第23話 むなしい
「はあ、はあ、はあ……」
全身にびっしょりと汗をかきながら、ダンは肩で息をしていた。
目の前にはくたばったトロールの姿があった。
自分のデッキの残りカード枚数を見る。もうほとんどない。
ダンのデッキはとにかくカードを消耗する、ウィニー・バーンのタイプだ。
マスタースキルだけならば、底辺のBランク・プレイヤーを余裕で上回っているという自負がある。
だがそれでも、マスターのコンロールから外れたクソ雑魚シルバーランク一体を仕留めるためには、手持ちのほとんどすべてを費やすしかなかった。
(シルバーランクのソウルってのは、こんなにやべえのか)
これまでに戦ったどんな相手よりも強力な相手を打ち倒したダンだったが、シャツの袖で汗を拭って思った。
(……だから、どうした)
結局のところ、だから、なんなのだ。
死力を尽くして相手を倒す。そう言ってみれば聞こえはいいが、やっていることはただのカード遊びだ。
確かに今しがたの一戦――シルバーランクのソウルを、ブロンズランクのソウルのみで命懸けで倒すというその挑戦には、夢中になれるものがあった。
しかし、だからなんだというのだ。
夢から醒めてしまえば、やっていることは酷く虚しかった。幾多ものゴブリンを自爆させ、それらを手に入れるためにかかった金を無残に散らし、それで得ることができたのは自慰行為にも似た愚かしい満足感だった。
(くだらねえ)
消えていくトロールの残骸に背を向けて、ダンはゲロカス野郎のもとへと、疲労した足を引きずりながら歩いていった。
「おい、起きろ」
ゴブリンを使って、野郎の頬を左右に叩いた。
ぼんやりと目を覚ましたゲロカス野郎に対して、もう一発ゴブリンのビンタをお見舞いしてやりながら、ダンは告げた。
「持ってるカード、全部出しな」
意味を理解できなかったのか、それとも理解したからこそ拒否の姿勢を示したのか、もぞもぞと芋虫のように身体を動かして逃げようとするゲロカス野郎に、ダンはラグビーボールを蹴るようなキックをかました。
ぐげぇッと口から汚いものを吐く男は、まさにゲロカス野郎だった。
ダンの靴に汚いものがこびりついていた。
「どうするんだよ、これ」
汚れた靴先を眼前に突き出すと、男はえずきながら言った。
「……すい、すいま、せん……お、お願い、許し……」
「んなこたぁ、聞いてねえよ」
今度はゲロカス野郎の顔にラグビーキックをぶち込んだ。前歯が折れて、血で靴が汚れた。
次に腹を蹴ると、少し経って、男はまた吐いた。
大丈夫だ。吐けるものがあるということはまだまだ元気な証拠だ。
(なあに、まだ大丈夫さ。こういう野良犬はきちんと躾けてやらねえと)
ガキの頃、ひったくりの現場を捕らえた大人はそう言って、ダンの腹を蹴り続けていた。
自身の体験からどの程度が命の危険に関わるかということはよくわかっている。ダンは男の顔が土気色になり、口から黄色いものが飛び出すまで、その腹を蹴り続けた。
男が失禁して意識を失ったあと、ダンはゲロまみれのその懐に手を入れて、デッキ・ホルダーを無理やり引きちぎった。
「中身もゲロカスかよ、この野郎」
男のデッキカードはクソみたいなものだった。シルバーランクのソウルカードはあのトロール一体だけだったのだろう。あとは、Cランクでも手に入るようなブロンズの呪文カードしかなかった。これでは消費したカードの金銭的コストにはとても釣り合わない。
腹立ちまぎれに男の腹にもう一発蹴りをぶち込もうとしたときだった。
「そのへんでおやめになってはいかがですかな、ギャラガー様」
「……」
ダンがゆっくりと振り返ると、そこには執事服を着た白髪の男が直立不動の姿勢でいた。
「……てめえは」
「おや、失礼致しました。わたくし、このタワーの案内人を務めさせていただいている者です」
慇懃無礼に頭を下げる男に対して、ダンは静かに口を開いた。
