第31話 開幕前
今日も今日とて、クリスタル・パレスは大狂騒の最中にあった。
それもそのはずだった。
今日は世紀の一戦、〈サキュバス狂い〉のギルバート・ヘインズ対〈赤毛〉のダン・ギャラガー、〈ドラゴン犯しのサキュバス〉対〈十二匹の怒れるゴブリン〉の試合が行われる日だった。
クリスタル・パレスには、あらゆる階層の客が集まっていた。子供に、青年。若い淑女に、ジイさんバアさん。明らかに浮浪児にしか見えない痩せ細った子供がいれば、チョッキがはち切れそうなほどにブクブクに太った紳士の姿もあった。
クリスタル・パレスの前の広場には、そんな来客たちを獲物とするべく、ハイエナのような商売人や芸人どもが押し寄せてきて、てんやわんやを繰り広げていた。少しあたりを見渡すだけでも、そこにはあらゆる種類の人間と多様なもので溢れていた。呼び売り商人だけでもすごい数の連中がいた。オレンジ売り、煙草売り、黒ビールにソーセージ、ジンジャーブレッド、ハムサンドイッチ、キドニーパイ、燻製ニシン、カップ売りのジンに雀焼き、サイダー、カップケーキ、そしてクリスタル・パレスの土産物と、枚挙に暇がなかった。
それだけではない。
呼び売り商人の聞くに堪えない俗語だらけの売り文句だけでも凄まじい騒ぎであるのに、その他にも大道芸人やフリークショー、それらの見世物に大はしゃぎする田舎からやってきたおのぼりさんの集団、彼らをカモにしようとするノミ屋、木陰で真っ昼間からこっそりと客引きをする娼婦に、たまには珍しいものでも味わってみようかと従僕の腕を振り切って娼婦と交渉を始める老紳士、そしてそんな彼らのやりとりの意味がわからず不思議そうに首をかしげて見る上流階級のご令嬢――と、クリスタル・パレスはあらゆる人種のるつぼと化していた。
それらの光景を眺めながら、サイラスはうんざりとしていた。
「今日が非番じゃなかったら、あんなやつら、全員取り締まってやるんだがなあ!」
真っ昼間から不道徳な行為に耽ける連中に、不満の声を上げたサイラスだったが、その腕を取って、妻のフランシスがなだめるように言った。
「そんなこと言わないで、サイラス。真面目なのはいいことだけれど、あなた、少し働きすぎよ」
そうやって、いかにもな新妻を気取ってくるフランシスに、内心では悪い気はしなかったものの、サイラスは一応夫たる気概を示すべく、反論した。
「あそこでいかがわしい商売をしているやつらは全員違法なんだぜ。呼び売り商人はともかくとして、木陰にいるあの売女どもは――コホン、いや、まあえーと、春をひさいでいる女性たちはだなあ――」
「気にしないで、サイラス。あなたはわたしのことを貞淑な妻と考えているのかもしれないけれど、こう見えて、わたし、いろんなことを知っていてよ?」
妻の大胆な告白に、サイラスはぎょっと目を見開いた。そして疑念に満ちた表情を浮かべた。
「いろんなことを知ってるって、まさかフランシス……イートンの頃に、あの〈サキュバス狂い〉となにか付き合いがあったんじゃないだろうな!? まさかあの噂は本当だったのか! 君とギルバート・ヘインズが陰で付き合っていたっていう噂は!? あいつからなにか変なことを教わったのか!?」
サイラスが大声を上げると、妻はくすっと笑って言った。
「あらあら、お馬鹿さんねえ。スコットランドヤードの名刑事さんは、噂と真実の区別もつかないのかしら? 確かに顔はあの人のほうがいいかもしれないけれど、わたしが一番愛しているのはあなたなのよ、サイラス・スティプルトン」
そう言って、チュッと頬に接吻をしてくるフランシスだったが、接吻が終わったとき、こちらを見上げる彼女の顔には一片の疑問が浮かんでいた。
「むしろわたしのほうこそ訊きたいんだけれど、ねえ、サイラス。あなた、あの〈サキュバス狂い〉とイートンの頃になにがあったの?」
「……」
サイラスは妻の疑問に答えることができなかった。いくら愛する妻だろうと、答えることができない質問というものが男にはあった。
それが自分の過去の罪と恥を晒す告白ともなれば、なおさらだった。
――おれたちの同窓だった、ギルバート・ヘインズとダン・ギャラガーの試合が、今度クリスタル・パレスで行われるらしいんだ。その日、おれはちょうど非番でね。一緒に行ってみないか?
