第17話 シェリル・トンプソンはわからない
身体を拭き終えたシェリルはアニーに手伝ってもらってコルセットを身に着け始めた。
「やっぱり、コルセットは、身体にッ、悪いんじゃ、ないかしらッ」
「そう、おっしゃらずに、我慢、なさって、くださいッ!」
ぎゅうぎゅうに締め付け上げられるたびに、骨が軋んで酸素が肺から漏れていく。アニーのほうも力いっぱいに紐を引っ張っているせいか、息が苦しそうだった。
普段は男装に近い動きやすい格好をしているシェリルだが、細かいことを気にする母の前に出るときにはやはりそれなりの格好というものをする。それなりの格好、というのは今風の膝丈のスカートや男っぽい乗馬服とは違った、昔ながらのコルセットとドレスの組み合わせだ。
母に付け込まれる隙なんか作りたくなかった。だからこれは正確にいえばドレスではない。シェリルにとっての戦闘服だ。
やっとの思いでコルセットを身に着け、ドレスに着替えたシェリルだったが、そこからがまた大変だった。
「お嬢様、お休みにならないでください。お髪が梳かせません」
「……寝てないわ」
「いや、寝てましたよね?」
アニーがショートカットを梳かしてドレスにふさわしい形に整えるまで、シェリルは何度も意識を失った。
疲れ切っていた。〈サクス城塞〉で限界までマナを振り絞ること、三回。その間ずっと、目眩や頭痛、そして嘔吐感と戦い続けていた。
それだけではない。
〈赤竜のヴァーミリオン〉に言うことを聞かせるため、集中力と体力を酷使していた。まるで戦場から帰ってきたような気分だ。傷こそ負っていないものの、シェリルは死ぬほど疲れ切っていた。
(オークや戦士と戦って、ヴァーミリオンに言うことを聞かせるために戦って……そして今度はお母様と戦わなければならないのね)
鏡に映る疲れた顔に我ながら苦笑してしまった。
瀟洒なドレッサーの前で身支度を終えたシェリルは、ドレスの裾を踏まないよう指先で持ち上げながら、三階のベッドルームから一階のパーラー(居間)へと降りていった。
「お待たせいたしました、お母様」
パーラーに入ると、母のグウィネスは真鍮製の電気スタンドのもとで手芸をしていた。
自動車と同じように、まだ一部の家庭にしかない最新の電気スタンドだが、その明るさはオイルランプやガスライトと大差なく、ぼんやりと人の顔が見える程度の光量しかない。
昼間とはまるで違うこんな薄暗い灯りのもとで、よくもまあ手芸のような細かい作業ができるものだ。手が動きを覚えているのだろうか。刺繍や針仕事などの細かいことがからっきし苦手で、そのことをうまく周りからは隠し通してきたシェリルにとって、グウィネスのこういうところは素直に感心できる部分だった。
シェリルが声をかけても、グウィネスはちらりとこちらを見ただけでまたすぐに手芸に戻ってしまっていた。お座りなさいという言葉すらなかった。
これが昔からの母のやり方だった。言いたいことははっきりと言ってしまうシェリルとはまったく違うやり方だ。
(血が繋がっていないから、仕方がないのかしら)
そんなことを考えながら、シェリルは空いていたソファに勝手に座った。ありえない、といった顔でこちらを見てきた母にシェリルはさっさと済ませてしまおうと思ってはっきりと問い質した。
「それで? お母様、こんな夜中にいったいなんのご用なのですか?」
「それで? こんな夜中に、ですって?」
オウム返しに訊き返してきたグウィネスだった。その口調には母親に向かってそんな口を利くとは何事かという非難めいたものがあった。
「それはこちらの台詞よ、シェリル。こんな夜遅い時間までどちらにいたの?」
「タワーに」
「タワーに?」
「ええ、タワーに訓練しに行っていたの」
「タワーに、訓練、ですって?」
グウィネスの大袈裟なオウム返しにシェリルはイライラしてきた。
「ええ、そうですわ。タワーに、訓練、しに行っていたの」
一語ずつ区切るように言ってやると、グウィネスは額に手を当ててため息をついた。そのため息のつき方だけは自分と似ている気がした。
「シェリル、あなた自分がいくつだかわかっているの?」
「ええ、もちろん。わたしはどこかに出かけるのに許可をもらわなければいけない十歳の子供ではないわ」
「十歳の子供だって、こんな夜中に一人で出歩くような真似はしないわ。ましてや、あなたは十八歳の淑女なのよ」
「お母様、わたしは一人の自立した女なのよ。お母様にああしろ、こうしろと言われる立場にはないわ」
「自立した女、ですって?」
