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第32話 シェリル・トンプソンの空白

「やれやれ、ヘインズの旦那は、てえした人気だねえ」


 御者のジョンソンは後ろのほうの席でフィッシュアンドチップスを食べながら、ビールをグビグビとやっていた。その視線はステージの上で笑みを浮かべる〈サキュバス狂い〉に向けられていた。


 指についた脂をチュパチュパと吸って、ビールをグイッとやったジョンソンは、ゲプっと息を漏らした。


「……まあ、ヘインズの旦那は頭のネジは外れていやがるけど、顔はいいからなあ。それに、使うソウルはすんげえ別嬪だし。旦那のことを気持ちがわりいって言う連中もいっぱいいるみてえだけどよ、その分、旦那につくファンはなんだかよくわかんねえ熱狂的なのが多いんだよなあ……まあ、おれも確かにヘインズの旦那のことは嫌いじゃねえけどよ。でもなあ、さすがに今回の賭けはアイルランド人のほうに乗り換えちまうよなあ。ヘインズの旦那ときたら、まるで覇気がねえんだもの。わりいな、旦那。恨まねえでくだせえよ。おれっちは〈赤毛〉のほうを応援させてもらいますよ、っと……」


 そんな独り言をブツブツとつぶやきながら、さらなるフィッシュアンドチップスとビールに取りかかったジョンソンだったが、そこに声がかけられた。


「すみません、ここ空いていますか?」


 そう声をかけてきたのは善良そうな顔をした若くて細身な男と、質素ながらも清潔な服に身を包んだ女だった。


 男が指差しているのはジョンソンの隣の席だった。そこにはフィッシュアンドチップスの紙袋とビール瓶とジンの瓶が山積みにされていた。それらをどけて詰めれば、ちょうど二人くらいは座れそうな席だった。


 だが、ジョンソンはぎょろりと目を見開いて、しっかと男を睨みつけた。


「なんだとてめえ、この野郎。とぼけたこと抜かしてんじゃねえぞ、この野郎」


 ジョンソンの剣幕に若い男は狼狽したようだった。しどろもどろになりながら言った。


「えっ、いや、だって……そのフィッシュアンドチップスを床に置いて、ちょっとそっちに詰めてもらえれば、僕らが座れ――」


「なんだとこの野郎! 気安く呼び捨てにしてんじゃねえよ! さんをつけろよ、この野郎!」


「えっ……?」


「えっ、じゃねえよ、この馬鹿野郎! フィッシュアンドチップスさんだ、フィッシュアンドチップスさん! 神様がお作りになった中で最高の食べ物はこのフィッシュアンドチップスさんだ! てめえみてえなおマヌケ野郎がフィッシュアンドチップスさんを差し置いて、その汚えケツを席に落ち着けようなんざ百年早えんだよ! わかったか、この野郎! わかったら、謝れ! フィッシュアンドチップスさんに謝れ!」


 ジョンソンの勢いに圧倒されたのか、若い男と女は慌てて逃げていった。


 けっ、と前の席のほうに痰を吐き飛ばして、ジョンソンが自分の席に腰を下ろそうとしたときだった。


「悪いけれど、そこ、空いてるかしら?」


 ジョンソンは反射的に振り返りながら再び怒声を上げた。


「ああぁッ!? 馬鹿かてめえ、この野郎! 今、おれっちが言ったことが聞こえてなかったのか、この――」


 トントンチキのクソッタレめ、という言葉は、ゴクリと喉の奥に飲み込まれていった。


 自分の目の前に現れたその女の顔を見たジョンソンは、声を震わせながら言った。


「あ、あんた……も、もしかして、シェリ――」


 ほっそりとした白い指がジョンソンの口をふさいだ。


「……悪いけれど、今日は一人の観客として来ているの。あんまり騒がないでもらえると、嬉しいわ」


「あ、ああ。わ、わかりやした……あ、こ、こちらへどうぞ、へへっ……」


 ジョンソンが慌ててフィッシュアンドチップスさんをどけると、その女は白い絹のハンカチを席に置いてそっと座った。


(面白えことになったなあ)


 ビールの瓶に口をつけて横目で隣の女を見ながら、ジョンソンは思った。


(あの〈竜使い〉がまさかおれっちの隣で、〈サキュバス狂い〉と〈赤毛〉の試合を観るなんてなあ! こいつはてえしたもんだぜ、まったくよう!)


