第10話 ロンドン塔
人と悪臭の津波をかき分けながら馬車は進んでいく。
ロンドンの東へ進むほどに霧は濃くなり、人通りは少なくなっていった。
気づけばもはやランタンが必要なほどの暗さだった。先程までの勢いはどこへやら、まるで葬列に参加しているようにひそやかな馬蹄と車輪の音だけが、人影のない暗い通りに虚ろに響いていた。
「そろそろですぜ、旦那」
さっきまで鞭を振り回し大声で喚き散らしていたジョンソンが、あたりをはばかるような小声になっていた。
「うう、ここらはいつ来ても妙に冷えやがるぜ……旦那は平気なんですかい?」
「まったく平気というわけでもないけれどね。ただまあ、最近はスリルっていうのかな、それがなんだか癖になってきたところだよ」
うふッ、と笑ったギルバートを、ジョンソンは薄気味悪そうに見ていた。
カラコロという音を立てて、やがて馬車は完全に止まった。馬が勝手に足を止めてしまったのだ。ジョンソンが鞭を振るっても、一向に進もうとしない。
「すまねえな、ヘインズの旦那……どうやらここまでのようだ」
「構わないよ。もう目の前だしね」
一マイルあたり六ペンス程度が辻馬車の相場だったが、半クラウン銀貨で多めに渡してやった。するとジョンソンは慇懃に頭を下げたが、あまり嬉しそうな顔はしなかった。
「旦那、早く帰ってきてくだせえよ。こんな薄気味悪いところ、長居したくねえや」
「わかんないな、途中で死んじゃうかもしれないし。あんまり戻ってこないようだったら、先に帰ってていいよ」
嫌そうな顔をしたジョンソンにひらひらと手を振りつつ、ギルバートは馬車を降りて先へ進んだ。
濃霧の中を慎重に進む。すでに目的の建物は見えていた。下手をすれば自分の手さえ見えないほどの霧だったが、その建物は灰色のキャンバスに漆黒の輪郭を描いたように、ギルバートの目の前に黒々とそびえ立っていた。
――ロンドン塔。
単純にタワーとも呼称されるその建造物は、もともとは、今から八百年ほど昔にウィリアム征服王の命によって建築された、ロンドンを外敵から守るための要塞だった。
その後は王朝の変遷や時代の流れとともに、様々な施設が増設され、宮殿や造幣所、銀行、そして監獄としても用いられていったが、その流れが変わったのは大航海時代、世界の海の覇権を巡る争いでイギリスが他国に遅れを取っていた頃のことだ。
異界に通じる扉がロンドン塔に開いた。
それが魔術と英国の歴史を、そして世界の歴史を変えた。
ギルバートは物々しい雰囲気を漂わせた門の前に立った。
門の両脇にはフードで顔を隠した二人の男がいたが、なにも話しかけてこようとしない。その土地に縛り付けられた幽霊のように無言で立ち尽くすばかりだった。
彼らが何者で、いったいなんのためにここにいるのかは知らない。ウィザードたちのあいだではかつてのロンドン塔の衛兵のあだ名を取って、ビーフィーターと呼ばれてはいるが、彼らがかつての衛兵隊と同じ目的でここにいるのかどうかは誰にもわからない。
ただ、ギルバートが初めて訪れたときから今日に至るまで、いつ来ても彼らはここにいた。
彼らのそばを黙って通って、門をくぐり抜ける。道沿いに歩いていって、いくつかの門と塔、そして何人かのビーフィーターの前を通り過ぎていく。
どこかでカラスが、カア、と不吉に鳴いた。
そうしてたどり着いたのはロンドン塔の敷地中央にある建物、ホワイト・タワーだ。
それは灰色の霧に包まれて黒い体を暗黒の空に向かってどこまでも伸ばしていく巨人のようだった。見上げてみても、厚い霧に阻まれててっぺんが見えない。四隅に建てられた四本の塔と、その間を結ぶような壁に一定間隔で配置された窓は、空に向かって無限に続いていくようだった。
あるいは実際にそうなのかもしれない。常に厚い霧に包まれているせいでロンドン塔は周囲から観測することができないため、その実体については謎に包まれている。
何度見ても慣れることがないし、慣れてはいけないのだろう。あるべき姿から逸脱してしまったその異様さは、これからこの世界とは異なる場所へと足を運ぶことをギルバートに自覚させた。
