第28話 愛の讃歌
目の前に、銀髪の天使が出現していた。
波打つ銀色の長髪。
肉感的な姿態。
そして雪のように白い肌。
足元の召喚陣から立ち昇る光の柱の中に、その銀髪の天使はいた。
「君が……僕のソウルなのかな」
思わずそうつぶやくと、天使は真っ赤な瞳を見開いて、なぜかそっと涙をこぼした。そしてこちらの頭を優しくひと撫ですると、ふっとかき消えるようにして、ギルバートの手の中にあるブランクカードの中へと姿を消していった。
なにも描かれていなかったカードの表面にゆっくりと絵柄と文字が浮かび上がってきた。
――〈愛欲のサキュバス〉。
どうやらそれが魔石召喚によって手に入れたギルバートの初めてのソウルカードらしかった。
ぼうっとそのカードを見つめていると、初めての魔石召喚に挑戦する生徒たちのあいだを回っていた、チップスという若い教師がこちらにやってきた。
「おや、ヘインズ。君はもう魔石召喚は済ませたのかい? どんなソウルが引けた?」
「……ブロンズランクのサキュバスみたいです」
「うわ、それはご愁傷さ……コ、コホン!ま、まあ気にすることはない! いいかい、魔石召喚は、通常タワーで行われるカード化の手順とは違うカードの入手方法だ。魔石召喚では、使用する魔石のランクとウィザードの実力によって、喚び出されるソウルが変わってくる。血筋や召喚を行う場所によっても変わってくるようだけど、まあわたしに言わせれば、魔石召喚なんてものは運がすべてだ。給料を全部石にぶっ込んで、借金までしているわたしが言うんだから間違いない。なにしろこれまでおそらく一万回以上は召喚陣をクルクル回しているからね。そう、魔石召喚は運がすべてなんだ。実力なんて関係ない。だから外れソウルを引いたとしても、そんなに気にすることはないよ」
ギルバートが落ちこぼれと呼ばれていることを知っているのだろう。生徒たちの初めての魔石召喚をサポートしているチップス先生は、どうやらこちらを慰めてくれているつもりらしかった。
しかし、ギルバートには腑に落ちないことがあった。
「チップス先生、サキュバスというのは外れソウルなんですか?」
〈愛欲のサキュバス〉をしっかりと握りしめながら尋ねてみると、チップス先生は微妙な顔つきになった。
「あー、そうだね。まあ、なにを外れと呼ぶかは人によると思うんだけど……一般的にあまり喜ばれないソウルであることは確かだ。サキュバスといえば、男性から喜ばれそうなイメージがあるソウルだけど、実際は猿みたいな姿をスキルによって絶世の美女に見せかけているだけだからね。知能が低くて性欲しかないから、雑事や事務作業、交渉事には使えない。かといって、パワーやタフネスも低いから戦闘にも使いにくい。正直、引きたいかどうかと訊かれれば、できれば遠慮したいソウルだね」
すると、こちらが〈愛欲のサキュバス〉をじっと見つめている様子をどう勘違いしたのか、チップス先生は慌てた様子で言った。
「だ、大丈夫! ヘインズ、君はまだ若いんだ。これから魔石召喚を行う機会はいくらでもあるよ! そうだ、わたしがいい話を紹介しよう! 実はわたしの知っているバーンズという店にはリボルビング払いというものがあるんだ。これが実によくできた仕組みでね。いくら魔石を買っても、月々に払う金額は一定なんだよ! よかったら君もわたしと一緒に……」
急に目が阿片中毒者のようにトロンとしてきたチップスだったが、他の生徒のところから歓声があがってきた。
「チップス先生ー! トンプソンさんが、すごいのを召喚しました! すごいです、ドラゴンです!」
「は、はああああああああ!? 学校からの配布石で、しかも初めての魔石召喚で、ドラゴンを一発引きだと!? ふざけるなよ、トンプソン! 名門貴族だからって、そんなことがあっていいわけないだろおおおおお!?」
チップス先生は急に我に返ったようだった。憤りで顔を真っ赤にしながら、騒ぎが起こっている生徒たちの群れのほうへと走っていった。
他の者もみんな、シェリル・トンプソンが引いたソウルに夢中になっていた。
その様子を外側から見ていたギルバートは、誰にも見られていないことを確認すると、そっと校庭を抜け出して、学校の敷地の端にある森のほうへと駆けていった。
「はあ、はあ、はあ……」
森の中に駆け込んで、しばらく夢中で木々のあいだを走り抜けた。
足がもつれて呼吸が限界になったところで、木の幹に手をついて肩で息をした。
念の為周囲を見回してみるが、他に人はいなかった。ミルクのような霧に包まれた薄暗い森の中はギルバート一人だけだった。
いや、一人、というのは正しくなかった。
心臓の高鳴りを必死に抑えながら、ギルバートはずっと握りしめていた手を開いて、そのカードをもう一度じっと見つめた。
――〈愛欲のサキュバス〉。
カードの表面にはさっきの銀髪の天使の姿がそのままの絵となって描かれていた。
(これが僕のソウル……?)
不思議な感覚がしていた。
胸が熱い。身体の中心で炎が燃えているようだった。
これはいったいなんだろうか。
全身を駆け巡るこの力の奔流はいったいなんなのだろうか。
(知りたい――そして会いたい)
この新しい力の正体を知りたい。そしてもう一度彼女に会いたい。
さっきの一瞬の邂逅で――彼女に撫でられた頭のてっぺんから爪先に向かって、熱い流れが駆け巡っていた。
ぐっとカードを握りしめる。カードに描かれた彼女をじっと見つめる。
だがわからない。
自転車に乗ったことがないギルバートには、彼女にもう一度会う方法がわからなかった。
ギリ、という音が口の中で鳴った。歯軋りの音だった。
自分がいつのまにか歯を食いしばっていたことに気づいて、ギルバートは驚き、戸惑った。
(いったいなんだろう、この気持は)
――彼女に会いたい。もう一度会って、この気持ちを確かめたい。
こんなにもなにかを激しく求めたのは初めてのことかもしれない。
すると、その強い気持ちがカードに届いたかのようだった。
(あなた……もしかしてまだソウルを召喚したことがないのですか?)
