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第21話 ノーブレス・オブリージュ

 長かった。ここに至るまで長かった。


 絶頂の快感に激しく全身を痙攣させながら、ギルバートは心中で笑っていた。


 序盤のスタートダッシュ。


 中盤の呪文カードの連発。それでようやく掴んだ千載一遇の好機。


 敵に復活を許してしまったものの、しかし、ドラゴンが暴走したあのときに掴んだチャンスは今もギルバートの手の中にある。


(うふッ、うふッ、うふッ)


 全身を貫く快感にうっとりと身を委ねながら、笑いが込み上げてくるのを必死にこらえる。


 こちらのマナ切れを見て、敵はすっかり油断しているようだった。


(……だけどね、シェリル。回復はなにも君の専売特許ってわけじゃないんだぜ?)


 確かに先程シェリルを襲ったのと同じマナ切れの諸症状が今、ギルバートの身を襲っている。頭痛に、目眩。視界はグルグル、世界はキラキラ。確かにこれは紛れもないマナ切れの発作だ。


 だが、ギルバートが全身を痙攣させているのはそれが理由ではなかった。


 最前から果てしなく続いている解放の悦びに心中で絶叫する。


(やっぱり我慢に我慢を重ねたあとのマナ切れって――最高だッッッ!)


 アンジェラに限界まで搾り取られて、もう一滴たりとも出せなくなったあとにようやく達することができるこの境地。


 阿片、薬物系のアイテムカード。そんな子供騙しの陳腐な玩具では決してたどり着けないこの最高のエクスタシー。


 マナ切れの症状はときに、地獄へと続く階段を転げ落ちていく苦しみとも評されるが、とんでもない。


(これは間違いなく天国へとイク階段だッ!)


 至福の光に包まれるような果てしない快楽。天国の扉をノックするようにビクンッビクンッとやってくる絶頂。


 マナ切れによる地獄の痙攣症状?


 そうではない。


 ギルバートは気持ちよすぎて痙攣していたのだ。


 だが、その天国への階段は徐々に終わりに近づきつつあった。快感の波はだんだん途切れがちになっていた。


 ギルバートは常人よりも回復のスピードが早い。毎日アンジェラにマナを搾精されたことによって身体が慣れ、回復速度が上がっているのだ。だからマナ切れにも慣れているし、だいたいどれくらいの時間でマナ切れから復活して、どれくらいの量のマナが回復するのかも把握している。


 エクスタシーが途切れていくのを感じる。潮が一気に引くようにその波は急激に落ち着き始めている。


 すでにマナの回復が始まっていた。快感はマナ切れがあってこそのものだ。回復が終わったとき、この至福のときもまた同時に終わってしまう。


 だが、それを残念に思いこそすれ、ギルバートは絶望などはしなかった。


 それもそのはずだった。


 頭の中には二度目の絶頂に達するための道筋がすでに明確に描き出されていた。


 それはシェリルのマナ切れによる勝利ではなかった。本番をヤらずにその前段階だけで達してしまうような勝利では、この欲望は満たされなかった。


 敵がなにを勘違いしていたのかは知らないが、〈竜使い〉との試合が決まった瞬間から、ギルバートはずっとそのゴールを目指して走り続けていた。


 そのゴールとはすなわち――


(真っ向からドラゴンを堕とす)


 このことに尽きた。


 その達成による二度目の快感は、難攻不落の峻峰の登頂成功に似たものになるに違いない。


 絶頂に至るまでの入念な準備。何度も諦めたくなった険しい道のり。


 これまでに打ってきた布石のことを思うと、こみ上げる笑いがついに抑えきれなくなった。


(ねえ、シェリル。君はいつから僕のデッキがコントロールタイプだと勘違いしていたんだい?)


