第36話 死線
ダンの肩がわずかに動いた。
ギルバートは少しだけ息を吐いた。
それに呼応して、ダンがすっと手を引いた。
それを見るともなく見たギルバートは、自分のデッキに指を伸ばした。
すると、ダンの身体が髪一筋分、揺らめいた。
その瞬間、ダンが操る〈隻眼のゴブリン〉が、数ヤード前進した。
それに対して、ギルバートはアンジェラを同じ距離だけ後退させた。
――あとはまた同じことの繰り返しだった。
ダンが身じろぎして、ギルバートがそれに応じる。
それに対して、ダンがまた少しだけ、水面に浮かぶ木の葉のように揺れて、ギルバートはそよ風に吹かれる蜘蛛の巣のようにそっと動く。
それらのほんのわずかな動きに応じて、アンジェラと、ダンが操る十二匹のゴブリンはその度に数ヤードの前進と後退を繰り返していた。まるでチェスにおける千日手のようだった。ギルバートとダンのソウルはいつまで経っても終わらない堂々巡りの円環を描いていた。
そんな攻防がもうかれこれ――六時間以上、続いていた。
トーナメントにおける試合時間は千差万別だ。
開始から二秒で決着がつくものもあれば、数時間にも及ぶものもある。公式に残る最長記録は三十六時間と五十二分で、その試合の対戦者たちは睡眠と食事を取りながら戦っていたが、彼らは結局、長時間のマナ放出とそれにともなう極度の体力低下によって、試合が終了してから二時間後に病院で死亡した。
だが、これは極端な例であって、たいていの試合は早くて数分。長くて四時間程度――テニスのウィンブルドン大会と同じくらいの時間で終わる。
だが、ギルバートとダンの試合は始まってからもう六時間以上が経過していた。
その間、テニスのような熾烈なデッドヒートが行われたわけではなかった。互いの生死がかかった決死の瞬間があったわけではなかった。二人はただ淡々とソウルを動かすだけで、ソウルのスキルはおろか、呪文カードすら発動させなかった。それどころか、ソウル同士がぶつかり合う場面も一切なかった。両者のソウルはクリスタル・パレスの空をゆったりと舞っているだけだった。
客席は白けきった空気に満ちていた。罵詈雑言の嵐は最初の一時間で消え去っていた。八百長、金返せ、二人一緒にくたばっちまえ、といった罵声を出すのに疲れた観客たちは二時間を過ぎたあたりで、大量のビール瓶とゴミ屑を残して会場を後にしていた。
最初は二百人くらいいた観客たちは、今や五十人程度にまで減っていた。残った者の大半は大金を賭けていて引くに引けなくなってしまった者か、もしくは家に帰っても特にやることがない暇を持て余した年寄り連中だけだった。
彼らはなんの動きもないまま六時間以上も続く試合を観て、疲れ切ってしまっていた。これなら蟻の行列でも見ていたほうがまだ心が踊るというものだった。退屈きわまる田舎の湖の水面のように変わり映えのしない試合は、弛緩した空気を会場にもたらしていた。
だが観客たちのそうした雰囲気に、ギルバートたちは一切気づかずにいた。
ギルバートは青ざめた顔に大量の汗を浮かべていた。呼吸が激しく乱れていた。まともに息を吸うことができずにいた。
喉が猛烈に渇いていた。砂漠で迷った旅人のように身体が水を欲していた。
我慢しきれず、ギルバートはテーブルの脇に置いた飲み物に手を伸ばそうとした。
が、その瞬間、ダンの眼がギラリと光った。それと同時にナイフを持ったゴブリンの腕が数インチ持ち上がった。
ギルバートは瞬時に手を伸ばすのを止めて、アンジェラを右に迂回させた。持ち上がっていたゴブリンの腕が元の位置に戻された。
(ぐ……ッ)
ギルバートは渇いていた。身体がどうしようもなく水を欲していた。そのくせ、呼吸がまともにできないこの感じは、海で溺れるのにも似ていた。
苦しかった。死ぬほど苦しかった。
試合が始まってからもうどれくらい経っているのかもわからない。この地獄の責め苦は試合開始の直後からずっと続いていた。
(こんなの全然気持ちよくない)
ぎり、と奥歯を噛み締めながら、この果てしない地獄からの突破口を見出すべく、ギルバートはアンジェラをさりげなく動かして、攻撃呪文カードをドローしようとした。だが、ダンの反応は一瞬だった。一瞬で、ゴブリンの隊列を組み直して、攻撃が通りづらい防御陣を組んできた。
(早い……ッ!)
