第12話 異界の謎とコツワラの死
ジャック・フロッグを一体だけカード化したギルバートとアンジェラは、〈ヌメドールの沼地〉の奥へと進んでいった。
ふわふわとギルバートの肩のあたりを飛んでいるアンジェラはよかったが、〈ヌメドールの沼地〉は探索するにはまず最悪といえるフィールドだった。
泥濘の中でうっかり転ばないように慎重に足を進めてはみるものの、わずか十分でギルバートは二度転んだ。すでにローブもシャツもスラックスも、そしてデッキホルダーまでもがすっかり泥まみれだ。
転んだときに口の中にまで入ってきた泥を吐き出しつつ、ギルバートはちらりと後ろを振り返った。
出発地点がいくらか遠くなっていた。ギルバートがゲロゲロやったあたりには一枚の浮遊する扉があった。
このフィールドとロンドン塔を繋いでいる扉だ。
あの扉を通り抜けてロンドン塔に戻り、家に帰って熱いお湯を浴びるところを思わず想像してしまう。ああ、この冷たくて気持ち悪い泥ときたら! こいつを熱いお湯ですっかり洗い落として、風呂上がりにビールを一杯飲めたらどんなに素晴らしいことだろうか。
わずかに扉のほうに向きかけた足を慌てて前に戻す。いけない。迂闊に後ろを振り返るからこうなるのだ。
前を向くと、少しだけ先を行っていたアンジェラが不思議そうに振り返ってきた。
「なんでもないよ。さあ、行こう」
目指すべきものだけを見て、ギルバートはまた一歩ずつ前へと踏み出した。
〈ヌメドールの沼地〉は奇妙に調和した世界だった。生と死、清浄と腐敗、朝と夜。それらのすべてが混じり合った世界だ。
なにひとつ動くものがないかのような静けさがあるかと思えば、ジャック・フロッグが沼に向かって派手な飛び込みをやっていた。泥の中で腐っているなにかの死体があるかと思えば、木立に囲まれてさざなみを立てる清らかな沼があった。空は朝とも夜ともつかぬ、明け方のほんの一瞬に見られる淡い紫色に永遠に塗り潰されていた。
そんな世界を黙々と歩くギルバートはいつのまにか、異界というものの不思議さとカードの謎についての思索にふけっていた。
――そもそも異界というものは、ギルバートたちがいる世界とは違う宇宙に違う歴史をもって存在するひとつの世界だ。
異界の存在は古代エジプトや古代ギリシャの頃から確認されている。エジプトの壁画にはピラミッドに開いた扉からスフィンクスが出てくる場面が描かれているし、古代ギリシャの文献には異界に彷徨い込んだ哲学者がサテュロスやニンフと互いの世界についての問答を交わした記録が残されている。
異界と現世が交わることは現代だけでなく、古代からよく見られた現象だったのだ。
それらの記録や、しっかりとした自我と記憶を持ち、なおかつ言語によるコミュニケーションが取れる亜人系ソウルとのやり取りによって判明した研究結果によれば、かつてこの世界にはギルバートたちの世界と同じように無数の国や地域があり、ハイヒューマン、エルフ、ドワーフ、魔物といった様々な種族がいたらしい。
姿形やものの考えが異なることで、ときに激しく争う彼らだったが、彼らには共通する信仰基盤ともいえるものがあった。
それが、マナ。この世界のあらゆるものに宿るその力は、万物の起源にして、世界のすべてを成り立たせている法則だと考えられていた。
この力を利用した魔術や技術によって文明を作り上げてきた異界の住人たちだったが、その繁栄にもやがて陰りが訪れた。
この世界の恵みであるマナを軽視して乱用したことによる、マナの衰退と文明の崩壊。
死の影が世界を覆い尽くし、生きとし生けるものが死に絶え、その結果――この世界は滅んだ。
すべてのものが滅んだ世界であとに残されたのは、他よりもひときわ強い自我や存在力を持ち、肉体を失って霊魂のみの姿となっても、なお世界に留まる者たち――すなわち、ソウルだった。
マナが衰退し、万物を支配していた法則が歪んだこの世界で、彼らは本来の自分の姿を見失ってしまっている。
確立された自我を持ったハイヒューマンや亜人は、記憶を失って黒い影に囚われており、本来は穏やかな気性だったはずの魔物も、この世界に迷い込んだものに容赦なく襲いかかる怪物と化してしまっている。
ソウルたちは、この世界に縛られた永遠の彷徨い人だ。
