第25話 〈ゴブリン使いのアイルランド人〉
「やめてくれ! 別におれはそんなことは頼んじゃいない! ちょっとその子を懲らしめてくれと言っただけだ!」
「そういうわけにもいかねえのはあんたもわかってんだろうが、牡蠣売りの旦那。この赤毛の野良犬はさすがにやりすぎた。今月だけでビリングズゲート、コヴェント・ガーデン、ホワイト・チャペルのすべてがやられてる。こいつはここでやらにゃ、示しがつかめえよ」
ヤクザものはそう言うと、こちらをつまみ上げて、無感情な顔を向けてきた。あえてそういう顔をしているのがわかった。
父と母がよく見せていた顔だった。オレンジ結社がどうとか、ジャガイモ飢饉がどうとかで英国ロンドンに移民してきた、貧しいアイルランド人の血を受け継ぐ両親だった。
貧乏の血とは代々受け継がれていくものらしい。
生きるために――
その言葉のもとに、すべてのものが切り捨てられる環境だった。ダンには何人かの兄姉がいたが、そのうちの何人が無事に成人できるのかは誰にもわからない環境だった。
出産時に流れてしまった命を含めれば、何分の一かのルーレットだった。
そういう環境で、ダンは生まれ育ってきた。
十歳の頃に、両親が流行り病で亡くなったとき、ダンは泣いた。
貧乏で、酒飲みで、気に入らないことがあればすぐに子供を殴る両親だった。
それでも彼らはダンをこの世界に結びつけているすべてだった。
そのかすがいが失くなったとき、ダンは一匹の野良犬となった。
他の路上孤児がそうするようなテムズ川のゴミ拾いになどならなかった。
テムズのゴミ拾いは、悲惨な職業だ。幼い子供から老人に至るまであらゆる年齢の者が就くことができる職業ではあるが、テムズの汚泥に塗れ、健康を害されながら、石炭や、古い鉄くず、ロープや銅のなにかを集めるこの仕事は、神経と生命を対価にしてわずかな銅貨に替えるだけの仕事にすぎなかった。
――馬鹿で頑固なアイルランド人。
そういう両親が持っていた根幹は、幼いダンにも受け継がれていたものらしい。両親を失い、他の兄姉が自活の道を探すのを見て、ダンも彼らと同じ道を本能的に選んでいた。
男だったから、娼婦にはなれなかった。
代わりに、ダンはかっぱらい、ひったくり、盗みの類の道を選んだ。
野良犬だった。どうしようもないほどの野良犬だった。
テムズ川のゴミ拾いはまだ人の社会の仕組みにおさまる職業だった。誰もが見捨てた汚泥の中から価値のあるものを拾い上げ、それを金銭に交換する。囃し立てられこそすれ、誰にも非難されることのない仕事だった。
だが、かっぱらいは違う。それはすべての人から非難されるべき生き方だった。
(だから、なんだ)
ヤクザものに腹を蹴り上げられながら、あの日のダンは薄れゆく意識の中で思っていた。
(だから、どうした)
所詮は野良犬だった。馬鹿で貧乏なアイルランド人には他に生きる道もなかった、
金がない。その日食べるものがない。そういう日々の中では子供も働かせねばならない。
だから学校に行く余裕などなかった。読み書きがどういうものかすら、よく知らなかった。
ありとあらゆる場所で盗みを繰り返していた。その日生きるためにの食べ物や金をかっぱらっていた。
そういう所業に目をつけられるのは時間の問題だった。それまでも度々袋叩きに遭ってはいたが、ヤクザもののそれは比べ物にならなかった。
無感動な表情を無理やり浮かべたヤクザものが、こちらの眼窩に指をかけていた。片目を潰す気らしい。
恨むなよ、という言葉とともに指が一気に引き下ろされた。
牡蠣売りの店主が悲鳴を上げた。
鈍くて焼けるような痛みが片目を貫いた。そんな痛みなどはなんともなかったが、自分の身体を傷つけられて、ダンは叫んだ。