またどこかでカラスが一声鳴いた。理由のない悪寒が背筋を走った。
と、そのときだった。
「邪魔だ、小僧。どきな」
「わッ」
後ろからのいきなりの衝撃だった。ギルバートはたたらを踏んだ。
振り返ってみれば、そこには四人の人間がいた。どれもギルバートと同じようなローブに身を包んだウィザードだった。
突然なんなんだ、とギルバートが睨みつけると、四人の中で一番大きい体をした男が鼻で笑った。レスラーのようなごつい体格だった。
男はこちらを一瞥すること、他の三人を引き連れてホワイト・タワーの内部へと入っていってしまった。
彼らが何者なのかはよくわからないが、荒っぽい雰囲気から察するにカード・ハンターを専門にやっている連中なのかもしれなかった。
タワーを訪れるウィザードの目的は様々だ。現世から異界に通じるその不可思議な現象を調査すべくやって来る研究者や政府関係者。自身とソウルのレベルアップのためにタワーの攻略に挑戦するトーナメント・プレイヤーと、ここで得たカードで一攫千金を狙うハンターたち。
とはいっても、ほとんどのプレイヤーはレベルアップとカード・ハントの両方を同時にやっているし、ハンターの中にもプレイヤーを兼業している者がいる。そのため、その目的や職業にはっきりとした線引きはできないのだが、それでもなんとなくの雰囲気というものはあるものだ。
荒っぽい連中だったな、とギルバートが顔をしかめて考えているときだった。
「た、助けて……」
ホワイト・タワーの中から二人の人間がフラフラと出てきた。なにか黒くて大きいものを引きずっているようだった。
「うッ……」
よく見れば、黒くて大きいものには手足らしきものがあった。それでその正体がわかってしまった。
「お、お願いします、回復系のカードを、回復を……ッ!」
こちらの足にすがりついて懇願してくるのはガリガリにやせ細った男だった。先程のレスラーと同じ大きな傷跡が顔にあった。
「お願いです、仲間が、友達が、死にそうなんです。ブロンズカードでもいいんです。回復系のカードをどうかッ」
元レスラーが顔を歪めて祈るように頼み込んでくる。彼のかたわらには、なにかに食いちぎられたように片腕を失った男がいた。
「なんでもします、お金ならあります、靴だって舐めます。なんでもしますので、どうか、どうか……」
「……」
どうしよう、言うべきだろうか。片腕の男はもう虫の息で、自分の持っているカードでは到底救うことができないと。そして、あなた自身についてもそれは同じことがいえると。
彼の腹には向こうが見えるほどの大穴が空いていた。まだ生きて喋ることができているのが信じられない大怪我だった。
かける言葉が見つけられないうちに、やがて男の言葉は途切れ途切れになり、最期にひとつ、おかあちゃん、と子供のような言葉を残して息を引き取っていってしまった。
もう一方の片腕の男はもう少しだけ息が長かったが、結局は同じ道を辿っていった。
ローブについた男の血を拭き取ることもせずに立ち尽くしていると、ホワイト・タワーの扉が錆びついた音を立てて開いた。
「やれやれ、彼らには危険だと申し上げたのですが……お聞き入れいただけませんでした」
中から姿を現したのは執事服のようなお仕着せを着た一人の老人だった。実家にいた執事と似た雰囲気を持っている。控えめな態度ながらも、この世のすべてが自分の掌の上にあることを自負している佇まい。
元レスラーの亡骸はギルバートの足にすがりついたままだった。それをそのままにして黙って老人を見つめていると、老人はふむ、とうなずいて口を開いた。
「失礼、少々伺いたいことがございますが、よろしいですかな」
無言でうなずくと、老人は白い口髭を撫でながら問いかけてきた。
「仮にそのお二人が助かりそうだったとして……あなたはそのデッキホルダーの中にある〈回復の光〉をご使用になられましたか?」
どうして見てもいないのにこちらのデッキの中身がわかるのか、という無駄なことは訊かなかった。
なぜ、と訊いても無駄な気がしていた。実家にいた執事と同じだ。こういうやつらはなんでもお見通しで、そのことを楽しんでいるのだ。