「そいつは、ここに来るときも聞いた……おれが訊きてえのは、なんでてめえがここにいるのかってことと、てめえは何者かってことだよこの野郎」
「これは驚きましたな、そのようなご質問をいただけるとは。そこに倒れていらっしゃる方のように、普通はわたくしの存在を認識することさえできないはずなのですが……やはりギャラガー様は特別なお方のようです」
「……」
「特別なお方には特別なサービスを、というのがわたくしのモットーでございます。そこでわたくしからアドバイスを、ギャラガー様。あなた様が次の試合で戦われるときにはすべてを捧げるべきですな。そうでなくてはあのお方は倒せないと、しがない案内人は愚考する所存にございます」
「おい……」
それはどういう意味だ、と再び問いかけようとした瞬間だった。
目の前が急にボヤけ始めた。
……どうやらマナ切れの症状が来たらしい。シルバーランクをブロンズで無理やり倒した反動はデカかったようだ。
酒に酔ったときのように世界が回る感覚に、ゆっくりとダンは堕ちていった。
目を覚ましたときには、すでに自室のベッドだった。
どうやら昨夜はタワーから戻ってきて、相当に飲んだらしい。
トロールを倒して、ゲロカス野郎のカードを奪い取り、それからタワーを出てホワイト・チャペルに帰って、居酒屋に入ったところまでは覚えているが、それ以降の記憶がまったくない。
二日酔いに痛む頭を抑えながら身体を起こしてみれば、汚く狭い部屋の中、ベッドの端に腰掛けて煙草を吹かす、〈隻眼のゴブリン〉の姿があった。
(この野郎)
差し込む朝日に照らされながら悠々と煙草を吸う一匹のゴブリンに、ダンの腹はむかついた。
〈隻眼のゴブリン〉はダンがガキの頃からずっと使い続けているソウルだった。
他の使い捨て用のゴブリンと違って、こいつは妙なゴブリンだった。
怒り狂うこともなければ、犯し、盗み、食らうというゴブリンの本能に自我を忘れることもない。こちらが十分なマナを供給し、しっかりとした操作さえしてやれば、反抗するようなことは一切なかった。
ゴブリンはマナ・コストが低く、入手難易度も非常に低いことで使い捨てにするには便利なソウルだが、マスターの意思に逆らう個体が非常に多いことが欠点だ。
そのことを思えば、隻眼は便利なゴブリンだったが、唯一こちらを腹立たせることがあるとすれば、それはこちらの意思に関係なく、好きなときに出てくることだった。
普通、ソウルがカードから出現するのにはマスターのマナを必要とするため、マスターの許可がなければ、カードから出てくることはできないはずなのだが、この〈隻眼のゴブリン〉はなぜかダンの意思を無視して、自由自在にカードから出入りすることができるやつだった。
それでなにか、道行く女にイタズラをするとか、どこかの店から金品を盗み出すとか、そういった悪さをしでかすわけではないのだが、こいつの唯一の悪癖である煙草には困ったものだった。
ダンの部屋はイースト・エンドの貧民街、ホワイト・チャペルの一角にある、狭くて汚くて風通しが悪い部屋だ。そんな中で煙草を吸われたのではたまったものではない。あっという間に紫煙が充満して呼吸もできない状態になってしまう。
ダンが睨むと、〈隻眼のゴブリン〉はいつものよくわからない、まるで隠者のような謎めいた表情を浮かべると、するりとカードの中に戻った。あとに残ったのは一筋の煙を上げる煙草だけだった。
ダンは二日酔いでふらつきながら、煙草をテーブルの角に押し付けて火を消した。吸い殻はそのまま板張りの床に落とした。
そんなふうに捨てられた吸い殻が床の上には無数にあった。すべて、〈隻眼のゴブリン〉が勝手に吸って、勝手に放置していったものだ。
(クソったれめ)
水だ。水が欲しい。
クソったれ隻眼ゴブリンに対する悪態をつきながら、ダンは自らの身体が欲するものを求めて部屋の中を歩き回った。