 ギルバートもアンジェラも受けは好きだが、攻めるのはもっと大好きだ。特にアンジェラなどは毎晩際限なくギルバートのことを搾り尽くそうとしてくる魔性のソウルだ。


 そんな彼女を最愛の手札にしている以上、ギルバートの本来の戦い方が防御と妨害に主軸を置くコントロール・デッキであるわけがない。


 シェリルはこちらに最後の攻撃を入れるべく呼吸を落ち着けようとしていた。ギルバートは手足が痙攣する振りをして、こっそりとデッキ・ホルダーに手をやった。そして、これまでほとんど使ってこなかった本当のメインカードをドローする準備を整えた。


 心臓の鼓動が激しかった。


 絶頂を前にしたときはいつもこうだ。


 頂点へと向かう道はいつだって苦しい。


 一気に攻めてイキたいのを我慢する辛さ。


 このままで本当に絶頂に達することができるだろうかという不安。


 自分が選んだ道は間違っていたのではないだろうかと後ろを振り返りたくなる疑念。


 予期せぬ敵の行動によって思い描いていたルートがガラガラと崩壊していく恐怖。


 しかし、だからこそ――


 道が険しく、壁が高いからこそ、絶頂を目指して登っていく価値はある。


 いつだって限界を乗り超えてやってきた。自分の限界に挑戦しない日は一日たりともなかった。


 そうして壁を乗り越えたときにはいつも最高のご褒美が待っていた。


 ギルバートは自分の道が間違っていないことを確信する。


 なぜならば、壁とは……限界とは、気持ちよくなるためにあるものだからだ。大きい壁ほど登ったときには気持ちがいいからだ。


 だから、最強のソウルを真っ向から堕とすーー


 ギルバートは、にやりと笑った。


 心臓が馬鹿でかい音を立てていた。


 汗が顎先からポタポタとこぼれ落ちている。


 そのくせ、全身の血液は氷のように冷え切っていて、神経はナイフのように研ぎ澄まされていた。


 周囲の光景や呼吸、そして鼓動までもがゆっくりと、そして明確に感じ取れる。


 そして、こちらと同じようにシェリルの鼓動が一際高く跳ねたときだった。


 ドラゴンを堕とすべく(限界を超えるべく)、ギルバートはカードをドローした。


 これまで何千、何万回と練習し、イメージしてきたように、その動きは流水のように淀みなかった。


 こちらが復活するとは思っていなかったのか、シェリルの顔が驚きに染まっている。


 けれども、その蒼炎のようなマナの勢いはやまない。


 瞬時に、〈赤竜のヴァーミリオン〉の爪による一撃が振り下ろされた。


 一瞬揺らいだシェリルだったが、その顔はいまだ勝利を確信していた。


 だがそれはこちらも同じだった。


 満身創痍のアンジェラだったが、だからこそ、ギルバートと同じように絶頂に向けて興奮していた。


 傷だらけの状態ながらも、すでにアンジェラはスタンバイしていた。敵の弱点を狙い撃つことができる場所に位置取っていた。


 それは〈赤竜のヴァーミリオン〉が暴走状態になったときに見つけることができた唯一の弱点だった。


 腹側の、鱗に覆われていない部分の、尻尾の付け根。


 そこがなぜ弱点なのかはわからない。だがこちらの攻撃がそこをかすめたとき、〈赤竜のヴァーミリオン〉は確かに怯むような素振りを見せた。


(そう……あれはまるで人間の男が急所を狙われたときのような怯み方だった)