「ざけんな、殺してやる、てめえら全員ぶっ殺してやる」
五体満足な身体はまだ幼かったダンが持っていた唯一の財産だった。金もない、学もない、家族もない。そんな十歳のガキが路上で生きるには、逃げ足の速さと素早く動く手と危険に気づける目の良さが必要不可欠だった。
その財産に手を出されたダンは絶叫した。
「殺す、てめえら全員殺して、ゲロ吐かせて、うんこ食わせて、金玉潰して、犬に食わしてやる。ぜってえだ、ぜってえやってやる」
常に喧しい牡蠣街がしんと静まり返っていた。片目を潰されたダンは叫び続けていた。その勢いに周囲の大人たちは気圧されていた。
「……こいつは手に負えねえ。とんでもねえ野良犬だ」
そう、誰かがぼそりとつぶやいたときだった。
その場に似つかわしくない陽気な声が響いた。
「おうおう、威勢のいいこった。どうだい、旦那。このガキの始末、おれに任せちゃくれねえかい」
それが、あの男――〈ゴブリン使いのアイルランド人〉との出会いだった。
ダンは片目に手を当てた。幸いにもあのときの傷は全快してなにも後遺症をのこさなかった。
やたらこちらの心配をしてくる牡蠣売りの店主を振り切って、ダンは自分の部屋に戻っていた。
ベッドの上に寝っ転がって天井を見上げる。低い天井は迫ってくるような圧迫感があった。
薄い壁の向こうからは赤ん坊の泣き声と男と女の怒鳴り声が聞こえてくる。ネズミが這い回るもう一方の壁のほうからは、激しい喘ぎ声が響いてきた。
左隣は八人くらいの一家が住んでいる部屋で、右隣は何人かの中年の娼婦が共有している部屋だった。たぶん客でも取っているのだろう。ガタガタとベッドが揺れている気配が如実に感じられた。
壁を殴る気にもなれない。子供の頃からこんな部屋に暮らしていた。騒音には慣れていた。
ベッドと小さいテーブルを置けばそれだけで足の踏み場がなくなるほど小さな部屋だった。狭すぎるせいで入り口のドアは半開きにしかならない。開く途中でベッドにつっかえてしまうのだ。
イートンの頃にいた中流家庭出身のルームメイトが見たら、この狭さと汚さに驚いて口をあんぐりと開けることだろう。しかし、一人でここを借りて暮らしているダンは非常に豊かで恵まれているほうだった。
イースト・エンドの住宅事情は劣悪だった。昨今のロンドンの人口爆発と土地高騰の煽りを受けて、貧民街の共同住宅の賃貸料も軒並み値上がりしていた。
ベッド貸し、という下宿商売のやり方がある。家や部屋ではなく、ひとつのベッドを週単位で借りるやり方だ。それも一人で使うのではない。夜は自分、昼は夜勤から帰ってきた他の者といったように、見知らぬ他人と共有して使うのだ。
ベッドで寝ることができれば御の字。イースト・エンドとはそういう界隈だった。
赤ん坊の泣き声が一際高く響いて、ダンは苛立った。怒鳴り声や喘ぎ声はまだいいが、ガキの泣き声だけは我慢ならなかった。ベッドに転がったまま左の壁を足で蹴りつけると、泣き声はいっそう大きくなった。それとともになぜか右の喘ぎ声も大きくなった。右の壁を蹴ると、今度は左の泣き声が大きくなった。
「……クソったれめ」
舌打ちして、悪態をついたところでどうにもならなかった。ここはそういう場所だった。
ベッドから起き上がってテーブルの上を見る。
ビリングズゲートの牡蠣街を出たあと、ダンは銀行とカードショップに行っていた。
テーブルには金貨が詰まった袋が無雑作に置かれていた。ぎっしり詰まった袋からは少し中身がこぼれ出ていた。
それは、カードショップでカードを補充してもまだ使い切れないファイトマネーだった。