反応が凄まじく早い。こちらのソウルの動き、そしてギルバート自身のわずかな手の動きから、何手も先のことを見通して、手を打ってくる。その冷徹な戦術眼とソウルを操る激烈な反応速度は、確実に獲物を仕留める野犬の狩りのようだった。
攻めたくても、攻められない。それどころか、隙を見せれば一瞬で喉元を食い破られる。だから、水を飲みたくても、飲むことができない。
ソウルだけでなく、マスターとしてのギルバートの動きまでをも観察して、その隙を突いてくるダンのやり方は、凄まじく苛烈だった。その戦い方に、ギルバートはかつてないほどに消耗させられていた。
それはシェリルのときとも違った種類の消耗だった。これまでの展開において、ギルバートはマナをほとんど消費していなかった。だが、体力と集中力は根こそぎ奪われていた。
(こういう種類の戦いがあるのか)
新たな世界に飛び込んだ心境だった。これまでの戦いとはまったく違った、互いの神経をヤスリで少しずつ削っていくような試合展開に、ギルバートの精神と身体は恐ろしく摩耗していた。
(ダン・ギャラガー……イートンの頃から知ってはいたけど、まさかこれほどとは)
ダンのマスタースキルの高さについては承知していたつもりだった。イートンの頃から見せていた、刃のような鋭さと獣のような激しさ。反抗的であるはずのゴブリンを兵隊のように十匹以上同時に操って、それでも疲れを見せないスタミナとマナの量。そして、勝負の瞬間に見せる、芸術的なまでの一閃。
これまでの相手とはモノが違う。
底が見えない。果てが知れない。
まるでどこまでも暗く続いていく深い海のようだった。その海で、ギルバートは溺れる思いだった。
(こんなの……こんなの、思っていたのと全然違う……ッ!)
シェリルのときとは違った苦しさに、ギルバートは生まれて初めて、戦いに臨んだことを後悔していたのだった。
一方――
ダン・ギャラガーもまた、苦しみにのたうち回っていた。
(……ッ!)
敵のサキュバスがするりと、まるで散歩にでも出かけるようなさりげなさで動いた。それと同時にギルバートがすっと手を動かして、カードをドローしようとしていた。
攻撃の気配だった。
暴れ回る心臓の鼓動を無理やり抑えて、ダンは十二匹のゴブリンの配置を組み直した。これまでの試合や情報屋から手に入れた分析結果によって得られた、〈サキュバス狂い〉の戦い方。そこから浮かび上がってきた相手の攻撃方法とタイミング。それを踏まえて、ゴブリンの布陣を整え直した。
こちらの防御陣の前に、敵の攻撃の気配は止んだ。だが、こちらの代償は大きかった。無理やり抑えていた胸の動悸だったが、揺り返しが一気にきた。
(が、は……ッ)
表に出すことは最後のギリギリでこらえた。だが胸の奥では、心臓が喉から飛び出そうなほどに暴れ狂っていた。
(こ、このクソ野郎があ……ッ!)
苦しくて涙が浮かんできた。視界が滲んでいた。だが、敵に弱みは見せられなかった。
ダンは歯を食いしばって、双眸に力を込めて男の顔を睨んだ。
対面に座るギルバートの顔からは、なにを考えているのか読み取れなかった。わかるのは、やつの次の動きだけだった。普段なら何十手先までも見通せるのに、こいつに限っては、なにをしでかしてくるのかまったく読めなかった。ギルバートのサキュバスは、予備動作をほとんどまったく見せずに、攻撃と防御と回避を、こちらにとって最悪なタイミングで選択してきた。
まるでこちらの一挙手一投足を全身で感じ取っているかのような敵の気持ち悪さに、ダンは歯噛みする思いだった。
(なんだ、この野郎……どういう神経してやがるんだ……ッ!)
まるですべてを見透かされている気分だった。それは控えめに言って、人生最悪の気分だった。
酷使してきた心臓が胸で暴れていた。息が苦しくて、喉が死ぬほど渇いていた。頭は二日酔いを百万倍にしたくらいの痛みを抱えていて、身体は神経に錐を通されたように痛み狂っていた。
(こんな……こんなはずじゃあ……ッ!)