そう言って妻を誘ったのは、実際のところはたんなる口実にすぎなかった。本当は一人で来るのが怖かっただけだった。
(あいつに謝りたい。それが叶わないならば、せめて応援したい)
それが、サイラスが今日、ギルバート・ヘインズの試合に訪れた理由だった。
イートンの頃……その最終学年のとき――サイラス・スティプルトンは、ギルバート・ヘインズに決闘を挑んで……そして、負けた。
こんなことを言うことさえ許されないことだが、あのとき、サイラスは彼を殺すつもりだった。
どうかしていた。
いくら家庭の事情によって追い詰められた精神状態にあったとはいえ、そして魔石召喚で引いたソウルがおかしなものだったとはいえ……あのとき自分がしようとしていた行為は、法律、社会通念、そして道徳……そのいずれをとってみても、許されざるものだった。
(だが、ヘインズ……お前は、あの〈狂った聖騎士、イグヴァルト〉を破壊して、おれの目を覚ましてくれた)
胸に収められたデッキホルダーに手を当てて思う。あのとき、ギルバート・ヘインズと彼の手札による凄まじい反撃がなければ、自分は一生かけても償えない罪を背負っていたところだった。
それだけではない。
あの決闘によって、サイラスは自分が本当に求めているものに気づくことができた。
両親の反対を押しきり、自分が本当に望む職に就き、愛する人と結婚した――あの許されざる決闘によって、そしてギルバート・ヘインズのおかげで、サイラスは自分が望む人生を手に入れることができたのだった。
(いくら謝っても許されるものではないが……せめて今日、お前の顔をひと目見たい。そして一声、応援したい)
サイラス・スティプルトンが、今日、クリスタル・パレスを訪れたのは、そういう理由からだった。
広場の人混みをかき分け、係員の案内に従って、試合会場の観客席へと向かったサイラスは驚いた。
「こりゃあ、Bランクの会場じゃないか!」
一八五〇年代にロンドンのハイドパークに建築され、その後現在のシドナムに移築されたクリスタル・パレスは、ウィザード・トーナメントの人気とその発展にともなって今なお、増改築が繰り返されていた。
その結果、クリスタル・パレスはガラスと鉄でできた巨大な宮殿と化しており、その内部には無数の空間が存在していた。
サイラスとフランシスが係員の誘導に従って足を踏み入れたのはその中のひとつ、Bランクの試合に使われる会場だった。
そこはコロッセオのような円形の部屋だった。中央にはステージのような低い台があり、階段状の客席がそれを取り囲んでいた。中央のステージにはテーブルと二脚の椅子が置かれていた。
対戦者を客が取り囲む形になるのだろう。部屋は暗かったが、ガラスの天井から差し込む一筋の光が、対戦者たちが座るテーブルをスポットライトのように浮かび上がらせていた。
サイラスとフランシスは最前列に座った。会場はそれほど広くなかった。ステージと客席のあいだにもほとんどスペースがない。手を伸ばせば対戦者の背中に触れることができそうなほどの距離だった。
会場には次から次へと人が入ってきた。まるで津波のようだった。怒涛の勢いで押し寄せてくる群衆を見て、サイラスはこのBランク用の部屋が試合会場に選ばれた理由を察した。
「でも、もっと大きい部屋にしたほうがよかったんじゃないかしら?」
そう不満気に言ったフランシスの右隣からは、汚い身なりをした臭い男がぎゅうぎゅうと身体を押してきていた。サイラスはフランシスの肩を抱き寄せ、男を睨みつけて威嚇してやりながら答えた。
「会場側もまさかここまで人気の試合になるとは思わなかったんだろうな」