 こりゃあ面白いことになる、とジョンソンは、スカーフで髪と顔を包んで隠したシェリル・トンプソンをチラ見しながらほくそ笑んだのだった。


 一方、シェリル・トンプソンは隣の男のことなど、一切気に留めず、ステージの上をひたすら凝視していた。


(ギルバート……)


 テーブルの上に両肘を置いて、対戦相手を待つ〈サキュバス狂い〉の姿を、シェリルは複雑な心境で見ていた。


 約二週間前……自分はあの男に負けた。最愛のソウルを破壊されて、負けた。


 いまだ薄れない屈辱がある。いまだ消えない悔恨がある。そしてこれから先もずっと抱えていくであろう哀しみがある。


 だがそれ以上になんだろうか、この気持ちは。胸を針で苛まれているような、疼くようなこの気持ちは。


 周囲の観客の狂乱など一切眼中に入らない面持ちで待ち続けるギルバートを、シェリルは複雑な想いで見つめ続けていた。


 そうしてどれくらい経ったときだろうか。


 ギルバートが入ってきたのとは反対側の入り口から、歓声と罵声が一緒くたになった嵐が沸き起こった。


「ギャラガーだ! おれたちの本命、〈赤毛〉のダン・ギャラガーだ!」


「ゴブリン使いのアイルランド人! 今日もおれたちにたっぷり稼がせてくれ! いい夢を見させてくれ!」


「勝てえええええ、ぜってええええに勝てええええええッ! じゃねえと、てめえ、ぶっ殺すぞぉッ! おれぁ、てめえに全財産かけてんだ、この種馬やろおおおおおッ!」


「死ねええええッ、疥癬病みの〈赤毛〉の野良犬めええええッ! クソとゲロにまみれて死んじまえええええッ! てめえのせいで、おれは破産したんだ、この淫売息子のクソったれめえええッ!」


「恥知らずのアイルランド人が、クニへ帰れ! てめえみてえなクサレ脳みその移民野郎が増えたせいで、わしは失業したんだ! 帰れッ、肥溜めの中へ帰れえええええええッ!」


 応援なのか罵倒なのか区別がつかないほど凄まじい俗語の嵐だった。シェリルには理解できない言葉がほとんどだった。後ろのほうから聞こえてきた、豚の×××とか、クソアイルランド人の△△△とはいったいどういう意味なのだろうか。


 シェリルが疑問符を浮かべていると、前の席のほうでは、豪奢な服に身を包んだ婦人がいかにも神経質そうにハンカチで口を押さえていた。


「イヤぁねえ、下品で汚らわしくて……いつものトップBランカーの試合みたいにボックス席で観ることができればよかったのに……こんな人たちと一緒の席にぎゅうぎゅう詰めで座るくらいなら、アドキンズさんのお宅のスクリーンで中継を観ていたほうがよかったわ。ねえ、あなた。今からでも遅くないんじゃないかしら。もう帰りませんこと?」


「まあ、そう言うな。確かにここはBランクの中では底辺レベルの試合会場だが、こういう狭くて小汚いところもたまにはいいじゃないか。それよりお前、髪になにか付いているよ」