絹を撫でるように心地よい声が頭の中に響いてきた。
これはひょっとして……彼女の声なのだろうか。
ドクン、と心臓が跳ねた。
それに伴って、熱い力が心臓から下半身に向かって流れた。
(えっ、えっ……な、なにこれ……?)
(えっ、ちょっ、ちょっと冗談でしょう? まさかあなた、マナの出し方も知らないのですか!?)
ギルバートと同じ力の流れをカードの中の彼女も感じ取っているのだろうか。
だがこちらがその力についてなにも知らないことに、彼女は驚いた様子だった。
その反応に思わず、うっ、と泣き声みたいな声が出そうになった。マナの練成方法を知らないことがなんだか急に恥ずかしいことのように思えてきた。
すると、どこか狼狽したような声が聞こえてきた。
(あ、あ~、もうっ! 恥ずかしがることないでしょうっ、誰だって最初は初めてなのですからっ!)
(で、でも……)
(こら、男の子がメソメソウジウジしてはいけませんわよ……もう~、仕方ないですわね……ほら、ちょっと目を閉じて? いい? 身体を楽にして……)
(……? う、うん……)
頭の中に響く彼女の言葉にうなずき、目を閉じたその瞬間だった。
ヌチュリッ……と、初めての熱い感覚がねっとりと下半身を包み込んできた。
(……ッ!?)
(……よくって? マナを出すには、こうして……優しく、握って、絞り上げるみたいにして……)
(ん……ッ!)
なんだろう、この感覚は。
身体の大事な部分が熱いなにかにぎゅっと握りしめられているようだった。
敏感な部分を擦り上げられたように腰がビクンと勝手に跳ねてしまった。
(あっ、いけませんわよ。ちゃんと深呼吸して落ち着かないと……)
(だ、だってっ……これっ……な、なんか変……っ)
(心配なさらないで。みんな初めてのときはそんなものですから)
絶対ウソだと思った。マナを放出する感覚は確かに人によって違うらしいが、教師や同級生が話している感想を聞く限りでは、こんな変な感じがするなんてことは誰も言ってなかった。
(そんなの気にすることありませんわ。人と違ってても、全然おかしくないのですから……ほら、それより次からはあなたも一人でできるようにならなければいけませんからね? こうやって、マナを出すときは、ちょっと強くしたり弱くしたりしながら、シコシコってこう上下に動かすみたいにして……)
(ダ、ダメ……っ、そんなふうに動かしちゃ……な、なんか出そう……っ)
(大丈夫ですわ……我慢しなくてもよくってよ?)
うふッと笑う声が頭の中で響く。
(いっぱい出したほうが体にいいですから。ほら、がんばれがんばれ……♡)
さらに強く擦り上げられた、その瞬間だった。
(……ッ!)
乳白色のミルクが飛び出たようだった。熱いドロドロとしたものが下半身の中心から放出される感覚があった。
初めての感覚にびっくりして目を開けると、目の前に真珠色の光が現れていた。
その中から姿をゆっくりと現れてきたのは、まぎれもない彼女の姿だった。
銀髪の天使は暖かな微笑みを浮かべて、こちらを優しげに見つめていた。
「えらいえらい♡ ちゃんといっぱい出せましたね」
「……」
「出し方、わかりましたか? 今度からちゃんと一人でできそうですか? ……って。ちょ、ちょっと! どうしたんですか!?」
よくわからない熱いものが両目から流れ出していた。ギルバートは泣いていた。
「ご、ごめんなさい、びっくりしましたか? 痛かったですか?」
屈みこんで目線を合わせてくる彼女に向かって、ギルバートはシャツの袖で涙をゴシゴシ拭いながら首を横に振った。
マナと一緒になにか不思議な気持ちがギルバートの中に生まれていた。それがカードの中に流れ込むことで、彼女が自分の前に姿を現してくれたのだと思うと、涙が止まらなかった。
生まれて初めて、温かいものを感じていた。こんなふうに誰かのぬくもりに包まれたのは初めてのことだった。
――いや。
わずかに、覚えている。
それはいつのことかもわからないほど遠い記憶だった。忘却の彼方に消えてしまった原初の記憶だった。
父から受けたものではない。ましてや、義母から受けたものでもない。
そう、あの優しくなにかに包まれる感覚は、顔も覚えていない生みの母の――
「……大丈夫ですわ」
ふっ、と――
その優しくも熱い柔らかさは再びギルバートを包み込んだ。
「わたくしはあなたのソウルですから。一緒にいますから。それがわたくしを救ってくれたあなたへの気持ちですから……ねっ? だから泣かない」
銀髪の天使にぎゅっと抱き締められて、ギルバートはまた泣いた。この世界に生まれ落ちた赤ん坊のように激しく泣いた。
乳白色の霧に煙る森の中で、透明な涙がこぼれ落ち、銀色の髪が夜空の星のようにきらめいていた。
そのとき、ギルバートは初めてあの讃歌の意味を理解した。
――歓喜と歓楽と愉悦と享楽のあるところ。愛の願望の満足せしめられるところ。かしこに、われを不死ならしめよ。
それが、〈愛欲のサキュバス〉――のちにギルバートに天使と名付けられたソウルとの、初めての出会いだった。