だが二日酔いを癒やしてくれる、新鮮で清潔な水などあるわけがなかった。
ここはイースト・エンド。ロンドンにおける最低最悪の貧民街で、その中でも特に忌まわしいといわれるホワイト・チャペル地区だ。
金持ちの家ならばテムズの上流から引いた水道を持つところもあるが、ここらでは共同の井戸に並んで汚染された水を取ってくるか、路上の呼び売商人から水を買うしかない。それにしたって手に入るのは腹を壊す病気入りの水にすぎないし、それを沸騰して飲めるようにするには燃料が必要で、その燃料代を持たない人のほうがこの界隈では多かった。
人が生きるためには水が必要だが、清潔な水を飲むための金がない。
そういうことを背景にして、コレラや赤痢などの疫病がイースト・エンドでは何度も大流行していた。
ダンの両親もそういう流行り病で、ダンが十歳の頃に死んでいた。
だからというわけでもないが、水だけはきれいなものを飲むように心がけていた。だがしかし、イースト・エンドは砂漠よりも過酷な環境だ。そんなものを手に入れるのは夢物語だった。
そこで目に留まったのが、テーブルの上のジンの瓶だった。まったく記憶にないが、栓は抜かれており、中身は半分ほどに減っている。
アルコール類であるビールやジンならば、水よりもはるかに清潔だ。水よりも腐りにくく、信頼が置ける場合が多い。イースト・エンドでは子供のうちからビールを飲むのも決して珍しいことではなかった。
というわけで、ダンは起き抜けの二日酔いの頭で、ジンを一気飲みした。
げぷっと酒臭い息を漏らして、瓶を投げ捨てる。瓶はテーブルの角に当たって、ゴロリと吸い殻だらけの床の上に転がった。
今日はこれからどうするか。少し迷ったが、ダンはベッドに戻って眠ることよりも、外に出かけることを選んだ。どうせ眠っても、また二日酔いで苦しむだけだ。それなら外に出てまた酒を飲んで、この苦痛を忘れたほうがマシだったし、それに腹が減っていた。
(腹を空かせちゃいけねえよ、ダン坊主。そいつは危険信号だ。プレイヤーなら、腹を空かせちゃいけねえんだ)
不意に脳裏をよぎった男の言葉に、頭を振る。酷い頭痛に思わずうめきそうになった。今日の二日酔いは相当に酷いらしい。
ダンはそこで自分がなにも着ていないことに気づいた。どうやら昨晩は着ているものを全部脱いで眠りについたらしい。
ベッドの端に落ちていたジーンズを拾って、下半身をその中に押し込んだ。デッキカードの他には持ち物といえるものをほとんど持っていないダンだったが、アメリカから渡航してきたという鉱夫から手に入れたこのズボンは気に入っていた。こいつはタフで、履けば履くほど馴染んでいく代物だった。
他の衣服といえば、イートンの卒業のときにもらったウィザードのローブと、古着屋で買った着古しのシャツくらいのものだったが、とにかくこのジーンズだけは気に入っていた。誰かに金を積まれても、こいつを手放す気にはなれない。
と、そこで、妙な言葉が頭をよぎった。
(あなた様が次の試合で戦われるときにはすべてを捧げるべきですな。そうでなくてはあのお方は倒せないと、しがない案内人は愚考する所存にございます)
ダンは二日酔いの頭を振った。ひどい頭痛が襲ってきた。今回の二日酔いは本当にひどい。幻聴まで聞こえる始末だった。
色褪せたジーンズとヨレヨレのシャツを身に着けて、ダンはボサボサの赤毛をかきむしることでシラミを潰しながら、ドアを開けて外出した。
◆フレーバーテキスト
〈ゴブリン偵察兵〉
見つけるのも見つかるのも得意。
〈鈍重トロール〉
知性は力の枷となる。優れたトロール使いほど、愚鈍なトロールを重用する。
〈ゴブリン式暗殺術〉
「カシラ! 暗殺ってどうやるんで?」
「とにかく近づいて、あとはいつものアレだな」
〈ゴブリン式交渉術〉
ドカンッ! ――話はそれからだ。