 あのときの尋常ではない様子は、ギルバートよりも、アンジェラのほうが敏感に感じ取っていた。


 彼女を信じてここまでの道を歩き続けてきた。だからそれが間違いなく敵の弱点なのだと確信を持つことができた。


 うふッ、とギルバートは笑った。


 うふッ、とアンジェラが笑った。


 そしてシェリルがもう一度揺らぎ、〈赤竜のヴァーミリオン〉がわずかに怯んだその瞬間だった。


 アンジェラの指先からそれ(・・)が放たれた。


 それは初心者から玄人までが好む基礎にして万能の攻撃呪文カード。


 それはギルバートのデッキを構成するメインカードにして、ここまでの道のりを導いてくれたキーカード。


 それは基本にして奥義。


 その名も――


「〈雷火〉あああああああぁぁぁぁぁぁぁッッッ!」


「ッ……ッッッッッッ!」


 これまでの人生で最大級の〈雷火〉が敵の弱点に向かってぶち込まれた。


 クリスタル・パレスの空に巨大な赤い稲妻が疾走った。


 最強のソウルが苦悶の叫び声を上げた。


 シェリルの顔が衝撃で歪んだ。どぎついボディーブローを食らったようにゲロでも吐きそうな顔だった。


 だが、シェリルはトンプソンだった。


 シェリルはあのトンプソン家なのだった。


 〈竜使い〉は吐くどころか、こちらの最大攻撃を食らっているというのに、それでもまだ一撃を放とうとしてきた。


 だが、再びもう一度――


 ギルバート・ヘインズは痙攣しながら、にやりと笑った。


 たった今、ギルバートがドローした〈雷火〉は一枚だけではなかった。


 接戦を経て手に入れた激レアソウルカードの〈沼地の魔女〉。それを有名カードマニア、グレアム・ゴールドマンに売却して得た資金。


 その資金を元手にして、〈徴税〉を買った。〈賄賂〉を買った。〈打ち消し〉もたくさん買った。


 そして、〈雷火〉については死ぬほど買った。


 すべてはこのときのため。


 最強のソウルカードとそれを操る怪物を倒すこのときのために――


 ギルバートとアンジェラはこれまでに積み上げてきたすべてを解放した。


「〈雷火〉〈雷火〉〈雷火〉〈雷火〉〈雷火〉〈雷火〉〈雷火〉〈雷火〉――」


「うぐ……くッッッ!」


 真っ赤な雷光が迸る。


 クリスタル・パレスの蒼穹で紅蓮の稲妻が爆発する。


 赤竜の叫び声が天に轟く。


 こちらの連撃にシェリルが苦しむ、息を漏らす。


 それでもギルバートは止まらない。止まれない。


「うふッうふッうふッうふッうふッうふッうふッうふッうふッうふッうふッうふッうふッうふッッッ! 気持ちいい? ねえ、シェリル! 気持ちいいよねえッ!? 戦うって、気持ちいいンだッ! わかってるよ、君も感じているってことはあああぁぁぁッ!」


「ヴァ、ヴァーミリオ……」


「あっ、あーッ! ダメダメ、ダメッ! 君のターンはもう終わりだってばァッ! 君らはもう十分イッただろう? ここからはずっと僕らがイク番さッ! 〈雷火〉〈雷火〉〈雷火〉〈雷火〉〈雷火〉〈雷火〉〈雷火〉〈雷火〉――」


「や、ィヤッ、くッ……は、はあ……う、グゥッ!」


「誘ってる? 誘ってる? そんな可愛い喘ぎ声! 僕らのことを誘ってる!? それじゃあ出すよ、イッちゃうよおおおおおぉぉぉぉぉッッッ! 〈雷火〉〈雷火〉〈雷火〉〈雷火〉〈雷火〉〈雷火〉〈雷火〉――そしてぇ……ッ、〈雷火〉あああああああぁぁぁぁぁぁぁッッッ!」


 ――それ(・・)とはつまり、攻撃呪文カード〈雷火〉の二十五連撃ッ!


(ドラゴンを堕とすッ! 堕とすッ! 堕としてやるッ!)


