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第19話 〈竜使い〉の魂

(またヌルヌルと動いて……ッ! どうして仕留めきれないの……ッ!?)


 あと一歩というところで、いつもこちらの息吹や牙からぬるりと逃げられてしまう。まるで石鹸の泡で滑るようなサキュバスの動きだった。


 試合開始からそろそろ一時間が経過しようとしていた。


 いつまで経っても捕まえることができない獲物を前にして、シェリルは消耗し、その思考は千々に乱れ始めていた。


 ――きつい。


 マナ切れが近づいて、だんだん〈赤竜のヴァーミリオン〉を制御できなくなっている。勝手に暴れられると、マナのペース配分ができなくなるし、大雑把な動きによって敵に隙を晒してしまうことになる。


 ――辛い。


 プレッシャーに押し潰されそうだ。焦る心に操作が乱れそうだ。誰もシェリルに勝って欲しいなんて思っていない。応援してくれる人なんて誰一人いやしない。


 学生時代の友人はみんな就職するか、結婚するかしてしまっていた。いや、そもそも彼女たちは友人だったのだろうか。会話する知り合いはたくさんいたが、心の内を打ち明けられる友人なんて一人もいなかった。〈イートンの女王様〉? いったい誰がそんなあだ名をつけたのだろう。こんなに弱くて、みじめで、ただ吐き気をこらえているだけの自分が女王様だなんて笑えない冗談だ。


 ――うるさい。


 周囲の観客の下品な野次が耳に突き刺さってくる。そのほとんどがシェリルには理解できない俗語ばかりだったが、劣勢のシェリルを嘲笑って囃し立てていることはわかった。娼婦、という単語が聞こえてきた。


 ――違う。


 首を激しく振って否定する。娼婦なんかじゃない。わたしは〈竜使い〉トンプソン家の末裔、シェリル・トンプソン。断じて娼婦なんかじゃない。


 ――でも、本当にそうなの?


 自問する。〈竜使い〉は竜を制御できてこその称号だ。だが、ヴァーミリオンは手綱を振り切って滅茶苦茶に暴走しようとしていた。抑えきれない。この圧倒的な出力を抑えきることができない。


 シェリルは声には出さずに叫んだ。


(どうして言うことを聞いてくれないの……ッ!? 強くならなければいけないの、勝たなければならないの……ッ! だからお願い、わたしに力を貸して!)


 ――だが。


 そんなシェリルを嘲笑うかのような咆哮が魔術回路を通して聞こえてきた。暴虐の化身たる〈赤竜のヴァーミリオン〉の咆哮だった。


 そして次の瞬間だった……手綱が、千切れた。


 圧倒的な力によって、シェリルのマナがどんどん奪い取られていく。痛い、ダメ、お願い、やめて。そんな懇願も虚しく、〈赤竜のヴァーミリオン〉は己の欲望のままにシェリルのすべてを喰らい尽くそうとしていた。


 ――吐いてはいけませんよ。


 医者の言葉が蘇ったときにはもう遅かった。


 シェリルはラズベリーで赤紫色に染まったゲロを激しくぶちまけていた。えずく、苦しい、止まらない。周囲の野次と爆笑が聞こえてくる。娼婦が吐いた! 娼婦が吐いた! 娼婦が吐いた!


(もうイヤだ……もうやめたい)


 今や〈赤竜のヴァーミリオン〉はシェリルのコントロールを離れて、暴走を始めていた。こうなったらもう止まらない。ヴァーミリオンはシェリルのすべてを喰らい尽くすまで止まらない。


 吐瀉物で汚れたズボンの上に涙が一粒、ポツリと落ちた。


 やはり自分には〈竜使い〉の資格なんかなかった。いったん暴走を始めたら、ヴァーミリオンは自分の言うことなんて聞きやしない。


 赤紫色に広がる吐瀉物の上にまたひとつ、涙がこぼれた。


 人前で吐いてしまった。娼婦と呼ばれて笑われて……小さな女の子のように泣いてしまった。


 髪を短くして、男物のズボンを穿いて、孤独に戦い続けてきた結果がこれだった。みじめだった。苦しかった。楽しいことなんて、なにひとつなかった。


 そしてなにより、これ以上みじめな思いをしてまで戦い続ける意味がシェリルにはわからなかった。


(やっぱり間違っていた。この道を選んだことは間違いだった)


 すべてを犠牲にして歩んできた道だった。普通の女の子がするようなお人形遊びやお絵かき。普通の学生がするようなお洒落や恋愛。普通の女性がするようなダンスパーティーやディナー。それらすべてに背中を向けて進んできた道だった。


 どうしてこんな道を歩もうと思ってしまったのか。


 なぜ強くならなければならなかったのか。


(それがもうわたしにはわからない……)