周囲を見渡すと、客席はすでに満杯だった。二百人くらいはいる感じがするが、会場はそれ以上の熱狂と興奮に包まれていた。どうやら中に入ることができなかった客が外で騒いでいるらしい。
「もしかしたら、全部で数千人はいるかもな」
そんなことをつぶやいた瞬間だった。
会場が爆発したかのような騒ぎに包まれた。その狂騒は入り口のほうから聞こえてきた。
客たちは総立ちになっていた。毛むくじゃらの腕を子供みたいにブンブンと振る中年の男。黄色い歓声を上げる若いレディたち。金切り声を上げてエールを送る小さな子ども。
そんなファンたちの声援を涼しい顔で受け流しながら、その男はやってきた。
あの頃とまったく変わらないその笑みを見た瞬間、サイラスはその男の名を大きな声で叫んでいた。
「ギルバート・ヘインズッ!」
ガタンと大きな音を立てて、サイラスは無意識の内に立ち上がっていた。
ここに来るまでのあいだにいろんなことを考えていた。もし会えたらなにを言おうか。向こうはおれのことをどう思っているだろうか。そもそも話をするタイミングなどあるだろうか――
だが、そんなくだらない煩悶は彼の顔を見た瞬間に、すべて吹っ飛んでしまった。
「ギルバート・ヘインズッ! ギルバート・ヘインズッ! ギルバート・ヘインズッ!」
サイラス・スティプルトンは熱い男だった。真っ向から人に向き合い、ぶつかり合い、そして友情を育む類の、真っ直ぐな気質の男だった。成長の過程で道を踏み外してしまったことも多々あったが、それでもその根本たる人格は幸いなことに損なわれてはいなかった。
サイラスはラグビー部でチームの応援をしていたとき以上の声を張り上げて、何度もギルバート・ヘインズの名を叫んでいた。その両眼からは熱い涙がこぼれ落ちていた。
なぜだろうか。涙が無性に止まらなかった。
哀しかった。自分の前を通り過ぎていくあの男の笑みが。こちらが手を伸ばしても一顧だにしないやつの姿が、サイラスにはどこか別の世界の住人に見えていた。
思えば、イートンの頃からそうだった。
誰にも心を開かない男だった。涼やかな表情と軽やかな話し方をする男だったが、それでいて、やつは見えないバリアを常に周囲に張り巡らせていた。
やつの代名詞となった、あのサキュバスを手に入れてから、ギルバート・ヘインズのその傾向はますます深まった。
――この世の誰にも自分を破壊することはできない、なぜならば自分はすでに絶対的なものを手に入れているから。
いつだって崩れることのないやつの笑みは無言のうちにそう語っているようだった。
そして今――
あの頃よりも圧力の増した彼の笑みを見たサイラスは、彼がもう二度と手の届かない存在になってしまったように感じられた。
それが哀しくて、悔しくて……サイラスはもう一度だけ強く……とても強く、叫んだ。
「ギルバート・ヘインズッ!」
それまでで一番大きな、そして周囲よりも一際高い声を張り上げた、そのときだった。
それはたんなる偶然にすぎなかったのかもしれないが……サイラス・スティプルトンの恩人はこちらの声援に応えるように、うふッ、と笑みを浮かべた。
熱狂が波のように観客たちに伝播していく中で、サイラスは流れ出る涙を拭いもせずに立ち尽くした。
(行けよ、ヘインズ……お前なんて、どこでも好きな場所へと行ってしまえ)
それは、自分の青春時代に深く関わりつつも、最後まで理解し合うことができなかった男への別れの言葉だった。
どうしたの、大丈夫? と袖を引いてくる新妻に答えもせず、サイラスはそのまましばらく涙を流し続けたのだった。




