第27話 やがて哀しき孤独な少年
広大な敷地を持つイートン・ウィザード・スクールには、太陽の光が燦々と降り注ぐ中庭がある。
青々と茂った芝生に、パラソルのような木が作る冷たい木陰は、ちょっとしたピクニック気分を味わうには絶好の環境だ。今日のようなよく晴れた昼休みには、生徒たちがそこかしこで昼食を広げ、おしゃべりや昼寝を楽しむ姿が見られる場所だった。
だがそんな光景の中で、そこだけポッカリと穴が空いたように人が寄り付かない木陰があった。
木陰の下には読書をする一人の少年の姿があった。
すると、一人の女子生徒が彼を指差して、少し興奮した様子で言った。
「ねえ、あの人、ちょっと素敵だと思わない?」
「うん? どれどれ……って、げっ、あれはまさかギル――」
「わたし、ちょっと話しかけてみるわ!」
「えっ! ちょ、ちょっとダメ! あんたはまだ転入してきたばかりで知らないんだろうけど、あいつに話しかけたりしたら――」
友人の制止も聞かずに、女子生徒は木陰に一人で座って読書する少年のところへと駆けて行った。
「ねえ、なにを読んでいるの?」
女子生徒の問いかけに、少年はふっと視線を本から上に持ち上げた。
その少年の美しい顔に、女子生徒の胸はドキリと高鳴った。
物語に出てくる王子様のように美しい顔だった。憂いを帯びたシルバーブルーの瞳。信じられないほど長いまつげ。透き通った白い肌に、薔薇色の頬。濡れたようなブリュネットの髪をかき上げるその仕草は野性的で、誘惑的で、危険な香りがした。
女子生徒は急にドキドキしてきた。それ以上はなにも言えずに緊張でカチンコチンになっていると、どこか冷たい感じがしていた少年の顔がふっと緩んだ。
その真っ赤な唇が開いた。
「この本のこと? これはね、カーマ・スートラっていうんだ。僕のこれは十年以上前に出たバートンの英訳本なんだけど、この版にはいろんな挿絵が載っていてとても興味深い」
思っていたよりも親しげな少年の様子に、女子生徒の緊張は和らいだ。
「カーマ・スートラ? どういう内容の本なの?」
「古代インドの時代に書かれたヒンドゥー教の本なんだ。僕もよくは知らないんだけど、彼らの教えでは、人生には達成すべき目的がいくつかあって、その中のひとつがカーマというものらしい。これは、そのカーマを満たす手段について詳しく書かれた本なんだ」
古代インド。ヒンドゥー教。カーマ。
少年が話すそれらの単語が持つエキゾチックで頭が良さそうな響きに、女子生徒は魅了された。
締めているネクタイの色から察するに、少年は二年生――自分と同じ十四歳だ。
だというのに、こんなに知的でクールでかっこいいなんて!
女子生徒はつい最近、シュルーズベリーからイートンに転入してきたばかりで、この少年のことについてはまだなにも知らなかったが、女子生徒は少年の気を引くべく、会話を続けようと試みた。
「その、カーマ? っていうのはどういうものなの?」
「広義では欲望とか情愛とかを意味する言葉のようだけど、この本では特に愛欲――つまり性欲のことを指しているみたいだね」
「性欲?」
「○○○○や□□□への本能的欲求のことだよ」
「○○○○? □□□?」
よくわからない顔をした女子生徒に向かって、少年は端正な顔に微笑みを浮かべて言った。
「うーん、口で言うより、実際に見せたほうが早いかな……ほら、こういうものだよ」
そう言って、少年が見せてきたのは、カーマ・スートラに描かれた一枚の挿絵だった。
女子生徒は最初、それがどういう絵なのかわからなかった。それは動物のような、獣じみたなにかが絡み合っている絵のように見えた。
だが少し見ているうちに、それが人間であることが――それも、裸の男女が下半身を密接に絡ませている絵だということがわかった。
女子生徒は仰天した。こんなにも恥ずかしく、浅ましく、汚らわしいものがこの世に存在するなんて、想像したことすらなかった。
あまりのショックでもの言わぬ石像と化した女子生徒に向かって、少年は医者が人体の機能を説明するかのような口調で続けた。
「わかる? これが□□□。○○した△△△を××××状態にある▽▽▽に挿入するんだ。たとえばこれは▼▼▼▼での□□□だね。カーマ・スートラにはこういう体位が全部で八十八種類説明されていて、他にも☆☆や●●のこととかが――」