 その一点のために、これまでギルバートとアンジェラが死ぬ気で描いてきた魂の軌跡だった。


 それが今、一塊の巨大な爆炎となって叩き込まれていた。


 だが――


 終わらない。


 そんな簡単に終わるようなものではない。


 なぜなら、敵は最強を謳われるソウルカードだった。


 そしてそれを使役するのは、歴史に名を刻み続けてきた一族の末裔だった。


 〈竜使い〉シェリル・トンプソンはこんなものでは終わらない。


 普通のソウルならば跡形も残らず消し飛ぶ攻撃だった。


 ありったけの資金とカードとマナを費やした魂の攻撃だった。


 だというのに、それを食らってもなお、そのソウルは倒れなかった。


 爆炎と硝煙が晴れたとき、そこにいたのは怒りの咆哮を上げる手負いのドラゴンだった。


 追い詰められた手負いの化け物ほど恐ろしいものはない。


 それを証明するかのように、そして序盤の不安や迷いが嘘かのように、シェリルの青い瞳には不屈の闘志が宿っていた。


 ペロリと真っ赤な舌で乾いた唇を舐めて思う。


(うふッ……いい目だ、シェリル。ビンビンしちゃうよ)


 汗でシャツが透けて下着が見える胸元だった。シェリルが大きく息をするたびに、その大きな胸はゆっくりと上下に揺れていた。


 いまだ衰えないその動きを見て、ギルバートの魔術回路はバキバキに励起していた。


 ギルバートは笑った。


(でも、これで終わりだ……シェリル、君の欲望に敬意と感謝を。君のおかげで僕は一皮剥けて、とっても大きくなった)


 まるで大人の階段を登ったような気分だった。


 ギルバートの魔術回路はバキバキビンビンに、これまでより一回りも二回りも大きくなっていた。


 またひとつ限界を超えてしまっていた。これでもっとたくさんのマナを持つことができるようになったし、もっとたくさんのマナをドピュドピュできるようになった。そして、アンジェラでもっと気持ちよくなることができるようになった。


 シェリルを見ているうちにギュンギュンッと下半身に集まってきた最後のマナを、アンジェラの中にドピュッと出す。


(ん……ぁあっ、あっ♡)


 アンジェラの黒い尻尾が大きく固く、そして剛直にそそり立った。


 アンジェラの固有スキル――〈聖なる饗宴〉。


 長らく続いてきたこの饗宴の終わりがギルバートには見えていた。終焉のときは目前だった。


 胸の内に抱えた万感の思いを言葉にするべく、ギルバートは口を開いた。


「シェリル――君とはまたぜひヤりたい。心の底からそう思う」


「なッ、なにを……ッ! まるでもう終わったような……ッ!」


「いいや、もう終わったのさ……アンジェラ、イクよ」


(ええ、マスター……少し寂しいですけれど)


 手負いのドラゴンといえど、弱点にあれほどの攻撃を受けてはタダでは済まない。


 最初の頃とは比べるべくもない鈍い動きだった。


 接近する隙ができていた。


 それはこれまでに積み上げてきたものによって作られた、進むべき道だった。


 アンジェラはその道を辿って敵の懐にスルリと滑り込むことで、その急所にピッタリと張り付いた。


 そして必殺の一撃を、静かに――そして哀しく、挿入した。


 最後の交接はいつだって愛しくて、狂おしい。


 アンジェラの五感を通じて伝わってきたドラゴンの悲鳴は、これまでにないほど激しく、辛く、そして気持ちよかったこの試合の終焉を告げるものだった。


「ウ、ウソだろ……?」


「マジかよ……まさか……」


「ああ、とんでもねえ……そのまさかだ……あのサキュバス……」


「ド、ドラゴンを犯してやがる!」


 クリスタル・パレスの試合会場に設置されたスクリーンに映る光景に、周囲の観客たちは悲鳴を上げていた。


 そしてそれはまたシェリルとヴァーミリオンも同じだった。


 ヴァーミリオンの下腹に抱きつき、自身の黒く大きな尻尾を突き立てて、馬に乗ったような騎乗位で一心不乱に腰を動かすサキュバスだった。


 サキュバスの腰が持ち上がる。ヴァーミリオンの大事な部分が引き抜かれるような感覚とともに、マナがごっそりと搾り取られていく。その凄まじい吸引力に思わず悲鳴を上げそうになった途端、狙ったようにサキュバスの腰がヌプリと落とされ、グオッとヴァーミリオンの息が漏れる。そしてまたサキュバスの腰が持ち上がり、同じことが繰り返される。


 敵のサキュバスはヴァーミリオンの内部を犯している。そしてヴァーミリオンの持つマナをことごとく搾り尽くそうとしている。


(グ、グオオオオオオオォォォォッッッ!)