こいつで飛べるか、飛べないのか――
そんなことだけを考えていたが、実際はそんなものではなかった。飛ぶどころの話ではなかった。
ダンは地べたを這いずり回っていた。地獄の苦しみにのたうち回っていた。
苦しみならばいくらでも味わってきたつもりだった。身体的な苦痛ならば、ガキの頃に路上でイヤというほど味わってきた。ソウルを扱ってマナを酷使する地獄は、ジジイとの訓練でさんざん通ってきた道だった。
だが、そのどれとも違った苦痛に、ダンは生まれて初めて、戦うことの苦しみというものを味わっていた。
そして、ギルバート・ヘインズとダン・ギャラガーが、地獄の苦しみを味わうこと、さらに二時間――
試合開始から八時間が経過した会場は、再び騒然としていた。
「お、おい、やばいんじゃないのか」
「試合を止めろ! このままでは二人とも死ぬぞ!」
どちらかが降参を宣言するか、戦闘不能になるまで試合は続けられる。
それがトーナメントにおける、唯一のルールらしきルールだった。
だが、そんなことを承知しつつも、観客たちは騒がずにはいられなかった。
会場の中央に置かれたラウンド・テーブルには二体の生ける屍の姿があった。
白蝋じみた顔に、カサカサに渇いた青い唇。
骨と皮だけになってしまった顔に浮かぶ死相。
ギルバートとダンは暗黙の了解に達したかのように、ノロノロと同時にテーブルに置かれた飲み物に手を伸ばした。それで両者ともに少しだけ顔色が戻ったが、それでも二人が死の淵に達しようとしていることには変わりがなかった。
観客たちは叫んでいた。
「な、なんでだよ!? そんな激しい試合じゃなかっただろう!? ちまちまソウルを動かしてるだけだったじゃねえか! それなのに、なんであいつらは死にそうになってんだよ!」
「わ、わかんねえよ、そんなこと! そ、それより、おい、審判! 試合を止めろ! 死人が出るぞ!」
会場の一般人たちがプレイヤーの身体を慮って叫び声を上げるが、重々しい表情をした審判は微動だにしなかった。その顔は、自分にはその権限がない、と無言の内に語っているようだった。
だが騒いでいるのは、ソウルを使う際の肉体的、精神的疲労を知らない一般人だけではなかった。
「頼む! 試合を止めてくれ! 彼らはもう限界だ! 本当にもう限界なんだ!」
サイラス・スティプルトンは絶叫していた。胸が張り裂けんばかりの悲鳴だった。
凡百の才能しか持ち合わせないながらも、周囲の期待に応えるべく、血反吐を吐く努力を重ねてきたサイラスには、ソウルを使う苦しみというものが嫌というほどわかりきっていた。
「お願いだ! これ以上続ければ、彼らは廃人になりかねない! 試合ならまた日を改めてやればいいじゃないか! 頼む、この通りだ!」
サイラスはその場に跪いて祈るような姿勢を取った。
観客席から審判のいるステージまでは腕が届くくらいの距離しかなかった。審判はサイラスのほうを見て、わずかに苦渋の表情を浮かべたが、それでも裁定を下すことはなかった。
いや、できなかった、といったほうがいいのだろうか。
二人のプレイヤーはまだ戦い続けていた。
死人のような面持ちで気怠げに飲み物を摂取しながら、彼らはまだのっそりと動いていた。
会場の巨大スクリーンに映るソウルの動きはいまだ健在だった。マスターたちの動きは死にかけの蝿のようだったが、ソウルたちはいまだ臨戦態勢にあった。針で突つけば一瞬で爆発してしまいそうな緊迫感が、対峙するソウルたちのあいだには漂っていた。
そして、そんな空気をまざまざと肌で感じ取っていたのは、ロンドンのプレイヤーズクラブにいるBランカーの面々だった。
彼らは誰一人、口を利こうとはしなかった。代わりに、酒の消費速度が半端ではなかった。プレイヤーズクラブのウィザードたちはスクリーンを一心不乱に見つめながら、グイっと酒を飲んで、即座に次の杯に手を伸ばしていた。クラブのカウターには空になった無数のカクテルグラスが並べられていた。プレイヤーズクラブに集ったBランカーたちは襟をくつろげて、しきりに手で胸元を仰いでいた。
「熱いな……」
そんな言葉に応える者はいなかったが、胸中に抱える思いは、誰しもが同じだった。
熱い――
確かにその一言に尽きた。スクリーンに映る光景は、その一言ですべてを言い表すことができた。
ギルバート・ヘインズ。
ダン・ギャラガー。
両者の体力、精神力が限界に達していることは目に見えていた。いまだに気を失っていないのが不思議なくらいだった。
試合時間はもはや九時間に達しようとしていた。そのあいだ彼らはほとんど飲まず食わずで、尋常ではない集中力を維持しながら戦い続けていた。
ものの見方を知らない一般人ならば、八百長とか、ヤラセとかいうような試合内容だった。互いにソウルを少しずつ移動させるだけの、呪文カードも使わない、世紀のクソ試合だった。
だが、プレイヤーズクラブに集った勝負師たちは知っていた。これがたんなるクソ試合ではないことを。そして、この二人のプレイヤーが近い将来、必ず自分たちの脅威になるであろうことを。
そして、彼らの内の何人か――新人潰しと呼ばれる者たちは、〈サキュバス狂い〉と〈赤毛〉の脅威を肌で感じ取り、怖気立っていた。
「こいつら、イカれてるのか……」
「な、なんでこんなになるまで戦ってんだよ……ッ!」
「こ、こいつら、馬鹿じゃないの! 別にここで負けても、次のチャンスがあるのにさあッ! ダメージを残さずに、次の試合で確実に勝ちに行ったほうが賢いに決まってるじゃん!」
そんな新人潰したちの焦ったような悲鳴を聞きつつ、サブリナ・バーンズはゾクゾクとした興奮を隠しきれずにいた。
(もう少し……あと少しで……)
――彼らは覚醒する。
サブリナはスクリーンに映る、息も絶え絶えな二人の姿を一心不乱に見つめていた。
プレイヤーズクラブに集ったBランカーの誰もが、二人の男の試合を脅威に感じる中で、トップランカーたるサブリナだけは、この試合の行く末を熱っぽい期待とともに見守っていたのだった。