「あらやだ。あなた、取ってくださらない?」


「……いや、わたしの気のせいだった。なにもついてなかった。痰などついていなかったよ、うん」


 途端にヒステリックに喚き出した婦人から、シェリルは視線を外した。こういうタイプの人間は子供の頃からよく周りにいた。今さら珍しくもなんともなかった。


 それよりも気になるのは……と、シェリルは会場の入り口からステージに続く通路へと目をやった。


 応援と罵詈雑言の嵐の中をゆっくりと歩いてくるその男を見たとき、シェリルは一匹の飢えた野良犬を連想した。


 それは風雨に晒され、飢えて痩せこけた一匹の野良犬だった。ボサボサの赤毛は艶が失せ、伸び放題になっている。身体は肋骨が浮き出ていそうなほど痩せており、しなやかな野生の筋肉がむき出しになっている。


 その長身痩躯を包むのは見慣れないゴワゴワとしたズボンとボロボロのシャツ、それと薄汚れたウィザードのローブだけだった。ステッキや帽子はおろか、上着もベストもネクタイもなかった。


 それは下層階級の身なりだった。金貨など山ほど稼いでいるはずなのに、その男はどこからどう見ても野良犬だった。


 ――〈赤毛〉のダン・ギャラガー。


 それが、ロンドンの貧民街からこの輝かしい表舞台に上ってきた男の名だった。


 ダン・ギャラガーがステージに上がり、ギルバートの対面に座ったとき、先程からシェリルの胸を苛んでいた針の痛みは一層強くなった。


 舐め回すようにダンを見つめるギルバートの横顔を凝視しながら、シェリルはほぞを噛んだ。


(ギルバート。あなたのその席にはわたしが座るつもりだった……わたしがダンと決着をつけるつもりだった)


 九勝一敗――これは、イートン時代の軍事学での練習試合における、シェリルとダンの試合結果だった。


 シェリルのほうが九勝で勝ち越していた。同級生はみんなシェリルのほうがダンよりも強いのだと思っていたが、真実は違った。


 確かに自分の実力が彼に比べて劣っているとは思わないが、九勝一敗というこの数字が持つ真の意味は、シェリルだけが知っていた。


 普段の試合では、シェリルの使うヴァーミリオンがダンのゴブリンデッキに常勝していた。だが、卒業間際に行われた最後の一戦――それだけが他の試合と違っていた。


 唇を噛み締めながら、シェリルはあの恥辱的な最後の一戦を思い返す。


 あの試合において、シェリルは、ダンが使う〈隻眼のゴブリン〉に敗北を喫していた。


 それはそれまで見たことがないカードだった。他の試合ではダンは普通のゴブリンを使っていた。だが最後の一戦だけ、彼はその片目しかない奇妙なゴブリンを出してきたのだ。


 両者の試合は拮抗した展開となったが、接戦を制したのはダンのほうだった。彼とシェリルの熾烈な戦いぶりに周囲の同級生たちは惜しみない賛辞と拍手を送ってきたが、シェリルのプライドはズタボロにされていた。


 ダンはずっとこちらの戦い方を観察していたのだろう。最初の一戦目から九戦目までは彼にとっては捨て試合だったに違いない。学校から支給される、破壊されても構わないゴブリン・カードで粘りながら、ダンはこちらの戦術やスタミナを調べ上げていたのだ。そして、最後の一戦は確実に勝てると確信して、自身の切り札(エースカード)である〈隻眼のゴブリン〉を出してきたのだ。


 シェリルは唇をギュッと噛み締めた。唇がプツンと切れ、苦い血の味が口の中に広がった。


(戦いたい。わたしもあの人と戦いたい――)


 ギルバートが座る席を食い入るように見つめながら、シェリルは自身の胸に収められたデッキホルダーにぎゅっと拳を当てた。


 イートンの頃からずっと一緒だった最愛のソウルカードはもうそこには入っていなかった。シェリルの胸の内には、その分の虚ろな空白がぽっかりと空いていた。


 ステージの上で向き合って座る二人の男を見つめながら、そして胸を針でチクチクと苛まれるような疼きに耐えながら……シェリルは自身の内にある虚ろな空白を苦く噛み締めていたのだった。


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