第18話 進むべき道
クリスタル・パレスの試合会場で、ギルバートは今日の対戦相手を待ちながら自分の顔を両手で覆っていた。
(やばいよやばいよ……今日の相手はさすがにやばいよ)
顔がにやついてしまうのを抑えきれない。それを隠すためには手で覆うしかない。
だがそうすると、ああ、なんていうことだろう。今度は下半身の疼きを鎮めることができない。
ラウンド・テーブルの陰に昂ぶる下半身を隠しながら、ギルバートはひたすら顔のにやつきをこらえていた。
(ああ、シェリル、シェリル・トンプソン!)
顔のにやつきを必死にこらえ、恐怖に震える身体を両腕で抱きしめながら、ギルバートは心中でつぶやく。
(君はあの〈竜使い〉トンプソン家の末裔だ。イートンの頃、誰よりも強く、賢く、美しい君に誰もが夢中だった。ああ、君が二年生のときに喚び出したあの〈赤竜のヴァーミリオン〉のことはよく覚えているとも。トーナメントに君がデビューしてからも、僕が絶えず君の姿を追っていたことを、君は知っているかい?)
以前に見た彼女の試合にぞくりと背筋を震わせて、ギルバートは歓喜し、欲情する。
(あの圧倒的な暴力。歯向かう者をことごとくなぎ倒すあの力……君は間違いなく〈竜使い〉トンプソン家の末裔だ)
普通のウィザードならば召喚することすらかなわないドラゴンのソウルを場に出し続けることができる膨大なマナ保有量。しかもそれを制御し、適切なタイミングで相手に最大火力を叩き込むことができるあの技術。そしてなによりも、ウサギを狩るのにも全力を尽くす、王者としての精神力。
ギルバートは確信していた。今日の相手がこれまでの中で最大最強の敵であることを。
ブルブルと身体が震え出した。武者震いなどという格好のいいものではない。それは恐怖だった。
(もしかしたら今日、僕はアンジェラを失うことになるかもしれない)
ウィザード・トーナメントにおいて勝敗が決定する条件は、一方が戦闘不能になるか降参を宣言することだけだ。
先日のジョン・アーヴィングのように体力、精神ともに追い込まれてしまえば降参を宣言することはできない。場からソウルカードを全部引き上げることで戦闘継続不可能の意思を示すこともできるが、敵に囲まれてしまえば自分のソウルを手札に戻すこともできない。ソウルをカードの中に戻してやるには、特殊な条件を除けば、ごく近い距離までカードに近づける必要があるのだ。クリスタル・パレスの上空から自分が座っているラウンド・テーブルまでソウルを無事に帰還させることができず、パートナーを失ってしまうプレイヤーは決して少なくなかった。
テーブルの上に両肘をついて頭を抱え込む。そして目を閉じる。
シェリルが操る〈赤竜のヴァーミリオン〉はパワーとタフネスにおいて圧倒的な能力値を持つ恐るべきソウルだ。
その強靭な鱗の上からダメージを与えることはブロンズカードのソウルではまず不可能。あれと真正面からまともにやり合えるとしたらシルバーカード以上の近接戦に優れたソウルだけだろう。
そして体長十メートルにも及ぶあの巨大な体躯。大きい、というのはそれだけで脅威だ。攻撃範囲が広く、振るう力も大きくなる。大きく鋭利なあの爪が少しでもかすめれば、アンジェラの身体などやすやすと引き裂かれてしまうだろう。
しかもそれだけではなかった。
加えて、シェリル・トンプソンのデッキには強化呪文カードがあった。
〈原始の雄叫び〉〈大地の恵み〉に代表される瞬間強化のパンプアップ系呪文。
それらが〈赤竜のヴァーミリオン〉にかけられたとき、シェリル・トンプソンのデッキは、あらゆるものを蹂躙するドラゴン・ストンピィデッキと化す。
あの獰猛な暴力を前にしてはたしてギルバートは、そしてアンジェラは生き延びることができるのだろうか。
――アンジェラを失う。
そのことを考えると、身体の震えが止まらなかった。
ギルバートは彼女を愛していた。