ウィザードたちが戦闘で破壊しても、一定時間後に復活する。たとえカード化されて、現世においてウィザードと新たな思い出を作ったとしても、破壊されてしまえばその魂は初期化されて、この異界へと舞い戻ってしまう。
仮に友好を結んだウィザードが、彼らと再び出会うことがあったとしても、彼らはかつてともに戦った友のことなどまったく覚えておらずに襲いかかってくるのだ。
(そんなソウルたちを利用することを最初に考えたのはいったい誰なんだろうね)
前を行くアンジェラが、黒いミニドレスのお尻から尻尾をフリフリさせているのを無意識で追いかけつつ、ギルバートの思考はさらに深いところへと潜っていく。
歴史が物語るところによれば、ソウルを隷属状態にして自在にその能力を使役するという利用方法は、古代から見られたらしい。
古代エジプトでは、石版に封じ込められたソウルがファラオの神聖なる権力の証明として、代々受け継がれていた。中東地域においては、ランプに閉じ込められたソウルがマスターの願いを叶えるといった物語の典型が、いたるところで見かけられる。アジアでは、三国に分かれた中華において、ときの権力者によって使役された一騎当千のソウルたちが、熾烈な戦いと高度な知略を繰り広げたという。
しかし――
沼のほとりに密生する深い茂みをかき分けながら、ギルバートの思考は出口の見えない迷宮へと入っていった。
(不思議なのはこのカードだ。こいつを作ったのは、いったいどこのどいつなんだ)
異界のソウルたちが築いていた多彩な魔術文明とは違って、彼ら異界のソウルそのものを召喚して利用するのが、ギルバートたちの世界の魔術だった。この魔術の仕組みは、東西古今の文明において、必ず見られるものだった。
(けれども、このカードというものが登場したのは近代になってから……ロンドン塔に異界への扉が開いたときからだ)
このカードシステムは、大英帝国の繁栄の礎となり、帝国の植民地から、フランス、ドイツ、ロシア、アメリカといった欧米諸国に広がっていった魔術の仕組みだ。
このカードシステムの歴史は今を遡ること、四百年ほど前に始まったと言われている。
しかし、その正体については、ほとんどすべてが国家機密という名の霧のベールに覆い隠されている。
最初にこのカードシステムを考案したのは、いったい誰なのか。
どういった過程で、このカードシステムが従来の古臭い魔術を扱うウィザードたちのあいだに浸透したのか。
それにそもそも、このカードというものは、いったいどういう仕組みになっているのか。
かざしただけでソウルの力を取り込む。取り込んだ力によって、名前や絵が勝手に浮かび上がってくる。まったく、実に便利で、あまりに都合のいいシステムだった。
だが、その便利さがどのようにして成り立っているのか。
それは、すべての大元となるブランクカードを生産している、とうのウィザードたちでさえ知らないことだった。彼らが知っているのはあくまで、ブランクカードを生産する際の金銀銅の混合比率と、マナを込めて大鍋をかき混ぜる適切なタイミングだけだった。
(便利で都合がいいといえば……)
ギルバートの頭にさらなる疑問が浮かんだ。
(あの案内人ってのはいったいなんなんだ)
白い口髭を生やした執事風の初老の男。ギルバートのデッキ構成を知り、本来タワーを攻略するウィザードたちのあいだでしか知られていないはずの、異界の最新情報にも精通しているあの男。
それに、気になるのはあの言葉だ。
――内部での経過時間につきましては、わたくしのほうでいつもどおり、ちょうどよい時間に帰ってこれるように調整しておきます。
あのときはなぜか耳から耳へと素通りしてしまったが、これはいったいどういう意味なのだろうか。
タワー内部での太陽の動きや時計の働きはいつもどこかおかしいので、正確な経過時間を測ることはできない。
だが、タワーから帰ってきたときには、ロンドンのほうの時間はいつもちょうどよい頃合いになっている。たとえば、朝からタワーの中に入って三度の夜を異界で過ごしたとしても、扉をくぐってロンドンに戻ってみれば、出かけた日の夕刻となっている。
こんなことがほとんどだった。
(まるであの男が時間を操作しているみたいだな)
そんなことが頭に浮かんで、ふと違和感を覚える。
(あれ、前にもこんなことを考えたような……)
と、そのときだった。
(マスターッ、危ないッ!)