ダンのデッキは誰にでも作れるゴブリン・ウィニー・デッキだ。供給が豊富なゴブリンとゴブリン用の呪文カードは常に安値で買えるため、資金繰りにはまったく苦労しなかった。
トーナメントにデビューするときに闇金から借りた金もすべて返済し終えていたし、衣食住にも金はたいしてかからなかった。服は古着しか着ないし、食うものは屋台メシで十分だった。
女にも飽きていた。最初の頃は毎日娼館に通っていたが、そんな生活にはたったの一ヶ月で飽きてしまった。ギャンブルのほうも同様だった。
金で買える興奮には限りがあった。
今のダンにとっては、女なんていうのは脂まみれの肉と同じだった。たまに無性に食いたくなることもあるが、普段は見るだけで胸焼けがしてくるものだった。
あとの出費といえば酒と煙草くらいのものだったが、これもたいした金はかからなかった。
ベッドの横に転がっていた安酒を拾い上げてコルク栓を抜いて、口をつけた。ジンの強い酒精が喉を焼いた。
ゲップを漏らしながら、ダンはテーブルの金貨を手ですくい上げた。テーブルに落としてジャラジャラとした音を立てる。
安酒をラッパ飲みしながらそんなことを繰り返した。こんなふうに遊ぶしか、金貨の使い道がなかった。
その気になれば庭付きの一軒家を借りることもわけないのだが、イートンを卒業したあと、なぜかダンはこのイースト・エンドに戻ってきてしまっていた。
その理由は自分にもわからなかったし、深く考えてみたこともなかった。いちいち行動理由や過去を振り返るような、内省的な人間ではなかった。
トロールを倒したのも、ゲロカス野郎を痛めつけたのも、ビリングズゲートでガキを助けたのも、みんな同じようなことだった。ただそうしたいから、そうする。そこにはっきりとした基準があるわけではなかった。
腹が減ったから食う。眠くなったから寝る。噛みつきたくなったから噛みつく。ダンにとっての人生とはそういうものだった。
野良犬だった。自分でもどうしようもないほどの野良犬だった。
金貨で遊んでいると、ジンの瓶が空になった。空の瓶をいまだに続いている赤ん坊の泣き声に向かって投げつけようとしたときだった。
目の前の空間がぐにゃりと歪んで、その中から一匹のインプが出てきた。
「……試合か」
インプが手渡してきた手紙を開くと、そこには次の試合についての内容が書かれていた。
――ダン・ギャラガー対ギルバート・ヘインズ。
日程は今日から二週間後になっていた。
「……」
ダンは無言で〈隻眼のゴブリン〉を召喚した。
手紙を宙に放り投げた。手紙は無軌道な軌跡を描いて、ひらひらと宙を舞った。
そこに三度、白刃のきらめきが走った。
隻眼が手に持った鉈を下ろしたとき、そこにあったのはバラバラに切り裂かれた手紙の姿だった。
ベッドに落ちたそれを無感動な瞳で見ていたダンは、シャツの袖口で口元の酒の滴を拭ってつぶやいた。
「ヘインズか……」
イートン時代、あの男と会話したことは一度しかない。が、その一回が妙に印象に残っている男だった。
「ヘインズか」
酒臭い息を吐きながら、もう一度つぶやいた。
頭の中では先日観た試合の光景が蘇っていた。
あれはなんともいえない……言葉にできない試合だった。観ていて妙に心がざわつく試合だった。
(野郎なら……おれは飛べるのか?)
そういう疑問が、ダンの中にはあった。
――飛べるのか、飛べないのか。
それだけが今のダンにとっての唯一の疑問であり、生きる理由だった。
ふと、あの男の言葉が脳裏をよぎった。
――野良犬だってよう、その気になりゃあ、空を飛べるんだぜ。なにせおれたちは馬鹿で頑固なアイルランド人だからな。アイルランド人は信じれば、空だって飛んじまうのさ!