グウィネスのその口調には明らかな侮蔑と嘲笑が込められていた。
「シェリル、あなたも近頃流行りの社会運動に影響されているの? 女性にも参政権を与えるべきだなんていう馬鹿げた運動に?」
母親の口から飛び出してきた言葉に、シェリルは母親と同じように額に手を当ててため息をついた。
英国の女性の社会進出は進んでいるとはいえ、それでも依然としてその社会的地位は男性のほうが優位に立っている。
そして、母は旧態依然とした考え方の持ち主で、昨今の女性の社会進出を心よく思っていない。女性は家にいるべきだと考えている種類の人間だった。
その考え方も理解できないわけではないし、じっくりと話し合いたい点もいくつかあったが、シェリルが今話したいのはそのことについてではなかった。
「わたしはそういうことを言っているわけではないの。政治に興味がないわけではないけれど、わたしが言いたいのはもっと別のこと。お母様にはわたしの生活に干渉しないでほしいの」
「干渉、ですって? 娘のふしだらな生活を心配しない親がどこにいるというの?」
――お母様が心配しているのはそのせいで自分が社交界で居場所を失わないかということだけでしょう。
そう言ってやりたいのをシェリルはぐっとこらえた。そういう言い方は、父が亡くなってからトンプソン家を一人でずっと守ってきたグウィネスに対してフェアではなかったし、なにより今から母と本格的に矛を交えるには疲れすぎていた。
――それから約一時間。
シェリルは母に、淑女とはどうあるべきか、その立ち居振る舞いと気をつけるべき点、そして、二十歳を過ぎても結婚できない女などどこかしらに問題があると世間は判断するので、それまでにはなんとか社交界で良い相手を見つけなければならない、だからあなたもいつまでも遊んでいないでそろそろ舞踏会や晩餐会に出席しなさい、さもなければ三十歳になってもまだカード遊びに夢中な行き遅れになってしまいますよ――ということを懇々と説かれ続けた。
母から解放されて寝室に戻ったシェリルはバタンとベッドに倒れ込んだ。
「お嬢様、お髪を梳いてからお休みにならないと痛みますよ」
「……梳いて」
「はいはい」
枕に顔を埋めたまま髪を梳いてもらうと、シェリルはアニーを退出させた。アニーが心配そうな顔をしているのはちゃんと見えていたが、早く一人になりたかった。
疲れていた。だが神経が昂ぶっていて眠れそうになかった。激しい訓練のあとにはままあることだが、眠くても眠れないこの状態が一番辛かった。
(家に帰ってすぐなら眠れそうだったのに……これってお母様のせいじゃないのかしら)
ふらふらになった頭の中ではグウィネスの言葉が何度も繰り返されていた。
(カード遊び? カード遊びですって? トンプソン家の人間がよりによってよくもそんなことを……)
やはりトンプソン家の生まれではないからこんなことが言えるのだろうか。母の無神経な言葉が煩わしくてたまらなかった。
トンプソン伯爵家は中世期に当時の王朝から叙勲を受けた家系だが、その家名を英国全土に轟かせたのは今を遡ること数百年前、七つの海の覇権を巡る大海戦でのことだった。
その海戦において、トンプソン家はゴールドランクのドラゴン・ソウルカードを操って見事英国を大勝利に導いた。その当時の当主が王室から賜った二つ名こそが、〈竜使い〉。数百年前から現在に至るまで、トンプソン家の者が脈々と受け継いできた偉大なる二つ名だった。
本来ならば、ウィザードになれるかどうかを決定するのは血筋ではない。優れた体力と知力を持っているか、そしてカードを扱うのに必要最低限のマナ保有量を得るための訓練を受けていたかどうかだ。そこに血筋というものはほとんど関係してこない。だから、イートンのようなウィザード・スクールは国に必要な人材を集めるために身分や職業による差別はしないことになっている。
だがそれでも、トンプソン家の者は代々〈竜使い〉の二つ名を受け継いで、世間にそれを認めさせてきた。それは金や政治の力によるものではない。幼い頃からの厳しい訓練――つまりは単純な実力によるものだった。
今でもシェリルは覚えている。幼い頃、父に連れていってもらったタワーの中で見せてもらった、あの美しくも恐ろしい竜の姿を。
「いいかい、シェリル。わたしたちは気をつけなければならないんだよ」
〈竜の息吹〉で多数の凶悪なソウルを焼き払ってみせる父の顔は誇りに満ちていた。だがその一方で……あれはなんだったのだろう。今もって意味がわからないが、父はなにかを憂いているようだった。