「さっ……さい……っ」
「うん?」
「最っ低ッ!」
涙目になって頬を真っ赤にした女子生徒は、彼女の十四年間にわたる人生の中でも最大級になる平手打ちを、少年の頬に鮮やかに見舞ったのだった。
「いったい、なにがいけないんだろう」
手形の跡が残る頬を押さえつつ、ギルバートはつぶやいた。
地面に落ちた本を拾い上げて、ついてしまった土と草をパンパンと払い落とす。
ギルバートはカーマ・スートラを小脇に抱えた。
もうすぐ昼休みが終わってしまう。その前に次の授業の準備をしなければならない。
授業のことを考えて、ため息をつく。
午後一番の授業は、基本演習――ソウルをカードから召喚して、操作する授業だった。
「ヘインズ……お前、転校生のフランシスさんを泣かせたんだってな」
「……」
午後の授業は思った通り、最悪だった。
二人一組になって、という教師の言葉に、とある生徒が早速反応していた。サイラスという、頭が良くてスポーツができて、みんなから人気のある優等生が、ギルバートの相手に自ら立候補していた。
これから行われる対戦のことを想像しているのか、周囲の生徒たちはくすくすと笑っていた。
「それでは正々堂々と戦うように……始めッ!」
教師が号令を下すと、生徒たちは一斉にソウルを召喚し始めた。
サイラスも学校から貸し出されたカードからソウルを召喚していた。
「召喚、〈沼地のインプ〉!」
「……」
「どうしたんだ、ヘインズ? これはお互いにソウルを召喚して戦うことで、マスタースキルを高める授業なんだぜ。お前がソウルを召喚してくれなきゃ、練習にならないだろ?」
「……」
サイラスのそばには、意地が悪そうなインプがふわふわと浮遊していた。他の生徒たちも、亜人や魔物、無機物系のソウルを召喚していた。
そばになにもいないのはギルバートだけだった。
サイラスが〈沼地のインプ〉そっくりの意地悪い笑みを浮かべた。
「おいおいおい……まさかお前、まだソウルの召喚ができないっていうのか!?」
その言葉が引き金となったかのようだった。イートンの校庭にあっというまにくすくす笑いが満ちた。
教師がパンパンと手を打ち鳴らして、生徒たちに練習に集中するように告げているが、忍び笑いは収まらない。
それもそのはずだった。
注意している教師本人が、呆れたような、嘲笑うかのような表情を浮かべていた。これでは生徒たちが従うはずもなかった。
その事実に力を増したかのようにサイラスが声を張り上げた。
「冗談はよせよ、ヘインズ! マナの練成とソウルの召喚なら、去年さんざんやったことじゃないか! お前、もう一度、一年生からやり直したほうがいいんじゃないか?」
下手な芝居のようにわざとらしいその声に、ついに爆笑が弾けた。みんながギルバートのことを笑っていた。
落ちこぼれ、変態、クズ野郎、という言葉が、笑い声に混じって聞こえてきた。さっき中庭で会話した転校生のフランシスも、薄っすらと軽蔑の笑みを浮かべていた。
教師も苦笑を浮かべていた。もしかしたら、サイラスと同じ意見なのかもしれない。
ウィザード・スクールの二年生ならば、ソウルのひとつやふたつ、召喚できて当たり前の話だった。
だが、ギルバートはいまだにソウルを召喚する方法がよくわからなかった。
マナの練成やソウルの召喚イメージは人によって異なるため、それを他の者が直接指導することは難しいらしいが、それでもなんとなくの感覚というものがあるらしい。
以前、ハロウィーンの委員で一緒になったことのあるシェリル・トンプソンという女の子からは、ソウルの召喚は自転車に乗るのと同じだと聞いたことがある。なんでも、一度なんとなくやってみたら、あとは回数を繰り返すだけで自然とできるようになってしまうものらしい。
だが、同級生たちがみんな乗れるようになっているのに、ギルバートだけがまだ一人自転車に乗れずにいた。
それをサイラスは大袈裟に笑った。
「おいおいおい、ヘインズはソウルの召喚もできないのに、女の子を泣かせたっていうのか! なんていうクズ野郎だ! ヘインズはまったくどうしようもないな! これじゃあ、おれの不戦勝で終わりじゃあないか! あっはっはっは!」
不戦勝とか。対戦とか。勝敗とか。