 だんだん意識が薄くなりつつあった。もうマナがほとんどない。ラズベリー……ラズベリーを食べなければ。ああ、でも、もうその必要はないのか。もう自分の負けだ。これ以上戦う必要はないのだ。


 だけど、最後に……。


 最後にこれだけは知りたい。どうして普通の女の子になる道を捨ててまで強くならなければならなかったのか……。


 ――その答えを知りたい。


 そう思って、薄れていく意識の中で、シェリルが答えを求めて手を伸ばしたときだった。


 その男の絶叫が耳に届いてきた。


「……クッ! イク……ッ! イッてしまう……ッ! ちっくしょう! ドラゴンってすごすぎるよぉ……ッ!」


「……?」


 真っ白な視界の中に光が瞬いていた。自分はもしかして幻覚でも見ているのだろうか。だがその光はどこか美しく、そして生々しかった。


 その正体を知りたくて、遠のいていく意識を懸命に掴んで取り戻した。


 シェリルは閉じかけていた瞼をゆっくりと開いた。


(これは……マナ?)


 光に見えていたものは目の前を飛び散るマナの燐光だった。誰のマナだろうか。自分はもう一滴も出ないほど涸れているはずなのだが。


 シェリルはうつむけていた顔をゆっくりと持ち上げ……そして気づいた。


 目の前でギルバート・ヘインズが歯を食いしばり、顔を真っ赤にして、白濁したマナを噴水のように撒き散らしながら、まだ戦っていることに。


「アンジェラ、イクよッ、イクよッ! あッ、ちっくしょう! またイケなかったッ!」


 息も切れ切れにそう叫ぶギルバートの顔は見るからに苦しげで、下品で、みっともなくて……そしてものすごく気持ちよさそうだった。


(気持ちいい……? どういうこと?)


 気を失いかけていたシェリルだったが、その意識にはなぜかまた火が灯り始めていた。


 シェリルはノロノロと身体を起こして、目の前で唸るギルバートのことを見た。


 すごい汗の量だった。身体中の水分が汗に変わってしまったかのようだった。汗が蒸気になっているのか、マナが放出されているのか。その区別がつかないほど濃密な白いものがギルバートの全身を包んでいた。歯を食いしばって唸るギルバートの首筋には血管と筋肉が盛り上がっている。すごい力だ。体力を限界まで搾り尽くして苦しい思いをしているのが、ひと目見ただけでわかる。


(なのに、どうして……どうしてあなたはそんなにも気持ちよさそうなの……ッ!?)


 ギルバートの顔はまるで快感を感じているかのようだった。その表情はこのうえない至福を味わっているかのようだった。


 ギルバートの口が恍惚としたように開いた。


「ああ、いいッ! すごくいい……ッ! 戦うことって……気持ちいいッッッ!」


「……ッ!」


 ――火傷しそうなほど熱いその言葉に。


 唐突に、遠い日の記憶が蘇ってきた。


 それは初めて父にドラゴンを見せてもらった、在りし日の思い出だった。


 大きかった。強かった。そしてなによりも……美しかった。


 大地と空を駆けるその雄大さに憧れた。大きく運動するその骨格と筋肉に圧倒された。精密なタイル細工のようにどこまでも続いていく鱗の連なりに目を奪われた。そして巨大な口から吐かれる劫火の凄まじさに恐ろしさを覚え……そしてこの力を自分のものにしてみたいと思ってしまった。


 あまりにも美しく大きな聖堂を見て信仰に目覚めたかのようだった。


 そうだ。あの日、あのとき、あの場所で……シェリルは確かに天啓に打たれたのだった。


 ――お父様! わたしもなりたい! 〈竜使い〉にわたしもなりたい!


 そうだった。そう父に告げたあのときから確かにシェリルのこの道は始まったのだった。


 それが、父が亡くなり、導いてくれる人がいなくなったことで、いつしか大事な出発点のことを忘れてしまっていた。


 大好きだった父を失った哀しみ。母と弟を支えてトンプソン家を守っていかなければならない責務。


 〈竜使い〉の末裔として恥ずかしくない振る舞いを心がけるほどに、トンプソンの名前はシェリルにのしかかってきた。


 ――さすがは〈竜使い〉の末裔、トンプソン家! あなたはまるで〈イートンの女王様〉ね!


