戦場を蹂躙した。


 敵の嵐撃に巻き込まれて、ダンのゴブリンたちは粉砕機にかけられたように破壊されていった。防御呪文をかけたところで無駄だった。


 普通の威力ではなかった。呪文カードの効果を底上げする〈魔術探求〉や〈呪力解放〉でも使っているのか、サキュバスが放った〈ノルドランの大嵐〉はこちらの防御や隊列を吹き飛ばして、タフネスの低いゴブリンを殺戮していった。


(すげえ……なッ!)


 ダンは犬歯をむき出しにして、笑った。


 ――まさか、ここまで自分の予想通りになると思っていなかった。


 ギルバート・ヘインズのサキュバスは、〈ノルドランの大嵐〉の操作に集中していた。


 隙ができていた。


 ダンはこれまで温存してきた手札を一気に切った。


 単体強化の〈峻烈なる一撃〉。


 そして、アイテムカードの〈ゴルグの短剣〉。


 〈隻眼のゴブリン〉の片手に冷たく光る短剣が出現した。アイテムカードは魔術回路を通じて、自身のソウルに直接、道具を所持・使用させることができるカードだ。その中でも、〈ゴルグの短剣〉は通常の武器よりも攻撃力が高く、それを装備したゴブリン系のソウルにパワー強化の効果をもたらすアイテムカードだった。


 単体強化の〈峻烈なる一撃〉の効果によって、隻眼のパワーは大きく強化されていた。〈隻眼のゴブリン〉の全身の筋肉は今にもはち切れんばかりに固く膨れ上がっていた。


 ダンはひとつ深く息を吸って、そしてゆっくり大きく吐き出した。


 こめかみを一筋の汗が伝って、垂れていく。その汗が顎先からつつっと落ちて、ラウンド・テーブルの上にできた巨大な汗の水たまりに落ちた。


(――いくぜ、隻眼)


 〈隻眼のゴブリン〉が矢のように疾走った。その小さな体躯は、〈ノルドランの大嵐〉のもっとも弱いところを貫いて、術者のところまで一気に駆け抜けた。


 世界がスローモーションになっていた。ゴブリンたちの肉片が竜巻にゆっくりと飲み込まれていく。ソウルの燐光が大きくまたたいている。


 敵のサキュバスが目前に迫っていた。サキュバスは目を見開いていた。


(――殺れる)


 隻眼とダンの魂がひとつに重なった瞬間だった。


 振り下ろした〈ゴルグの短剣〉は、ガキンッと固いなにかに受け止められていた。


「……ッ!」


「うふッ」


 ダンの目の前では、ギルバート・ヘインズが薄気味悪い笑みを浮かべていた。


 魔術回路から伝わってくる隻眼の視界では、サキュバスが同じような笑みを浮かべていた。


 サキュバスは両手で黒い鉄の棒状のものを持って、こちらの短剣を受け止めていた。


 ダンは喉の奥からうなり声を上げた。


 〈強化した〈隻眼〉の〈ゴルグの短剣〉を受け止めるだと……ッ〉


 会心の一撃だった。スピード、パワー、タイミング。そのすべてが今までの中で最高の一撃だった。


 ありえない。こちらの攻撃を見切っていた敵の技量もありえないが、こちらの一撃を受け止めた敵の武器の強度もありえない。


(この武器はいったい……)


 バールのような形状の武器に目を凝らして、ダンははっとした。思わずうめきが漏れた。


「まさか、この野郎……」


「うふッ。バーンズの店にはね、こういうレアカードがたまに出回るんだよ。だから、あの店とはなかなか縁を切ることができない」


 それは〈ゴルグの短剣〉と同じブロンズランクのアイテムカードだったが、出現確率が低いせいでほとんど市場に出回ることがないレアカードだった。


 サキュバスが装備しているその禍々しい武器に対して、ダンは舌打ちした。


「〈ゴブリン砕き〉か」


「ご名答。君のためにわざわざ貯金をはたいて用意したものさ。おかげですっからかんだよ」


 〈ゴブリン砕き〉――それは、ゴブリン系のソウルに対して絶大なる攻撃力と強度を発揮する武器だった。


 サキュバスはいったんこちらと距離をとって、華麗に〈ゴブリン砕き〉を操ってみせた。血の染みがついた黒いバールはサキュバスのほっそりとした手の中でくるくると鮮やかに回転した。