そういうことはどうでもよかったが、サイラスの言葉にはひとつだけ気になることがあった。
ギルバートは相手にそれを問いかけてみた。
「ねえ、サイラス。君はフランシスさんのことが好きなの?」
「は、はあッ!?」
「や、別に好きじゃないなら、それでいいんだけど。でももし好きだっていうんならさ、僕、いい本持ってるんだ。カーマ・スートラっていうんだけど、接吻とか性交渉とかスパンキングのことが詳しく書かれているんだよ。よかったら、これを貸すからさ。彼女といろいろ試して、その感想を教えてほしいな」
「……この変態め」
サイラスの瞳はまるで許しがたい侮辱を受けたかのように冷え切っていた。
〈沼地のインプ〉が突然、ギルバートに襲いかかってきた。
鋭い爪に頬を裂かれ、鼻に噛みつかれた。真っ赤な痛みがギルバートを襲っていた。
目の前が赤い血のようなもので染まっていくが、同級生たちの笑い声が校庭に響いていた。視界の隅に、教師がのんびりとした足取りでやってくるのが見える。おいおい、やめないか、まったくしょうがないな。教師は笑いながらそう言っているようだった。
やがて暗闇の中にその意識が沈んでいくまで、同級生たちの笑い声はギルバートの耳に突き刺さっていたのだった。
自室の窓枠に座って、片足を外に突き出してブラブラさせながら、ギルバートは葉巻を吸っていた。
ちょうどいい具合に夜風が吹いていた。葉巻の煙を寮監から隠してくれる、いい風だった。
ギルバートは月明かりに照らし出される中庭とその遠くに広がる森を眺めながら、自分の顔に触ってみた。
サイラスのソウルによって受けた怪我は当初考えられていたよりも重傷だった。未成熟なウィザードの暴走による傷は本来ならば何十針も縫わなければならないものだったが、ギルバートの身体から痛みはすでに消えていた。傷は校医が使用した貴重な回復カードによってほとんど癒えていた。
この夏に帰省したときに実家の父の書斎からくすねた葉巻を深々と吸って、ちょっと部屋の中へと視線を送った。
イートンでは寮の部屋を二人一組になって使用する。二段ベッドの上段を使っているルームメイトはぐっすりと眠っていた。
そのことに安心して、ギルバートは紫煙をふぅーっと外に吐き出した。
まったく、昼間はさんざんな目に遭った。これくらいの慰めはあってもいいだろう。
ギルバートには悩みを話せる友達がいなかった。ルームメイトはあくまでルームメイトだ。挨拶するような相手はいても、心の内や自分の考えを自由に話せる友達というものはいなかったし、これからもできる予感がしなかった。
(いったい、なにがいけないんだろう)
葉巻を口にくわえながら、ギルバートは昼間に考えたのと同じ思索を巡らした。
自分がイートンの基準でいうところの落ちこぼれであることは理解している。それが物笑いの種になることも、本来ならばそれを恥に思うべきであることもわかっている。
だが、別にそんなことはどうでもよかった。
流れに身を任せるまま入学したイートンだった。
父が入れと言った。はい、わかりました、とギルバートは言った。それだけの話だった。
別にウィザードになれなくても構わなかった。それをいうなら、何者にもなれなくても構わなかった。
ギルバートは自身が変態と呼ばれていることについても考えてみたが、それについてもいまいちわからなかった。
自分があまり一般的ではないことに興味を持っているのは理解しているし、自分の言動が他人にとって不快な感情をもたらすことは理解している。
どうやら世間では性的交渉に関する類のことは一種の禁忌として扱われているらしい。
しかし、それがギルバートにとってはよくわからない点だった。
(いったい、なにがいけないんだろう)
ギルバートは葉巻を吸って、また吐き出した。
実家のフットマンと侍女は周囲の目を盗んで、いたる所で性交渉をしていた。
自分と同じくらいくらいの歳の使用人の男の子がそれを盗み見て自慰行為に耽っていたことを、ギルバートは知っている。
それを知った中年の家政婦が使用人の男の子を脅して彼を好きに使っていたことも、それらすべての事実を執事が掌握し、自分の都合のいいように事を運んでいたこともギルバートは知っている。
それらの事柄は別段汚らわしいものとは思われなかった。ギルバートにとっては、生まれ育ったときから普通にあった当たり前の光景だった。