深く、愛していた。
彼女に出会うまで、ギルバートは愛というものを知らなかった。自分が乾いていたことすら知らなかった。
無人島で一人きりで育った者が他の人間がこの世に存在することを知らないように、真に孤独な者は自分が孤独であることにすら気がつかない。人は誰かを求め、誰かに求められるものだということを、ギルバートはアンジェラに出会うまで知らなかったのだ。
だから彼女を失うことなど考えられない。彼女のいない人生などもう考えられない。
――それなのに。
(ちくしょう……どうして僕は励起しているんだよ……ッ)
ギルバートの魔術回路はすでに固く大きく励起していた。
目の前に人が座る気配がした。ギルバートは目を開けて、独り言のようにつぶやいた。
「……ねえ、どうしてだと思う。どうして僕らは戦うんだろう」
目の前の人物からの返事はなかった。
「他の道もあったはずなんだ。平和に、危険を犯すことなく、穏やかに二人で生きていく方法もあったはずなんだよ。でも――」
ギルバートは顔をあげて、しっかりと相手の目を見た。
「僕は彼女とともに歩むこの道が間違っていないと確信している――君はどうだい、シェリル?」
こちらの問いかけに対して、〈竜使い〉シェリル・トンプソンの青い瞳はわずかに揺らいだのだった。
(この選択肢は――この戦い方は間違っていない)
シェリル・トンプソンは荒い息をつきながら、必死に自分に言い聞かせていた。
試合開始からすでに数十分が経過していた。
試合は泥沼の様相を呈していた。
パワーとタフネスに圧倒的な優位を持つシェリルのヴァーミリオン。
それらにおいては劣勢でありつつも、回避力というその一点だけにおいては凄まじいまでのキレを見せるギルバートのサキュバス。
試合はヴァーミリオンが攻め立て、サキュバスが避け続けるという構図になっていたのだが……。
(……ここッ!)
敵のサキュバスの動きがわずかに切れたその瞬間を見逃さなかった。
勝手に暴れ回ろうとする〈赤竜のヴァーミリオン〉の手綱を強く引き絞って、頭の向きを無理やり変える。最高のタイミングだった。俊敏に動き回っていたサキュバスが赤竜の顎門に自分から飛び込んできた。
――逃さない。
シェリルは手札からフィニッシュのためのカードを切った。
〈大地の恵み〉――対象のソウルの身体を巨大化し、タフネスをメインに能力値を引き上げる瞬間強化カードだ。
これを使用すればヴァーミリオンの身体は一瞬で巨大化し、その顎門はクジラさえ飲み込めそうなほどに大きくなる。矮小なサキュバスなどひとたまりもない。
――だが。
目の前に座る男も同じタイミングで二枚のカードを発動していた。
(またなの……ッ!?)
〈徴税〉――相手が呪文カードを使用する、もしくはソウルのスキルを使用する際に、追加でマナを消費させる。
〈賄賂〉――相手が呪文カードを使用する際に、追加でマナを消費しなければ、その呪文カードの効果を弱体化させる。
どちらもこちらにマナを浪費させるカウンター系の呪文カードだ。
それらの呪文カードによって、シェリルの体内からごっそりマナが奪われていく。
一瞬、軽い目眩がした。
だがここで身体から抜けていくマナを取り戻そうとしてしてしまえば、敵の術中にはまってしまう。
歯を食いしばってマナをくれてやることで、〈大地の恵み〉は通常通りに発動した。
だが敵の妨害のせいで、ヴァーミリオンの顎門を閉じるタイミングがわずかに遅れた。
(逃した……ッ!)
髪の毛一本の差で敵のサキュバスはこちらの攻撃を回避した。もうこれでいったい何度目になるのだろうか。試合が開始されたときからずっと続いてきた一瞬の攻防だった。
シェリルはかつての級友ギルバート・ヘインズのテクニックと集中力に唇を噛んだ。
(なんていう人なの……百発百中でカウンターカードを合わせてくるなんて……ッ! それもこちらが絶対に決めたいタイミングばかりッ!)