アンジェラの警告が聞こえたと思ったその瞬間には、すでに遅かった。
何者かに足を掴まれた。
あっ、という間に引き倒されて暗くて冷たいところへと引きずり込まれた。
冷たくてドロドロしたものが口の中に入り込んでくる。
息ができない。
目を開けることはできた。暗い闇の中に触手のようなものがある。水草の色をしている。水草に襲われているのか。苦しい。息ができない。
深い。深くて暗い。深い水の底に引きずり込まれていく。掴まるものを探して手足をばたつかせるが水草が絡んでくるだけだ。
落ちていく。どこまでも落ちていく。
――死。
それが目前に見えた瞬間だった。
(マスターッ!)
頭の中でアンジェラの声が響いた。魔術回路から熱いマナが逆流してきた。
それでパニック状態から脱出した。
思いっきり息を深く吸い込む。泥水が口の中にはいりこんできたが問題ない。酸素は吸入できる。
〈赤銅の衣〉はたんなる防御カードではない。単純な刃や衝撃からだけでなく、熱や寒冷、そして通常ならば生存が危うい環境においても心身を守ってくれる万能のカードだ。
頭に酸素が巡ってきた。目をしっかりと見開いて視界に映る情報を処理する。
水草に見えていたものは魔物の触手だった。
――グリンデロー。沼地に潜んで長い触手で獲物を引きずり込んで殺す、緑色のタコのような姿をした魔物のソウルだ。
そいつが何体もギルバートの身体に絡みついていた。デッキホルダーに手を伸ばそうとしても、できなかった。
四肢を触手によって拘束されて四方に引っ張られていた。すごい力だ。脱臼して肉が裂けそうなほどだった。
〈赤銅の衣〉の光の膜がだんだんと薄くなっていた。耐久力がどんどん削られている。泥水の中にいるのとグリンデローの触手の攻撃を受けていることが原因だ。
もってあと十数秒。そのほんのわずかな時間内にこの状況から脱出しなければならない。
どうするべきか。いくつもの思考が瞬時に頭の中を駆け巡る。
〈雷火〉をぶっ放す。ダメだ。そもそもデッキからドローできない。
アンジェラをここに呼ぶ。いや、彼女はすでにそばにいた。今も必死にグリンデローを追い払おうとしてくれているが、沼の中ではグリンデローのほうに分があるのか苦戦してしまっている。
力任せにグリンデローの触手から逃れてみるべきか。無駄なことだろう。人間が魔物の力に敵うはずがない。
つまり、八方塞がり。出せる手札がない。このまま沈んで死を待つばかり。
結論――
(最高の状況じゃないか)
沼の中でギルバートは、うふッと笑った。あぶくがぷくりと浮かんで、消えていった。
(触手か触手か。いいねえ、最高だ。君たちいいよ、素晴らしい。なんて……なんて気持ちがいいんだろう!)