 期待されれば期待されるほど、成功すれば成功するほど、シェリルを妬み、その失敗を望む者は増えていった。


 だがシェリルは負けるわけにはいかなかった。一度でも負けてしまえば、再起不能なまでに叩かれることは目に見えていた。


 そうなれば、トンプソンの名を、そして大好きだった父との思い出を汚すことになる。


 だから、シェリルは強くならなければならなかったのだ。


(でもわたしはいつのまにか大切なことを見失ってしまっていた)


 初めてドラゴンを見た日のことを思い出す。


 初めてドラゴンを召喚して使役した日のこと。


 そして初めてドラゴンで敵を倒した日のことを思い出して、シェリルは不意に自分の気持ちの在り処に気づいた。


(そうだわ……わたしは好きだったんだ……大好きなドラゴンと一緒に戦うことが好きだったんだ……)


 ようやく、気づいた。


 普通の女の子がするようなお人形遊びやお絵かき。普通の学生がするようなお洒落や恋愛。普通の女性がするようなダンスパーティーやディナー。


 それらすべてを捨ててまで、どうしてこの道を歩んできたのか。


 口元からポタポタと垂れる吐瀉物を手の甲で拭う。


 足に力を込めて、ぐっと身体を起こす。


 周囲の観客のざわめきが聞こえてくる。


「おい、娼婦が起きたぞ。ゲロまみれの娼婦が復活したぞ」


 シェリルは思った。


(うるさい)


 ゲロがなんだ。吐くのがなんだ。


 生きていれば、戦っていれば、ゲロくらい誰だって吐くのだ。


 シェリルはもう泣かなかった。大切なものをようやく思い出していた。


(誰になんて言われようと、わたしはこの道を行く)


 なぜならば――自分がそうしたいからだ。


 父の誇りを受け継ぎたいという思いがある。〈竜使い〉の二つ名を自分のものにしたいという気持ちも、普通の女の子になれなくて申し訳ないという母に対する思いもある。


 だけどそれ以上に、自分は好きなのだ。ドラゴンと一緒に戦うことが好きなのだ。


(ありがとう、ギルバート。わたしはあなたのおかげで大切なものを思い出すことができた)


 だが彼に対する感謝は一瞬だった。


 それもそのはずだった。


 かつての級友ギルバート・ヘインズは、〈サキュバス狂い〉。


 自分と同じように、彼はソウルに心を奪われて、この道に足を踏み入れたプレイヤーだった。


 シェリルは疲れた顔にうっすらと微笑みを浮かべた。学生時代、なんとなく彼にシンパシーを感じていた理由がようやくわかった。


(だけど、ギルバート。わたしたちの進むこの道は間違っていない。そうでしょう?)


 シェリルはバスケットからラズベリーをまとめて掴み取った。一気に口の中に詰め込んで貪り食った。


 吐き気などなかった。シェリルはお腹が空いていた。


 胃に栄養を送り込みながら、ほとんど千切れかけていた魔術回路を再び励起させる。


 青い炎がシェリルの腕から全身に走った。


 蒼炎のようなマナを全身に纏いながら、シェリルは〈赤竜のヴァーミリオン〉の手綱を再び握った。


(わたしの言うことを聞きなさい、ヴァーミリオン。このままではわたしたちは勝てないわ)


 紅い劫火が巨大な顎門から吐き出された。どうやらそれが返答のつもりらしい。翼をはためかせて、こちらの手綱をまた引きちぎろうとするヴァーミリオンに対して、しかし、シェリルは容赦しなかった。


 魔術回路に自らの蒼炎を真っ直ぐに送り込む。送り込む先は〈赤竜のヴァーミリオン〉の中心部、大岩のような心臓部分だった。


 苦痛の咆哮が上がった。空中で激しくのたうち回るヴァーミリオンはシェリルの仕置きによって激しく苦しんでいた。だがそれでもシェリルは容赦しなかった。躾の悪い競走馬を調教するようにヴァーミリオンを乗りこなしにかかった。


 敵のサキュバスがやってくる。手綱で右を向かせようとしたら、左を向いた。蒼炎のマナで臓腑を焼いた。


 〈雷火〉が撃たれた。受ける必要はない。回避だ。だが拒否された。胃袋を焼いてやった。


(わたしは強くなりたいの、勝ちたいの。だからわたしの言うことを聞きなさい、ヴァーミリオン)


 ――だってそうでしょう?


 ドラゴン(あなたたち)に憧れた。あなたの力を自分のものに……いいえ、大好きだったお父様と同じように、わたしはあなたと一体になりたいと思った。


 それがすべての原風景にして、すべての出発点。


 わたしという魂の物語はあそこから始まった。


 それを覚えている。たとえこの身体が滅ぶことがあろうとも、それだけはもう一生忘れない。


 この宝物を胸に、わたしは進むべき道をこれからも歩んでいく。


 だからわたしの言うことを聞きなさい、ヴァーミリオン。


 ――あなたはわたしの(ソウルカード)なんだから。


 その思いがヴァーミリオンの内側を焼き尽くしたときだった。


 ヴァーミリオンが急に大人しくなった。この感覚は前にも覚えがあった。


 暴虐の化身は〈竜使い〉の手綱によって跪くような姿勢を取っていた。服従のポーズ。万物の王たるドラゴンが上位者と認めた相手にとる姿勢だった。


(……さあ、ここからね)


 最強のソウルの力を再び手中におさめたことにふっと微笑みつつ、〈竜使い〉は強大な竜の顎門を敵のほうに向けたのだった。

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