第35話 煙草の時間
ダンはギルバート・ヘインズと向かい合って座っていた。
審判はまだ来ていなかった。試合が始まるまでにはまだ間があった。
ダンはじっと相手に視線を注いでいた。
見るともなく、見る。そういうふうにして獲物に気を配れ――
それがジジイの教えだった。
だが、その集中は不意に破られた。
「久しぶりだね、ダン」
ふっと視線の焦点を合わせると、ギルバートがこちらに向かって微笑んでいた。
「……」
ダンはわずかに顎を引いて、うなずいた。
するとギルバートは静かな声で言った。
「このあいだ会ったときに言いそびれたんだけど……」
「……」
「あのときもらった煙草のお礼、まだ言ってなかったな、って」
ダンは目を少し見開いた。
「覚えてたのか」
「うん。自分から言い出しておいてなんだけど……君のほうこそ、覚えてたんだね」
天井のガラス窓から差し込む光がギルバートの顔をスポットライトのように照らしていた。
捉えどころがないその顔をまじまじと見つめるダンの脳裏では、以前にこの男と会話したときのことが思い返されていた。
(あの頃からなにを考えているかよくわからねえ野郎だったな)
ダンは口角を上げて犬歯を覗かせた。苦笑が浮かんだ。
ダンは以前に一度だけ、ギルバート・ヘインズと話したことがあった。あれは確か……イートンの三年生くらいのときだったか。
十五か十六歳のあの時期はダンがもっとも荒れていたときだった。
貧民街出身の赤毛のアイルランド人は、イートンで孤立していた。
ウィザード・スクールは体力と知能さえ十分にあれば誰にでも入学を許可しているが、それは所詮建前上のことだった。入学のための体力試験と教養試験を通過できるのは、生まれたときから十分な栄養と教育を与えられた者に限られていたし、それなりの額になる学費と生活費を六年間払い続けるのは労働者階級以下の家庭には難しいことだった。
イートンには、中流階級の中でも上のほうに属する連中や、裕福な家庭出身、あるいは貴族の次男坊、三男坊しかいなかった。ぺったりと髪をきれいに撫でつけたお坊ちゃんたちの中で、赤毛のボサボサ頭は異質だったのだろう。彼らはダンに近寄ってこようとはしなかったし、ダンのほうでも彼らには馴染まなかった。
いや、馴染まないどころの話ではなかった。ダンはイートンのやつらを憎んでいた。彼らが陰口を叩いたり、侮蔑を投げかけてくるから、というだけではなかった。ダンの憎悪は、自分とは異なる人種の者に対する本能的な嫌悪と、彼らとは違う自分自身に対する憎悪だった。
ダンは憎んでいた。イートンの連中を憎み、自分をこんなところに入れて姿を消したクソジジイのことを憎み、自分の中に流れる貧乏なアイルランド人の血を憎み、そして、この呪わしい世界を憎んでいた。
自分の身をも焼き焦がそうとするそれらの憎悪からダンが逃れることができる時間は、〈隻眼のゴブリン〉を操っているときだけだった。
ダンは授業の中では、隻眼を使わなかった。理由は自分でもよくわからなかったが、人前で〈隻眼のゴブリン〉を出すことについては自身のもっとも繊細な部分をさらけ出すような羞恥心を感じた。
一度読めば理解できる簡単な教科書を繰り返すだけの授業をサボって、ダンはよく森に行った。イートンの森は木漏れ日が降り注ぐ静かな場所だった。木々のあいだを吹き抜ける風のざわめきは荒れ狂った心をいつも静めてくれた。
ダンはジジイの動きを思い出しながら、その線をなぞるように〈隻眼のゴブリン〉を使う練習を何度も繰り返した。隻眼にはジジイの技術のすべてが染み付いていた。ジジイが残していった〈隻眼のゴブリン〉はまさに生きた教科書だったが、ダンにとってはそれだけではなかった。隻眼はダンの魂そのものだった。これがなければ、ダンはイートンを生きのびることができなかったに違いなかった。