全身にヌルヌルと絡みつく触手だった。ギルバートの生命そのものを握りしめて、今にも潰してしまいそうな触手だった。
その触手に、ギルバートの魔術回路は激しく励起していた。
ぬめつく触手に全身をくまなく支配されながら、昔聞いた話が走馬灯のように蘇った。
十八世紀にいたコツワラという音楽家の話だ。
彼はバッハとも親交があった優れた演奏家で、十三もの楽器を演奏することができるほどの才能の持ち主だったが、性的な方面においていささか特殊な趣味があった。
それは窒息プレイ――首を吊った状態での性的行為だった。
コツワラの趣味は、生命の極限状態における究極のフェティシズムだった。
彼は売春宿でのその危険行為によって命を落としたのだが、生前に語ったところによれば、その行為によって得ることのできる快楽は天にも昇るほどだったらしい。
その話を思い出したギルバートは、またひとつ笑った。
(――なるほど。極限状態における興奮というのは、うふッ、こいつはたまらないね)
ビンビンに励起した魔術回路に、シコシコギュンギュンと溜まりつつあるマナ。こいつをぶちまけたらいったいどうなってしまうのか。
その答えは次の瞬間に明らかになった。
(イッちゃうよ、アンジェラ)
(ぁあんッ、んッ――マスターのっ、すごいッ♡)
マナの放出。生命の奔流。命の輝き。
それらが一緒くたになって弾けたようだった。
黒い泥水の中に真っ白な光が明滅した。
粘りつくような熱い感覚が身体を支配する。自分であって自分ではない身体。そうだ。今、自分は彼女と繋がっているのだ。この身体はアンジェラで、彼女の魂は自分のものなのだ。
その熱い感覚が迸るままにギルバートは動いた。
アンジェラが動いた。先程とは比べ物にならない動きだ。水中で縦に一回転。鋸刃のように鋭利な蹴りが弾力のある触手をいっぺんに引き裂いた。
右腕が自由になった。動ける。あと十秒だ。
〈赤銅の衣〉はすでに消えかけている。
デッキホルダーに手を伸ばした。あと八秒。
夜な夜なアンジェラによって訓練された指遣いは水の中でも正確に動いた。ゼロコンマ秒で狙いのカードをドローする。
――〈雷火〉。基本にして万能の攻撃呪文カード。
溜めを作っている暇はない。もうあと数秒しかない。数秒後、防御カードの効果が切れたその瞬間、自分はこの冷たい沼の中で八つ裂きにされて死んでしまう。
それはわかっている。もちろんわかっているのだが――
(どうせならギリギリまで我慢してから出したいな)
その危険な欲望をとどめることができない。
(うふッ、うふッ)
無数のあぶくを吐き出して笑う。なにかに怯えたように触手の力が緩んだ。
――残り五秒。
(マスターッ、もう時間が……ッ!)
(それじゃあ、そろそろイッちゃおうかな)
残すところ三秒となった瞬間だった。
ギルバートは自身のドロドロの欲望を〈雷火〉にぶちこんだ。
大砲が火を吹いたようだった。沼の中で真っ白な光が爆発した。
ギルバートは〈雷火〉を沼底に向かって放っていた。まるで人間砲弾だった。巨大なエネルギーの反動によって、下から上に、凄まじい勢いでギルバートの身体はぶっ飛んでいく。
グリンデローの触手を引きちぎって、ギルバートは沼の奥深くから水面へと一気に脱出した。
マナの放出は、派手な水しぶきを上げて沼を飛び出し、そのまま空へと吹っ飛んでいってもまだ止まらなかった。
ギルバートの身体は白濁したマナをとめどなく噴出しながら、空高く打ち上げられていく。
全身を襲う凄まじい風圧と圧倒的な快感。
ギルバートの心と身体は真っ白な光に包まれていた。
(うふッうふッ、うふッうふッふふふふふふふ――ッ)
(マ、マスタァァァァァァーッ!?)
コツワラもこの快楽を知っていたのだろうか。
空高く打ち上げられていくギルバートはそのとき、文字通り、天にも昇る快感を得ていたのだった。




