うしのくび石碑
「樹くん、待って、私も行く」
ついてきたのは桃香だった。驚いた。
「桃香、やめて、ここ、数えきれない人数の血を吸ってる。それだけは私にだってわかるから」
「私にだってわかることはあるの。碑文はきっと万葉仮名。私の専門、万葉集だよ。慣れてないと字を拾うだけで大変、樹くんだけじゃすごい時間かかる」
「黙ってたら気付かないと思ったのに、桃香ったら! 日下部さんが書いてきた宇志能句毘、記紀の神様の名前に使われてる表記っぽい。宇摩志麻遅命とか句句廼馳神とか。私の専攻」
桃香は口角だけ上げて親友に微笑を見せてから、オレには朗らかに行こうと笑いかけた。
「わかったよ。桃香が読んで私がメモるのが一番早い。一緒に死んであげる」
やれやれといった表情の杏もついてくるらしい。
いや、一緒には死なないんだろう、1年に1人の割合なんだから、と思ったが口にするのはやめた。
石碑は日下部さんが屏風岩と書いていたように、横に長く1.5mくらいあった。碑文は縦書き、一行20文字前後で13行もある。
脳内では墓石のようなものを想像していたが、実際の石はうっすら茶色っぽく堆積岩なのだろう、さもないと硬い花崗岩では250字以上も彫るのが大変だ。
しかし、彫りやすいということは摩耗しやすいというわけで、女性陣が言うように、すぐに何の字かわかるような代物でもなかった。
万葉仮名なのだとしたら、せめて万葉仮名に使われている漢字の種類をある程度知っている必要がある。
オレがスマホで写真を撮っているうちに、国文学科ペアは読み上げを始めた。
桃香が「う・し・の・く・び・う・つかとどっちか、字は都」と碑文を辿り、杏は、「先に漢字だけ言って。宇宙の宇、こころざしの志とか言ってくれると助かる」と頼んでいる。
ノートを手にしている杏に、「スマホに打ち込めば?」と言ったら「こういう場所は磁場が狂ってたりするから」と霊感発言が返ってきた。
桃香はいつもよりはっきりした発音で「お母さんの母、能力の能、えっと次は例が思いつかない、むだよ、うーんと、大牟田市の牟かな、行為を為すの為……」
自分も桃香が読み上げる漢字に目をやってみたが、到底判別できそうにない。
手伝いにもならないから、石碑の位置をコンパスでチェックしたり、寸法を測ったりした。
碑文の書かれた面はてるてる神社の背面に向いているが、石碑の左方向は樹々が開けていて、遠景にこちらより高い山が見えた。
スマホで地図を出してみると、武尊峰というらしい。
山頂近くに古戦場のマークがあり、(古代)と書かれていたから、ヤマトタケル関連かなとちらりと思った。
石碑の裏側にまわると、裏面には何の模様も文字もなかったが、その後ろの茂みの中に細くて暗い下りの道を見つけた。
最初はけもの道だと思ったのだが、「富之池へ」という木製の案内板があり、その上の枝に小さなてるてる坊主がひとつ提げてある。
人が作った道だと思うとどっと安心してしまった。
石碑の前に戻ると、桃香がちょうど、最後の漢字を読んでいるところだった。
「最後の5文字は宇志能句毘、最初の5文字と一緒。え? あれ、違う! ちょっと待って」
桃香は最初の5文字と最後の5文字を比較している。
「おんなじじゃないのか?」
碑文解読の言い出しっぺとしてオレも首を突っ込む。
「おんなじ、きっとおんなじなの」
「同じなら問題ないだろ?」
「ちがうのよ」
「どっちなんだよ!?」
桃香はオレには答えずに杏を呼ぶ。
「杏、これ、最後は伊志能句毘だよね? 伊。もしかして、最初も宇じゃなくて伊?」
杏は文字を指で辿りながら「宇と伊が似てるなんて思ったことなかった……」と呟いている。
「活字じゃなくて彫ってるんだもんな」
オレも何となく事態が掴め出した。
地元の人でさえ「うしのくび石碑」だと伝承していたが、本当は「いしのくび石碑」なんじゃないかということだ。
「他のところに出てくる宇の字、伊の字と比べてみるね、あ、これなんかそっくりだ。碑文の最初の文字は伊……かもしれない……」
杏が言い淀むのが不思議に思えた。
これは大発見、大快挙じゃないか。
牛の首だと思うから、怪談のくせにどこか滑稽で、同時に禍々しい、相反したイメージが湧いて人間の心理にそぐわない葛藤を引き起こしてしまう。
モヤモヤがつのるから他人に話したくなる。話の中身が失われてしまっても、「牛の首」というタイトルの葛藤のインパクトだけが独り歩きする。
聞いたほうもスッキリしないから恐怖も好奇心もかき立てられる、それが無限に伝播して都市伝説へと変遷していく。
元々は石の首だったとすれば、例えばお地蔵さんの首が転がり落ちたくらいの他愛のない怪談だったかもしれないのに。
ついニンマリしてしまっていた自分に、杏が冷たいけれど意志の籠った視線を寄越した。
「私たち、早死にするかもしれないけど、もう手遅れだからね」
「すまん。これを見た人全員がすぐ死ぬかどうかは知らんが、死ぬのかもな。申し訳ないが、本当に手遅れだな」
その時そう答えた自分は愚かだったと今になって思う。
相当舞い上がっていたに違いない。
死なんて自分の人生からかけ離れていて、どこか他人事、傲慢だったとも言えるだろう。
オレの浮かれた態度にイラっとしたのか、杏は、今わかる範囲で読んであげるよと言って音読しだした。
「いしのくび・うつわのみしり・しものむいにし・すうしのごとく・ちふたぎふみの・ぬしのろ・いやれ……」
一本調子で杏も言葉の区切りがわからないのだろう、意味不明な部分が多かった。
桃香は杏の音読を聞きながら再度碑文と照らし合わせていたが、読み終わる前に石碑の前で、膝の力が抜けたように崩れ落ちた。
「桃香!」
杏はノートを投げ出して友人の上体を抱きかかえる。
桃香の顔色は真っ青、脳貧血を起こしたようだ。
「桃香、しっかりして!」
意識はすぐに戻ったが、杏の名前を呼びながら「う……ん」と唸っている。
ペットボトルの水を口に含むことができたのを確認して、オレは杏から引き継いで桃香を横に抱き上げた。
そのまま神社の表境内へ回ると、石段の最上段に座ってキスを交わす、能天気な恋人たちのシルエットが見えた。
杏が小走りにオレを抜かしていって、「桃香が倒れた」と説明している。