風のささやきに耳を傾け、目を閉じる。魔術回路を繋ぎ、隻眼を召喚する。そうして、隻眼の瞳でひらひらと落ちてくる木の葉を見極めて、鉈を一閃。真っ二つになった木の葉を見るともなく見て、次の獲物を探し出す。
その一連の動作に集中するとき、ダンは〈隻眼のゴブリン〉と二人だけの世界に入ることができた。そこは憎悪もなにもない真っ白な空だった。その世界を飛び回るときだけ、ダンはすべてのしがらみから自由になることができた。
イートンでの周囲との乖離が激しくなるにつれ、ダンはますます自分の世界に没頭していった。
しかし、そんなある日のことだった。
いつものように練習を終えて、びっしょりとかいた汗を拭きながら、激しい息をついていると、木立の向こうから落ち葉を踏みつけるザクザクとした音が聞こえてきた。
隻眼に鉈を構えさせながら、じっとその方向を見つめていると、木陰から現れてきたのは〈サキュバス狂い〉のギルバート・ヘインズだった。傍らには、そのあだ名のもとになった一体のサキュバスの姿があった。
「……」
「……」
互いに見つめ合ったまま、二人はしばらく口を利かなかった。
ダンが口を開かなかったのは、頭が真っ白になっていたからだった。
一人でメソメソ泣いているところを発見されたような羞恥心がダンを襲っていた。なぜか顔が熱くなっているのが自分でもわかった。
だが、必死に冷静さを取り戻そうとしているうちに、ダンは相手のほうもどうやら動揺しているらしいことに気づいた。
ギルバートは視線をあちこちに漂わせていた。おまけに顔が赤くなっていた。見れば、サキュバスの深い胸の谷間にはギルバートの腕がばっちり挟まっていた。
冷静さを取り戻しつつあったダンだったが、今度は禁断の現場を見てしまったかのような気まずさに襲われた。いったん開きかけた口がまたパタンと閉じられた。
「……」
「……」
なんともいえない気まずい雰囲気を打ち破ったのは、〈隻眼のゴブリン〉だった。
隻眼はダンの操作を勝手に離れて、こちらの足元にやってきた。ぴょこんと飛び跳ねて、こちらの胸元で手をさっと閃かせた。とんっ、と地面に着いたときには、その手には煙草の箱とマッチがしっかりと握られていた。
いつもの癖で、ダンは舌打ちした。相変わらず手癖の悪い煙草呑みだった。こいつはいつも勝手な真似をしてくれる。
実に美味そうに煙草の煙を吐き出す隻眼につられて、ダンも煙草の箱に手を伸ばした。
別に煙草なんて好きではなかった。嫌な臭いがするうえに、喉がいがらっぽくなるので、むしろ嫌いだった。にもかかわらず、ダンは煙草をときどき吸っていた。
咳き込みたくなるのをこらえながら煙をゆっくりと吐き出していると、こちらをじっと見ているギルバートの視線に気がついた。
「……吸うか?」
なんとなく勧めてみると、ギルバートはコクンと首を縦に振った。少々意外だった。見るからにお上品そうなやつだったので、バカ丁寧に気取った口調で断ってくるかとも思ったのだが。
いや、こんなところで授業をサボっている時点で、こいつもいわゆる不良か。〈サキュバス狂い〉に関する様々な噂を思い出しながら、ダンは紙巻き煙草の箱を差し出した。
ギルバートが煙草を吸う様子は妙にサマになっていたが、その吸い方に気になるところがあってダンは口を挟んだ。
「ちげえよ、そうじゃねえ」
「うん?」
「ケムリを肺に入れんだよ。お前、吸ってそのまま吐き出してるだけじゃねえか。こうだよ、こう……やってみな」
「うーん……ゴホッ、ゲホッゲホッ!」