「さあ、どうだろうね。同情心に負けて……あるいは恩を売るために使用した可能性はあるし、タワーに挑むのは自己責任だっていって使わなかったことも考えられるな。ねえ、あなたはどう思う?」
「さあ、どうでしょうか」
目尻に皺を作って微笑むばかりの老人だったが、その顔は答えを知っていた。
一方、ギルバートのほうも、自分がどちらの人間か、その答えにはなんとなく気づいていた。
「やはり合格、ですな」
「うん? なんの話だい?」
「いえ、失礼いたしました。こちらの話でございます……申し遅れましたな、わたくし、タワーの案内人を務めさせていただいております。呼び方はどうぞご自由に」
「初めて会ったね。ここにはもう何回も来ているんだけど」
「さようでございますか」
案内人を名乗った老人は明確なことはなにひとつ言わぬまま、タワーの扉の前で微笑むばかりだった。
元レスラーの死体を振り払って、そちらに向かって歩き出す。
その際に死体を少し踏みつけてしまったが、ギルバートはそれをいとわなかった。
案内人の導きに従って、ギルバートはタワーの内部に足を踏み入れた。
中はだまし絵をそのまま現実に持ってきたかのような、混沌が秩序だった造りとなっていた。
右の通路が上につながり、上の階段が後ろに降りている。足元の窓を覗いてみれば、回廊が上に向かって続いている。ビロードのカーテンが垂れる窓の向こうには無限の窓が連なり、壁際に置かれた鎧は上に向かって積み上げられている。壁にかかった松明がそれらの光景をぼんやりと照らし出していた。
案内人は下に向かって登っていきながら、今日の食事や予定についてやり取りする執事のように話しかけてきた。
「本日のおすすめは〈イグニアの荒野〉と〈サクス城塞〉でございます。〈イグニアの荒野〉では〈雷火〉を落とす魔術師の出現率が高くなっており、〈サクス城塞〉では現在オークの群れと戦士のソウルの戦が勃発中です。どちらの側に立つにせよ、うまく立ち回れば優秀なソウルを手に入れることができましょう。内部での経過時間につきましては、わたくしのほうでいつもどおり、ちょうどよい時間に帰ってこれるように調整しておきます。ヘインズ様はどこかご希望の場所はございますか?」
いつもどおり?
案内人の言葉に首を傾げつつも、ギルバートは実家にいた頃と同じように鷹揚に答えた。
「〈ヌメドールの沼地〉に行きたいんだけれど」
横へ伸びる螺旋階段を登りつつ、案内人は難しい顔をして白髭を撫でた。
「ははあ、あそこは現在少々荒れておりまして……〈沼地の魔女〉が出没していて危険なのですよ。ですがまあ……ヘインズ様なら挑戦する資格はおありでしょうな」
案内人は下へ落ちていく窓にすっと入っていくと、こちらの手を取って導いた。そして目の前に現れたドアのノブに手をかけて、微笑んできた。
「それではこちらが〈ヌメドールの沼地〉への扉となります」
そう言って案内人が開いてくれたドアの先は真っ暗な闇となっていた。深淵へと落ちていくようなその暗さに足がすくむ。
思わず動揺した心を落ち着けるべく目を閉じると、子供の頃に一人でかくれんぼをして遊んだクローゼットが自然と思い返された。
あの頃は孤独だった。複雑な家庭環境の中で義母や執事や使用人に疎まれていた。自分が孤独だということにすら気づかないほど孤独だった。
だから、一人で遊んで、いろんなことを想像して楽しんでいた。クローゼットの先は知らない世界につながっていて、そこでかわいい女の子に出会って一緒に魔物と戦うんだという妄想に耽っていた。
あれ、そう考えると、子供の頃の夢が叶ったともいえるのだろうか。ギルバートはアンジェラが入ったデッキホルダーをひとつ撫でた。
いつのまにか、足は動くようになっていた。
こちらのそんな様子を微笑んで見守りながら、案内人は慇懃に一礼して言った。
「どうぞお気をつけて、ヘインズ様。またお目にかかることができるのを楽しみにしております」
そうして案内人に見送られながら、ギルバートは扉の中へと足を踏み入れたのだった。