「あのクソジジイめ……」
手に持った空壜を壁に向かって投げつけたが、瓶は割れなかった。ただゴロンとベッドの上に転がっただけだった。
舌打ちして、ダンは自分もベッドに寝転んだ。
手を頭の後ろで組んで、真っ黒な天井を見上げる。
今日はやけにあのクソジジイのことを思い出す日だった。
ムカついてきた。ジンが胃の中で暴れ回っていた。
忌まわしい過去の記憶が腹の中で暴れまわっているようだった。
牡蠣街でヤクザものからダンを救った男は、〈隻眼のゴブリン〉を操るウィザードだった。
やつとは二年間一緒に暮らしたが、そのあいだやつは一度も自分の本名を名乗らなかった。
街の人間には〈ゴブリン使いのアイルランド人〉と呼ばれていた。なるほど、確かにひと目見ただけでアイルランド人とわかる顔つきのジジイだった。
アイルランド人らしい赤ら顔でジンをラッパ飲みしながら、あの日、ジジイはダンに向かって言った。
「てめえを引き取ったのはよお、てめえが馬鹿で頑固なアイルランド人だからだよ。おれたちには同じ血が流れてんのさ。ヤクザにボコられながら啖呵切るてめえを見て、ピンときたぜ。そうだ、こいつをおれの弟子にしようってな」
そうして拾われてからイートンに入学するまでの二年間、ダンは謎のジジイに〈隻眼のゴブリン〉の使い方を徹底的に仕込まれた。
ジジイが何者だったのかはよく知らない。戦争の英雄だったとか、トーナメントで無敗のチャンピオンだったとか、女王様の護衛兵をしていたとか法螺ばかり吹くジジイだと思っていた。
それが案外ウソではなかったのではないかと思い始めたのは、イートンを卒業して、トーナメントにデビューしてからのことだった。
弱かった。試合で戦う者すべてが弱すぎた。
ジジイのシゴキに比べれば、トーナメントの環境はぬるすぎるものだった。
先程、隻眼を使って切り裂いた手紙を見る。今のダンの実力では三枚におろすので精一杯だったが、あのジジイは同じように〈隻眼のゴブリン〉を使って、紙を宙で十枚におろすことができた。それもベロンベロンに酔っ払った状態で鼻歌交じりにだ。
同じことをできる者がBランク・プレイヤーにもいるかどうか。今のダンには確証が持てなかった。
そんな実力を持った男がなぜロンドンの裏町でくすぶって、ヤクザの用心棒稼業などをしていたのかはさっぱりわからなかった。あの男ならばトーナメントで無双することもできたはずだし、トーナメントでなくとも、ウィザードとしてのその腕を欲しがる職場はどこにでもあったはずだ。
それに、金も学もないダンがイートンに入学できたのはジジイのコネと手ずからの教育によるものだったが、それについてもよくわからないことが多かった。
しかし、今さら本人に問いただしてみることもできなかった。
ジジイはダンがイートンに入学するのと同時に姿を消していた。理由は知れない。街の噂ではヤクザに借金があったとか、実はジジイは元は王宮に勤めていたウィザードで、王室の秘密を知ってしまったことで追われていたのだとか、いい加減な話が流れていた。
実際のところはどうなのか、それははっきりしないが、やつが残していった三つのもののおかげで、ダンが六年間のイートン生活をなんとかまっとうできたのは確かなことだった。
ジジイはまとまった額の金を残してくれていた。そのおかげでダンは授業料を払い、学用品を買い、飯を食うことができた。
二つ目は〈隻眼のゴブリン〉だった。どこにでもありそうなブロンズランクのゴブリンカードだったが、長年ジジイに使い込まれたらしいこのカードは、並のゴブリンが束になっても敵わないほどに強化されていた。
そしてジジイがダンにくれたものの三つ目が、〈隻眼のゴブリン〉を操るマスターとしてのスキルそのものだった。
普通、ウィザードになるための訓練というのは、十三歳になった頃から始めるのが適当だとされている。魂のエネルギーであるマナを十分に練れるようになるには、その年頃が適しているというのが理由だ。
だがダンは他の子供よりも早い時期に、十歳の頃から二年間かけて、マナの練成方法と〈隻眼のゴブリン〉の使い方を仕込まれていた。
まだ成長期を迎えていない身体で訓練を行うのは危険な行為だった。実際、ジジイのシゴキで何度か死にかけたこともあった。