そもそも〈打ち消し〉や〈徴税〉のような、敵の呪文をキャンセルしたり行動を妨害するカウンター系の呪文は発動するタイミングが非常に難しいカードだ。
敵が魔術回路を励起させて、カードにマナを注ぎ込んで、カードの効果を発動させる。
そのすべての流れを正確に見極めて、ここぞというタイミングでカウンターを打ち込まなければ、それは不発に終わってしまう。
だがギルバートはそれを百発百中で的中させるだけではない。こちらがフィニッシュを決めたいタイミングを見極め、それに合わせて自分のソウルを動かしてくる技術まで持っている。
(こんなのほとんど化け物じゃない……ッ!)
シェリルの身体は悲鳴を上げていた。
敵の技術の高さによって、試合開始から数十分経過しても、シェリルはサキュバスを仕留めきれずにいた。相手も相当なマナと体力を消耗しているはずなのに、その動きは一向に衰えないばかりか、ますますキレがましていた。
一方で、シェリルのマナは少しずつ限界に近づいてきていた。
〈赤竜のヴァーミリオン〉を召喚した際に支払ったコストと場に出し続けるための維持コスト。そして強力な強化呪文を連発したことによる消費と、敵の呪文カードによって強いられた無駄な消耗。
(……まずい)
また吐き気が襲ってきた。今日で四回目の吐き気だ。襲ってくる間隔がだんだん短くなっている。
喉の筋肉を緊張させて、無理やりえずきを抑えこむ。
嘔吐感を力ずくで押し戻すと、シェリルは自分たちのはるか上空で行われている戦いに意識を集中しつつ、ラウンド・テーブルの脇に置かれているバスケットからラズベリーをまとめて鷲掴みにした。
手元を見ないで一気に口の中に放り込む。柔らかな果肉を歯で粉砕し、溢れ出た果汁とともに一気に喉の奥へと流し込む。また一瞬吐きそうになったが、これは自分の身体だ。自分の身体もコントロールできない者が、〈竜使い〉になんてなれるわけがない。
飲み込んだ。無理やり飲み込んだ。
口の端についた紫色の果汁を手の甲で乱暴に拭いながら、シェリルはギルバートのシルバーブルーの瞳に視線を合わせた。
彼のデッキタイプは長期戦型のサキュバス・コントロールで、自分のデッキは短期決戦型のドラゴン・ストンピィだ。
事前にほぼ予想がついていた展開ではあったが、この試合は、シェリルのマナが切れるか、それよりも先にサキュバスを仕留めきれるかという勝敗になるだろう。
(……わたしはあなたのような化け物を乗り越えて、強くならなければならない)
シェリルは眦に力を込めて、しっかりと相手の目を見た。
――だが。
ギルバート・ヘインズの瞳に映る濁った泥沼のような暗闇に、シェリルの青い瞳はまたわずかに揺れた。
――この戦い方が、この道が、本当に正しいのかどうか。
その不安がいまだ心中から取り除けないシェリルだった。
――一方。
ギルバートは驚嘆していた。
(信じられない……ッ! 普通ならドラゴンは召喚することすらできないほどのマナ・コストだぞ! それなのにドラゴンをブンブン振り回すだけじゃなくて、そこにバンバン瞬間強化をぶち込んでくるなんて……いったいどれだけのマナを持っているっていうんだ! 脳みそまでマナでできているんじゃないか、この怪物はッ!)
敵の馬鹿げたマナ保有量に舌を巻く。自分もかなり鍛えているつもりだったが、シェリル・トンプソンはそれ以上だった。
(いったいどれくらいのあいだ鍛えてきたんだろう)
アンジェラを支援するカードを発動しながら、目の前の女性がここに至るまでに積み上げてきた年月を想う。
自分が本格的にトレーニングを始めたのはアンジェラと出会った十四歳のとき。以来五年間、一日たりとも休まずにアンジェラにマナ供給を行ってきたが、目の前に座る彼女はいったいいつから訓練を始めたのだろうか。
イートンに入学した十三歳のときから? それとも入学前から? ひょっとして言葉を話せるようになったときにはもうすでに……?
