迷い込んだ投書
この話を最後まで読んだ人には怨まれるだろうと思う。
だが同時に、これ以外に方法はないと同意してくださる方もあるのではないかと願いながら筆をとる。
事の起こりは自分が所属するサークルに届いた一通の投書だった。
女性の筆跡で大学の住所宛に、「都市伝説研究サークル御中」という茶封筒。
今時メールじゃないのかと首を傾げたが、出先からで、誰のメアドも知らなければ郵便もアリかとその時は思っただけだった。
―◇―
わたしの地元には怪談「牛の首」の起源だと思われる石碑があります。
「余りに怖くてこの怪談を聞くと3日以内に死んでしまい、いったいどんな話なのか知る者は誰もいない」というのが牛の首の定説ですが、これは都市伝説化してからのことです。
地元では、「うしのくび石碑を見たことのある人のうち1人が、年内に死ぬ」と言われていて、わたしの祖父も還暦前に死にました。
祖父の時代は5名の役員を決め、石碑と石碑のある神社の維持管理に当たっていたのですが、役員たちは1人また1人と死んでいき、新しい役員を補充しても年に1人ずつ死に続けたそうです。
わたしはおじいちゃんっ子でした。
祖父の他界時わたしは8歳、泣きじゃくるわたしに祖母は言いました。
「そげに泣くな、じいちゃんはてるてるさんの無念に添うことができたのじゃから」
この謎のような言葉を吐きながら、祖母は笑顔を作ろうと顔をゆがめて泣いていました。
「てるてるさんって?」とわたしが訊くと、「山の奥のお宮さんじゃよ、子どもは近づいちゃならねぇ」と答え、それ以上は何も教えてくれませんでした。
祖母は、父に役員の話が来たら困ると、わたしたち家族を追い出すようにして上京させました。
それから11年、祖母は一人暮らしでしたが昨年とうとう永眠し、父は早々に実家を処分しました。更地にしてしまったのです。
うしのくび石碑やてるてる神社とは一刻も早く縁を切りたかったのかもしれません。
でも、わたしは忘れることができませんでした。祖父母の思い出にこの神社と石碑の名が付いて回るのです。
2回生になったこのゴールデンウィークに意を決して、両親には行き先を偽り友人と小旅行と告げ、8歳まで暮らした家があったはずのところから、裏手の山に単身分け入りました。
てるてる神社は実在しました。
古びてはいましたが、思ったより大きなおやしろで、文化財としても信仰の対象としても遜色ありません。
しかしながら、地元の人々が命をかけて守るものではないだろうにと感じました。
うしのくび石碑は神社の裏手にある大きな屏風岩で、細かい漢字が縦書きで13行も刻まれていました。
最初の5文字が「宇志能句毘」となっていて、確かにうしのくびと読めます。
長々と書いていますが、そろそろこの手紙の趣旨をお伝えすべきでしょう。
ひとつめは、サークルの皆さんにうしのくび碑文を読解してほしいのです。漢字250文字くらいありますが、漢文ではなく、同じ文字が何度も出てきたりして暗号みたいです。
判る範囲で書き取ったものが手元にありますが、石碑は苔むしていて読みづらく、自分は理系でもあり、正しさに自信がありません。
また、石碑を見たら死ぬのか、碑文を読んだら死ぬのかもわかりません。碑文を同封してもし誰かが死んでしまったら責任がとれないので、わたしからはお見せしません。
もしご興味をそそられましたら、下記現地に赴いてください。
――N県H市Y町 白帝山(標高およそ400m) 8丁目23番地裏の茂み内に登山道アリ てるてる神社(正式名称:和照魂照神社)――
この投書のふたつめの目的はわたしの命を永らえることです。
現地に住む、小学校時代に仲の良かった子に聞いたのですが、祖母は死ぬまでの4年間、てるてる神社の役員を務めていたそうです。
後に役員に就任した方が先に亡くなったりして祖母は生き延びたようですが、彼女が最後のてるてる神社役員となってしまいました。
氏子会は解散、自治会も役員の選出を止めた現在、祖母の他界後に石碑を見たことがあるのはきっと、わたしだけでしょう。
これでは、わたしが今年中に死ぬ確率は100パーセントです。
サークルの方々、例えば10名が現地に訪れて石碑を見てくだされば、わたしの寿命は10年延びる可能性があるのです。
目撃者のうち誰が先に死ぬかは決まっていないようなので。
このような勝手な自己都合によって、この手紙を書いているというわけです。
この碑文読解は、牛の首怪談の都市伝説解明に飛躍的な一歩となるでしょうけれど、生命の危険があるやもしれないとお含みおきください。
英語には「好奇心が猫を殺すCuriosity killed the cat.」という言い回しがあるように。
もし碑文の内容がわかりましたら、是非こちらにご一報ください。
理工学部 建築学科 日下部穂佳
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