途端に顔を真っ青にして咳き込みだしたギルバートを見て、ダンは思わず笑い声を上げた。
「ダッセエな、お前」
「ゴホッ、ゲホッ……だ、だって、煙草を吸うのは初めてなんだよ。葉巻ならたまに吸ってるんだけど……」
「ああ、そうか……葉巻かあ」
そういうものがあることはもちろん知っている。懲罰を受けるために校長室には何度も呼ばれていた。校長や来客のためのものなのだろう。校長室の棚には革表紙の本やブランデーのボトルと一緒に、立派な葉巻箱が並んでいた。
「葉巻なんて上等なモン、吸ったためしがねえな。うめえのか?」
自慢してくるかと思ったが、ギルバートは首をひねった。
「さあ? 僕もなんとなく吸ってるだけだし……夜に外で一人で吸ったりすると、なんか美味しいなって思うときはあるけど」
「そうか」
おれと一緒だな、という言葉が口から出かかったが、ダンは慌てて紫煙と一緒に飲み込んだ。
煙草を吸い終わったのは、ダンのほうが先だった。〈隻眼のゴブリン〉をカードに戻しながら、ギルバートに背中を向けて言った。
「じゃあな」
「ああ、うん……」
なにか言いたげな気配を背中に感じたが、ダンは振り向かなかった。
しかし、このときの出来事は、妙にいつまでもダンの胸に残り続けていたのだった。
回想にふけっていると、いつのまにか審判がやって来て、テーブルのそばに立っていた。
益体もない審判のルール説明を聞き流しながら、ダンはあのときとは少し違う笑みを口の端に浮かべた。すると、ギルバートのほうも微笑みを返してきた。
(面白えな)
ふと、思った。
こういうふうに自分に向き合ってくる対戦相手は初めてだった。
ギルバートは気持ちの悪い笑みを浮かべていた。食虫植物が花開いたような笑みだった。
ダンはますます笑みを深めた。それに呼応して、ギルバートの微笑もますます濃くなった。
ルールの説明が終わり、審判のカウントダウンが始まり、そして終わった。
審判の腕が一気に振り下ろされた。
と同時に、周囲の観客の悲鳴にも似た歓声が爆発したが、ダンとギルバートは気にも留めなかった。
「それじゃあ、やるか」
「うん」
ダンとギルバートはあくまで自分たちのペースでカードをドローし、ソウルを召喚した。花火のような閃光がクリスタル・パレスの天井を透過して、空高くで弾けた。光の中から現れた十二匹のゴブリンと、サキュバスが空中で対峙した。
ドローから召喚に至る一連の流れは、周囲の期待や声援、罵声、嘲笑の一切合切から切り取られた時間の中で行われた。二人のあいだには特別な時間の流れが生まれていた。
それは、教師や真面目な同級生たちから隠れて一緒に煙草を吸うのにも似た時間の流れだった。
ダンとギルバート。どちらも道を踏み外した二人だった。
堅実かつ華々しい将来を求めて、同級生たちは安定した職に就いた。だが二人は博打打ちな世界に身を沈めた。そして、どういう因果によるものかは知れないが、こうして妙な再会を果たした。
が、それも当然といえば当然の結果かもしれなかった。
どちらもまともな道を踏み外していた。
ギルバート・ヘインズはサキュバスに狂った男だった。他者とのあいだに壁を作り、戦いがもたらす快感だけを追い求めている、ある種の欠陥者だった。
そして、それはダン・ギャラガーも同様だった。ダンもまた、戦いによって得られる自由な世界でしか生きることができない、ある種の狂人だった。
この二人にとっては、勝敗などたいした問題ではなかった。
気持ちよくなれるか、なれないのか。
空を飛べるか、飛べないのか。
〈サキュバス狂い〉と〈赤毛〉の野良犬の試合は、つまりはそういうものだった。
そして――
試合は、彼らの世界で、彼らの時間の中で始まった。