いずれにせよ、彼女の莫大なマナとそれをコントロールする驚異的な技術は、彼女がこれまでに積み上げてきた膨大な年月を思わせるものだった。
シェリルの過去についてはよく知らない。
シェリルとは学生時代の行事のときに係の仕事などで付き合いがあったが、その関係は社交辞令的な上辺だけのものだった。話す内容といえば、当たり障りのない学校行事や授業のことくらいで、お互いの家庭や将来の進路について触れるようなことは一切なかった。同類のシンパシーとでもいうべきか、お互いにそういったことには触れられたくない心の壁を敏感に感じ取っていた。
だからギルバートは彼女のことはほとんど何も知らない。歴史の教科書にも載っているくらい有名な伯爵家出身ということで大変な思いをしているのだろうなと想像はついたが、〈竜使い〉の末裔たるシェリル・トンプソンはいつだって、落ち着いた立ち居振る舞いと快活な笑みで人の上に立ってみんなを導く〈イートンの女王様〉だった。
彼女がどんなことを思って考えているかについてはまったくわからなかった。誰にでも手を差し伸ばす優しい気遣いがあり、どんな人とも付き合う明るい性格をしていたが、自分の内面を見せるタイプの人ではなかった。実際、彼女がトーナメント・プレイヤーになるなんていうことは卒業の直前まで誰も知らなかったのだ。
だからギルバートにとっては、今のこの瞬間はとても新鮮だった。
あのシェリル・トンプソンが、みんなのアイドルだった〈イートンの女王様〉が、口を抑えて、吐き気をこらえる素振りを見せていた。
彼女のこんな苦しそうな姿を見たのは初めてのことだった。
(うふッ……なんだかんだいって、やっぱりイキそうになっているんじゃない、シェリル)
マナ回復と体力補給のためのチョコレートをレロレロと舌の上で転がしながら、ギルバートは笑った。
〈赤竜のヴァーミリオン〉の巨大エンジンにドバドバ燃料を注ぎ込み、強化呪文でガンガンブーストをかけていく。そんな全力疾走がいつまでも続くわけがない。必ず息切れする瞬間が来るはずだ。そう思って間一髪のタイミングで竜の顎門と息吹から逃れ続けてきたのだが、いつまで経ってもその瞬間が訪れないので焦っていたところだった。
だがどうやら、今までは仮面を被っていただけのことだったらしい。その仮面は今や剥がれかけていた。
ギルバートは口の端についたチョコレートをペロリと舌で舐め取りながら、イートンの人気者だったシェリルのすべてを、あますことなく観察した。
〈イートンの女王様〉が見せる媚態に魔術回路がビンビンに励起する。
(こんなに僕らを誘っちゃってぇ……シェリルはイヤらしいなあ!)
発汗が多い。金髪の前髪が額にへばりついていた。ブラウスは大きな胸元にベッタリと張り付いて下着が透けてしまっている。
わずかに喉が痙攣していた。嘔吐の前兆だ。チャンスだった。試合の最中に嘔吐するプレイヤーは今までにもいたが、その瞬間には必ずソウルの操作が乱れていた。ギルバートは早く彼女が吐くところを見たくてウズウズした。
シェリルの白い手は絶頂にでも達しているかのように震えていた。手足の痙攣? それとも悪寒でも感じているのだろうか。いずれにしてもそれらはマナ切れの諸症状だ。だいぶきている。
そしてとどめに――彼女の息遣いは激しくなっていた。汗を浮かべて、ハアハアと喘ぐ彼女のリズムに合わせて、ギルバートの魔術回路はギュンッギュンッに励起した。
(いいよ、いいよ、いい感じだよぉ……)
少しでもかすれば致命傷。近寄っただけで蒸発しそう。そんなドラゴンのプレッシャーと恐怖に耐え続けてきた甲斐があったというものだ。
ギルバートはほとんど確信していた。
(イケる……ッ! シェリルでイケる……ッ!)
まさに暴力の化身ともいうべき〈赤竜のヴァーミリオン〉だったが、自分とアンジェラならばその攻撃を紙一重の差で躱すことができる。躱し続けて、敵を自滅に追い込むことができるのだ。
フィニッシュに向けて、頭の中で流れを組み立てつつ、カードをドローする。
この試合の絶頂が近いことを、ギルバートはビンビンに感じ取っていた。