 サキュバスと〈隻眼のゴブリン〉は距離をとって対峙した。


 暗黒の雲が立ち込めるクリスタル・パレスの空で、二体のソウルは篠突く雨に打たれていた。激しく降りつける雨粒が〈ゴルグの短剣〉の刀身を冷たく濡らしていた。


 どこか遠くで白い光が走った。数瞬後、雷鳴が轟いた。


 どうやら嵐が来ているようだった。


 白く鈍い光を放つ刀身を、〈隻眼のゴブリン〉は黄ばんだ舌でちろりと舐めた。隻眼は笑みを浮かべていた。血に飢えているようだった。


 隻眼がこういう戦意をむき出しにした表情を見せるのは珍しかった。隻眼はいつも謎めいた表情をしているだけのゴブリンだった。


 ガキの頃からいつもそうだった。ジジイに初めてこいつを使わされたときから、なにを考えているかわからないゴブリンだった。


 ダンは、ぺっ、と喉に絡んだ痰を床に吐いて、テーブルの上の飲み物に手を伸ばした。


 水分補給をしながら、体力とマナ回復のためのナッツをじゃらじゃらと口の中に流し込む。〈隻眼のゴブリン〉で油断なく敵のサキュバスの動きに目を配りながら、ナッツをバリボリと噛み砕いた。


 ぐちゃぐちゃの欠片になったナッツを飲み物で喉の奥へと流し込みながら、思考する。


 場に出ているのは、敵のサキュバスとこちらの〈隻眼のゴブリン〉だけだった。


 マナにはまだ余裕がある。


 体力と集中力にも問題はない。この戦いが終わったら一ヶ月はまともに動けなくなるだろうが、今ばかりはまったく疲労を感じない。まるで脳の中で麻薬が分泌されているかのようだった。


 デッキの残り枚数はどうか。これは心許なかった。ガンマンが残りの弾数を身体で覚えているように、激しい攻防の中でも、ダンは残りのゴブリン・ソウルカードの枚数を正確に覚えていた。


(二十六枚か――少ねえな)


 デッキに残っているのは、他に、単体強化と対サキュバス向けの全体強化、それとゴブリンの自爆カードだけだった。


 それだけの手札でこのサキュバスを殺れるかどうかは、甚だ疑問だった。


 強い。この相手は強い。


 マナ量とか。スキルとか。集中力とか――


 そういうことだけではなかった。


(こいつの(ソウル)が、強えんだ)


 ダンは視界に映る敵のサキュバスを見た。


 そのサキュバスは雨風に長い銀髪をたなびかせながら、空中を浮遊していた。暗い空に怪しく輝くその瞳は、一分の隙もなく、〈隻眼のゴブリン〉の様子を伺っていた。激しい雨風が吹きつけようともびくともしない、その瞳は、己の魂のすべてをこの戦いに賭けているかのようだった。


 だが、それだけではなかった。


 そのサキュバスの瞳にはドロドロに煮えたぎった欲望があった。愉悦と快楽の表情を浮かべて口元を歪めるサキュバスには、地獄の火に焼かれても己の欲望を満たそうとする凄みがあった。


(イカれたソウルとマスターだな)


 ダンはナッツを貪り食いながら、サキュバスと同じ笑みを浮かべる対面の男の目を見返した。


 ラウンド・テーブルの向かい側に座るギルバートはチョコレートを口の中でしゃぶりつつ、しかとこちらを見つめていた。


 クリスタル・パレスのこの暗雲漂う空のような、暗い双眸だった。気がついたら、そのままズルズルと闇の底に引きずり込まれそうな瞳だった。


 なにを考えているかよくわからない、その薄気味悪い笑みを、ダンがじっと見つめ返したときだった。


 ふと、胸にすとんと落ちてくるものがあった。


(……ああ、そうか)


 ギルバートの表情を見て、隻眼が浮かべている笑みの正体が急にわかったような気がした。


 ――お前、楽しいんだな。


 ダンは胸の内でつぶやいた。


 楽しいんだな、戦うことが。このイカれた野郎と戦うことが面白くて仕方がねえんだ。


 ――なあ、そうなんだろ、隻眼?


 すると片目しかないゴブリンは、にやりと笑い返してきたようだった。


 ――ようやくわかったか、ダニー・ボーイ、この野郎。てめえもそうなんだろうが、えっ?


 にやりと笑う隻眼はジジイの声でそんなことを言っているようだった。


 そして、そのときになって初めて――ダンは隻眼と心が繋がったような気がした。


 マナが心の奥深くからこんこんと溢れ出てきた。魂のエネルギーが稲妻のように激しく迸ってきた。


 赤雷を全身から激しく放出しながら、ダンは覚悟を決めた。


(すべてを、賭ける)


 ジジイと過ごした日々。


 あいつが消えた日の涙。


 苦しかったイートンの思い出。


 そして――〈隻眼のゴブリン〉とともに歩いてきた、これまでのすべて。


 それらのすべてを賭ける決意とともに、そっと目を閉じる。


 耳元で、あの男の言葉が聞こえた。


 ――おめえもイートンを出たらプレイヤーになれ。そうすりゃ赤毛の野良犬だって空を飛べるぜ。


 ダンは目を見開いた。


 その瞬間、赤毛の野良犬はデッキに残っていた、すべてのソウルカードを場に召喚した。

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