「ノーブレス・オブリージュだよ、シェリル。力には責任が伴うんだ。トンプソン家の者はそれを背負っていかなければならないんだ……」
父がなにを言いたかったのかは今もわからない。頭ではわかっているつもりだが、それを本当の意味で理解しているのかどうか……竜の炎で照らされた父の恐ろしげな顔を思い出すと、いまいち自信が持てなくなる。
(お父様はなにをわたしに伝えたかったのかしら……)
枕に顔を埋めたまま父のことを考えるが、もちろん答えは見つからなかった。
ジェラルド・トンプソンはシェリルが十歳の頃に亡くなった。死因は流行病による急死。回復カードの手配が間に合わないほどの急死だった。
父の死後、トンプソン家の実権は母グウィネスが握ることとなった。グウィネスはジェラルドの後妻であり、前妻との子であるシェリルとは血が繋がっていなかった。
そのせいだろうか、シェリルとグウィネスの馬が合わないのは。
いや、それだけではないような気がする。
ジェラルドがグウィネスと結婚したのは、グウィネスの生家、バンクス家の財力をあてにしてのことだった。ジェラルドの前々代から、トンプソン家の財政事情は傾いていた。トンプソン家は英国北部に広大な土地を持っていたが、その土地からは北部の重要な財源であり、産業革命の源である石炭が採れなかった。そのため長年、トンプソン家は土地家屋を維持するのに必要な税収を得ることができていなかったのだ。
父ジェラルドと母グウィネスとの結婚生活に愛があったかどうかは知らない。だがとにかく、ジェラルドとグウィネスのあいだには男児が生まれた。シェリルの八つ下の弟、エルマーだ。
ジェラルドが亡き今、トンプソン家の爵位と財産を継ぐ法定推定相続人はエルマーただ一人だった。女性の社会進出が進んでいるとはいえ、英国の継承法は昔ながらの長子継続が基本だった。例外的に女性が爵位を受け継ぐことはあるが、トンプソン家の場合はその例外には当てはまらないため、シェリルがトンプソンの家名を受け継ぐことは許されない。
そのことに不満を覚えているわけではない。そのつもりだが、なぜだろうか。
〈竜使い〉の二つ名のことを考えると、シェリルの胸中にはいつだってモヤモヤとしたわけのわからない感情が渦巻く。
弟のことは嫌いではない。姉シェリルへ時折恥ずかしそうに甘えてくるエルマーのことはむしろ可愛く思っている。
母のことだって心底嫌っているわけではない。馬が合わないのは事実だが、母がこちらに対して口にすることは無茶苦茶なことではなく、当たり前のこと――年頃の娘らしくしろ、この一点だけだった。
わかっている。自分が奔放な生活をしていることは理解している。普通、自分のような上流階級出身の娘がウィザード・スクールを出たとなれば最初にすることはまず、長い髪をきれいに整えドレスを着て社交界へと顔を出すことだった。ショートカットにして乗馬服のようなズボンを穿いてタワーに出かけて夜中に帰ることなど、普通の淑女にはありえないことだった。
ウィザードになるのに血筋は必要ではない。だがそこは古今東西変わらないことだが、現代の英国においても人々の血統信奉はいまだに厚い。貴族の中にはウィザードの家系の者と、そうでない者がいて、別にどちらが偉いとかそういうくくりもないのだが、ウィザードの家系の貴族はだいたい同じような血を求める傾向にあった。
だから普通ならばシェリルのような娘は結婚に困ることはなく、舞踏会や晩餐会に顔を出せば、たちまちふさわしい相手が見つかるはずだったが、そこがシェリルは違った。
(強くならなければ)
その思いがいつだって身を焦がしていた。幼少期もイートンの学生時代も今も、いつだってそうだった。
母はどうやら〈竜使い〉というトンプソン家の勲しには興味がないらしい。言動の端々からその思いが透けて見えた。
正直に言えば、その思いはわからないではない。現代はウィザードの力なしで、人が科学の力で空を飛び、電信で遠方地との通信を効率的に行う時代だ。
生き馬の目を抜く実業家の家に生まれた母からしてみれば、やがて現代兵器がドラゴンを撃ち落とす時代が目に見えているのかもしれない。
(だけど、そういうものではない)
いずれは科学の力がウィザードの力を追い越す日が来るかもしれないし、今だってすでにトンプソン家はカードの力なんか要らなくて、必要としているのはただ単純に土地家屋を維持して使用人を路頭に迷わせない財力だけかもしれない。
(だけどそうじゃないのよ、お母様……)
ベッドでまんじりともしないシェリルの瞼の裏にはあの日の父と竜の姿があった。