また、そういった使用人たちの性事情だけでなく、父と義母のあいだには性の営みがまったくないことについても、ギルバートは洩れ聞こえてくる使用人たちの噂から承知しており、一般的な観点から見て、夫婦が別々のベッドで寝ることが少々異常であることについても聞き知っていた。
だが、そもそも世間からしたら、そういった性に関する情報を、自分のような年頃の子供が知っていることこそが異常だということに、ギルバートはイートンに入学してから初めて気づいた。
しかし、ギルバートにはそれでも疑問だった。
ギルバートは葉巻から立ち昇る紫煙をぼんやりと眺めながら考えた。
カーマ・スートラが示している古代インドの考え方では、性愛の知識はその頃の知識階級にとっては、道徳や実利と並んで、欠くべからざる教養だったらしい。
その考え方によれば、性欲は食欲と同等のものではなく、人間独自の品位あるものだと捉えられていた。
性愛の歓びはすなわち、神秘。
性愛によって得られる歓喜は快楽の彼岸――つまり、宗教的境地のひとつである涅槃として考えられていたのだ。
単純に肉体を交わらせるだけならば獣にもできることだが、そこに精神性やなんらかの意味を見出そうとするのは人間にしかできない行為だ。それを突き詰めていけば、性交渉によって得られる絶頂や恍惚の連続は、永遠不死の魂の連続性の象徴だった。
ギルバートは葉巻の紫煙を吐き出しながら、カーマ・スートラの中にあったヴェーダ讃歌の一節をつぶやいてみた。
「歓喜と歓楽と愉悦と享楽のあるところ。愛の願望の満足せしめられるところ。かしこに、われを不死ならしめよ、か……」
だがもしこの詩の通り、性的交渉による絶頂が、相互の愛情による至福の瞬間が、魂の行き着く終着点で始まりの地だとするならば……。
――僕はいったいなんのために生きているんだろうか。
ギルバートはなんとなく窓枠の下を見下ろした。
地面ははるか遠くにあった。冷たい夜風が吹きつけてきた。
窓の外にこのまま身を躍らせることについて、ギルバートはぼんやりと考えた。
それはあながち悪い考えではないように思えた。自分が死んだところで悲しんだり、困る人はまずいないし、このまま生きていても別段なにか意味があるとは思えなかった。
「歓喜と歓楽と愉悦と享楽のあるところ。愛の願望の満足せしめられるところ。かしこに、われを不死ならしめよ」
ギルバートはもう一度、その愛の讃歌を暗誦してみたが、この詩が指し示しているものについては理解できなかった。
自分の人生には、歓喜や享楽などというものは存在しなかった。そんなものは一度として味わったことがなかった。
ましてや、愛などというものはまったく理解できない代物だった。
誰かを愛し、誰かに愛されることなど考えられない人生だった。
愛人の子である自分に対して、父は無関心であるようだった。父の興味と教育的情熱は、正統たる跡継ぎである弟のコリンに向けられているようだった。
この夏に帰省したときもそうだったが、義母からは度々折檻を受けていた。義母は乗馬用の短い鞭をいつも持ち歩いていて、ギルバートがなにか気に入らないことをしたときにはそれで手の甲や尻をピシャリと打った。ギルバートはそのたびにギャッという短い悲鳴を上げざるを得なかった。
「気味の悪い子だこと!」
義母はギルバートのことをいつもそう言っていた。
「変な本を読んだり、一人で森に出かけて夜遅くに帰ってきたりして……あなたはお父様の慈悲でこの家にいられるということを忘れるんじゃありませんよ!」
義母の言う通りだった。
ヘインズ家におけるギルバートの立場は曖昧だった。コリンが生まれるまでは跡継ぎとして教育を受けていたが、コリンが生まれてその健康が確認されると、ギルバートはお役御免になっていた。
ギルバートは私生児ではなかったし、跡継ぎでもなかった。かといって、ヘインズ家の一員として認められているわけでもないようだった。
自らの存在定義が曖昧なまま、ギルバートは幼少時代を過ごしてきた。
――誰からも愛されたことがない。
だから誰かを愛することも知らず、人生の目的も見いだせずにいる。
それが、ギルバート・ヘインズ――十四歳のむなしい秋のことだった。