 魔術回路を通じて聞こえてきた自身のソウルカードの絶叫だった。


 それとともにヴァーミリオンの様々な思いがシェリルの胸に飛び込んでくる。


 中を犯されているこの感覚。


 初めての苦痛。


 万物の頂点に立つべき存在である己に対するこの恥辱。


 そしてなにより耐え難いのが、多大な苦痛に伴ってもたらされる、この大いなる悦びッ!


(オ、オ、オオオオオオオオォォォォッッッ!?)


(ヴァーミリオン!?)


 これまで聞いたことがない種類の咆哮に、シェリルが悲鳴を上げたその瞬間――


(――えっ?)


 ヴァーミリオンに繋げられた手綱がぶちぶちと千切れていく感覚が、シェリルを襲った。


 無理やり引きちぎられるような感じではなかった。それはむしろ、老朽化した革紐が耐えきれなくなって少しずつ裂けていくような感覚だった。


(これは……まさか……)


 どんどん敵に吸収されていくヴァーミリオンのマナだった。それと同時にヴァーミリオンの巨躯が端から少しずつ淡い燐光へと変化し始めていた。


(えっ……ウソ、でしょう……?)


 ジョン・アーヴィング戦で敵が見せたこの特異なスキルは、対象のタフネスを無視して持続ダメージでも与えるスキルかと思っていた。そう思っていたから、最序盤から敵のサキュバスを近づけさせないように警戒していたし、たとえこのスキルを食らってもそれを跳ね返せる手段は用意していた。


 だが今になって、シェリルは自分の想定が甘かったことを知った。敵の得意戦法を持久戦だと勘違いしていたのと同じように、これも油断か、心の弱さか。いずれにせよ、その判断は致命的なものをもたらしていた。


(まさか、このサキュバスのスキルはマナ吸収によって相手のソウルを破壊するの!?)


 そう考えれば、前の一戦でアーヴィングのソウルが破壊されたときの様子にも納得がいった。ドワーフや戦士、ピクシーが破壊されたときの感じは、致命的なダメージを受けた結果というよりはむしろ、その存在を維持するだけのエネルギーがなくなったという感じだった。


(で、でも、それならこちらが相手の吸収量を上回るだけのマナを与えてやれば……ッ)


 そう判断して、即座にマナの供給を強めるが、それはヴァーミリオンが光の粒となって消えていく速度をわずかに遅らせるだけのことだった。


(〈徴税〉や〈賄賂〉はこのための布石……ッ!?)


 全力のときならばいざ知らず、削られてしまった今のシェリルのマナ量では、滅びに堕ちていくヴァーミリオンを救うだけのマナを与えることができなかった。


(ウソ……負ける? ヴァーミリオンを破壊されて、わたしは負ける、の……?)


 すでにヴァーミリオンの巨体の三分の一が燐光に変わって消失していた。それでもまだ満足できぬように息を喘がせて腰を動かすサキュバスに、シェリルは懇願しそうになった。


(いや、やだ、やめて、お願いだから……お願いだから、わたしのヴァーミリオンを奪わないで……ッ!)


 思うだけでは足りず、さりとて、ここから反撃することもできず、ましてやヴァーミリオンを助けるためのマナを与えることもできずに、シェリルが思わず命乞いの言葉を口にしそうになった瞬間だった。