だが、そのおかげでダンのウィザードとしての能力は、イートンでは右に出る者がいないほどに研ぎ澄まされていた。ダンとまともにやり合えるのは〈竜使い〉のトンプソンくらいのものだった。
(だが、あのジジイにはいまだに勝てる気がしねえ)
バラバラになった手紙をもう一度宙に放り上げて、隻眼の鉈で切り裂いてみるが、どう頑張ってみても四枚におろすのが精一杯だった。
あの男が言っていた言葉をもう一度胸の内で繰り返してみる。
――馬鹿で頑固なアイルランド人は空を飛ぶ。
酒を飲みながら、あのクソジジイがよく言っていた台詞だった。
「……くだらねえ」
隻眼をカードに戻して、ダンはベッドの上でゴロンと寝返りをうった。
イートンを卒業したダンにはいくつかの就職先があった。学内での素行が悪く、貧民街の出身ということで色眼鏡で見られることも多々あったが、それでもダンの腕を欲しがるところはいくつかあったのだ。
だがそれらの安定的で高収入の職をすべて断って、ダンはトーナメント・プレイヤーになる道を選んだ。
頭の中にはあのクソジジイの言っていたことがあった。
ジンをガブ飲みしながら、ジジイはよく語っていた。
「おい、ダニー・ボーイよお。トーナメントはいいぞお。おれもいろんなとこで戦ったけどよお、トーナメントの試合は特別だったな。マジでぶっ飛べるんだよ、これが」
おめえもイートンを出たらプレイヤーになれ。そうすりゃ赤毛の野良犬だって空を飛べるぜ――
ジジイのその言葉を真に受けたわけではなかった。
ただダンにとっては他の道など、あってないようなものだった。
イースト・エンド。野良犬。赤毛。アイルランド人。
イートンではどこに行ってもこれらの言葉がついて回った。寮生活、食堂、スポーツ、授業中にすらヒソヒソと聞こえてきた。
――だから、なんだ。
ダンはそう言って、よく同級生たちを殴りつけた。イースト・エンド出身だからなんだというのだ。赤毛のアイルランド人でなにが悪い。
鞭打ちの罰を何度も受けているうちにそういう暴力行為はだんだんと少なくなっていったが、それは反省したからというわけではなかった。
そういうことに思い煩わされるのが面倒になったのだ。
トーナメント・プレイヤーを選んだのもそういう理由からだった。トーナメントは実力の世界だ。強ければ誰も文句は言わないはずだった。
しかし、その考えは間違いだった。それどころか、ダンが勝てば勝つほどに新聞や雑誌のうるさい声は大きくなっていった。
うるさかった。イースト・エンド。野良犬。赤毛。アイルランド人――どの世界に飛び込んでもその言葉がついて回った。
だからなんだというのだ。
ダンは耳を塞ぎたかった。
静かな世界に行きたかった。誰もいない空で自由に飛びたかった。
それができるのは、カードを操っているときだけだった。
あの瞬間――意識を宙に手放し、すべての想念を絶つあの瞬間。
あの無限の時間だけが、野良犬が生きることのできる空だった。
だが、あの自由な時間はいつもあっという間に終わってしまう。
なぜならば弱すぎるのだ、相手が。
トーナメントで今までに戦った相手。タワーで襲ってくるソウル。
そのことごとくがあまりに弱すぎた。
あいつらでは飛べない。かといって、一人ではそもそも飛ぶことができない。
空を飛ぶにはあのヒリヒリと神経が焼き付くような感覚が必要だった。危険によって心臓の鼓動が高まらなければ、野良犬は飛ぶことができなかった。
「……クソジジイめ」
ダンはベッドに寝っ転がったまま、つぶやいた。
なにが空を飛べるだ。あいつは法螺ばかりつく最低野郎だ。
「ぶっ飛べるなんてウソじゃねえか」
あのジジイに教えられたことで空を飛ぶことを知ってしまった。この世界にダンを連れてきたのはあのクソジジイなのだ。
なのに、あの男はダンの手をあっさりと離して、どこかに消えてしまった。
「ざけんな、クソジジイ」
壁を拳で殴りつけた。赤ん坊の泣き声が一層高くなった。
赤ん坊の泣き声はいつまで経ってもやむことがなかった。その音とともに、ダンは壁を殴り続けた。
クソジジイが消えたあのときから――
ダンはいまだ見果てぬ空を求めて彷徨い続けていた。
それだけが野良犬が今も生きている唯一の理由だった。