高貴なる者としての責任と誇り、そして今のシェリルには計り知れないなにかを抱えて、ソウルカードを操る父の底しれぬ表情。
そんな父に使役されて、数多の敵を打ち払う、圧倒的で強大で、恐ろしく……そして哀しく美しい竜の姿。
シェリルにはわからなかった。
なぜ父の姿が哀しく思えたのか、父に操られる竜の姿がなぜあれほど恐ろしく、そして美しく思えたのか。
――さらに言えば。
今は亡き父が遺した言葉。母グウィネスの想い。弟エルマーが自分の家に対して考えていること。そもそも、トンプソン家の二つ名と爵位を継ぐべき地位にはいない自分がなぜ、こんなにも〈竜使い〉の名に固執するのか。そして、なぜ強くなりたいのか。
それらのすべてがわからなかった。
そんな想いに押しつぶされそうで到底眠ることができなかった。シェリルは身体をふらつかせながらベッドから起こした。
ウォールナット製のサイドボードに、肌身離さず身に着けているデッキのカードを並べて、数日後に控えている試合について、冴えてしまった頭で繰り返しイメージトレーニングを行う。
(今まで見てきた試合から分析すると、あの人のデッキのソウルカードはあのサキュバス一枚のみ。デッキのタイプはコントロール。〈打ち消し〉を主体とするカウンタータイプで、〈雷火〉のような攻撃呪文はほとんど使わない……もちろん、奥の手を隠し持っている可能性は十分にあるけれど)
さらに今までの彼の試合を思い返して考察を深めていく。
(徹底的に受けに徹して、敵が弱ったところを攻撃呪文カードで仕留めるのが彼の必勝パターン。けれど、ジョン・アーヴィング戦で見せたあの尻尾による一撃。あれは対象に持続ダメージを与えるスキルなのかしら。あれが奥の手……? よくわからないけれど、あれだけは警戒すべきね。もっとも、わたしのヴァーミリオンに対しても、あのスキルが有効なのかは疑問だけれど)
〈赤竜のヴァーミリオン〉は赤竜系のカードの中でも、特に強い力を持つネームドのソウルカードだ。
たいていのソウルは生前の記憶を忘却しており、自分の名前すら覚えていないが、たまに自分の名前を覚えているほど強力な自我と力を備えているソウルがいる。そういうソウルはカード名に固有名がついているネームド・ソウルという扱いとなり、多くの場合、希少で強力なソウルとして分類される。
シェリルの〈赤竜のヴァーミリオン〉もそんな中のひとつだったが、ふと疑問に思ったことがあった。
(初代当主が使っていたというゴールドカードのネームドソウルはどんなドラゴンなのかしら)
そんな思いがふと頭をかすめるが、今はそんなときではない。大事な一勝を得るために、目前の戦いに集中するべきだ。
記憶にあるイートン時代の彼のことを考える。
(あの人は、わたしのヴァーミリオンと同じように、二年生のときにあのサキュバスを得た)
イートン・ウィザード・スクールの学生は六年制の学生生活の中で二年目、十四歳の頃に、初めて自分だけのソウルカード――いわばパートナーを手にする。
その取得方法は魔石召喚と呼ばれる入手方法で、タワーに入らず、異界からソウルを召喚してブランクカードの中に招き入れるというものだが、そこで入手したソウルカードはウィザードにとって一生のソウルとなるという伝説があった。
(もちろん実際には自分の成長に合わせてカードを乗り換えていくウィザードがほとんどなのだけれど、あの人を見ていると案外伝説も馬鹿にはできないものね)
今までに何度も見てきたあの男の試合のことを思い返す。
激しかった。美しかった。そして下劣だった。だけれど、やっぱり激しくて美しかった。
その思いが彼の、そして自身のどこから生まれてくるのか、シェリルにはわからなかった。だが彼のことを思うと、身体の芯に熱い震えが走った。
(数日後には、彼と戦うことになる)
その激しい予感にシェリルはぞくりと震える想いがした。
はたして勝てるのだろうか……。
いや、勝たなければならないのだ。
〈竜使い〉シェリル・トンプソンは、〈サキュバス狂い〉ギルバート・ヘインズに対して勝利しなければならないのだ。
――だが。
(どうして勝たなければならないのだろう)
シェリルにはわからなかった。
今まで自分がどうして吐き気をこらえてまで辛い練習を続けてきたのか。
どうしてこれほどまでにトンプソン家の〈竜使い〉の名にこだわるのか。
そして、どうして自分は母の言うような普通の女の子になれないのか。
そのすべてが、今のシェリルにはわからないのだった。