 ヴァーミリオンの咆哮がクリスタル・パレスの蒼天に轟いた。


 すでに〈赤竜のヴァーミリオン〉の滅びの運命は確定していた。


 ここから挽回する術はなく、その身体は半ば消え失せ、されど敵は健在。


 その竜の魂は堕ちて、異界に戻るのを待つだけの存在だった。


 しかし、その咆哮は天を揺るがし、地にまで届き、クリスタル・パレスの天井をビリビリと震わせた。


 あまりの轟音に周囲の観客や審判、他のプレイヤーが一斉に恐れおののき、騒ぎ出した。


 だがそんな周囲の狂騒はシェリルには届かなかった。


 彼女に届けられたのは魂の半身たる竜の言葉だけだった。


 それは言語によらぬ言葉だった。言語という枠組みには収まりきらない〈赤竜のヴァーミリオン〉たるドラゴンの思いだった。


 シェリルだけが理解できたその言葉には、それまでのすべてが込められていた。


 その咆哮によって、シェリルは自身がすべきこと、自身のあるべき姿を理解した。


(そうだわ、わたしは負ける……愛すべきソウルを失って、これ以上はないほど無様に負ける〈イートンの女王様〉……でも、そうじゃない。わたしは〈竜使い〉トンプソン家の末裔……シェリル・トンプソンなんだわ)


 重ねてきた失敗。


 晒してしまった醜態。


 そして、自分のせいで最強にして最愛のソウルを失ってしまうという絶望。


 それらを抱えてなお、シェリルはこの道を歩まねばならなかったし、そしてなにより自分自身がそうしたかった。


 マナを奪われ、苦痛と屈辱に塗れながらも、これ以上はないほど力強く、雄々しいヴァーミリオンの咆哮だった。


 その気高さに、大好きだった父の背中をふと思い出した。


(ノーブレス・オブリージュだよ、シェリル。力には責任が伴うんだ。トンプソン家の者はそれを背負っていかなければならないんだ……)


 父の言葉の一端がようやくわかったような気がした。


 再び襲ってきたマナ切れの症状。


 そして、クリスタル・パレスの蒼穹に消えていくヴァーミリオンの存在。


 想像を絶するほどの苦しみと哀しみがシェリルを襲うが、しかし、それでも降参を宣言することはしなかった。


 なぜなら、シェリルはこの世でもっとも強いソウルを使役する〈竜使い〉だったからだ。


 いっそ気を失ったほうが楽なほどの苦しみに耐え、自分が吐いた吐瀉物にまみれながら、それでもシェリルはしゃんと背筋を伸ばして……哀しみに背中を震わせながら最期のときを待った。


 そしてやがて、ヴァーミリオンの身体が燐光となって完全に消え失せたとき、シェリルの手にあった〈赤竜のヴァーミリオン〉のカードは粉々に砕け散った。


 そして、そのときになってようやく――


 シェリルは自身の魂を失った哀しみを一筋、その青い瞳からこぼれ落とした。


(ありがとう、ヴァーミリオン……わたしの初めてのドラゴン)


 大切な思いは言葉にできない。


 代わりにヴァーミリオンがしたように、シェリルは自らの思いを静かな嗚咽として吐き出したのだった。

◆フレーバーテキスト


〈原始の雄叫び〉

暴虐の根源にして、人々の恐怖の源泉。


〈大地の恵み〉

「でっかくなれよ、でっかくなれよ、食って食らって、でっかくなれよ――さもなきゃその首ちょん切るぞ」

――メリディフォークの麦まき唄。


〈徴税〉

「支払うのはあんたの義務で、楽しむのはおれの権利だ」

――港町パッツィオの徴税吏。


〈賄賂〉

「あの、これで本当に夫を助けてもらえるんですか……?」

――狙われた人妻魔女。


〈防壁〉

守るべきものを守る。ただそれだけのために存在しているもの。


〈回復の光〉

それは肉体の傷や病だけでなく、魂までも癒やす万能の光。


〈赤竜山脈の怒り〉

赤竜の怒りはドワーフだけでなく、あらゆる種族に対して降り注いだ。それは天災とほとんど変わることがなかった。

ただ嵐や地震や噴火よりも酷かったのは、それがすべての種族を滅ぼすまで続いたという点だった。


〈赤竜のヴァーミリオン〉

その竜の息吹はドワーフたちの住処を地獄に変えたが、真にドワーフたちを絶望させたのはその竜がまだ雛だという事実だった。

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