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[明暗]

 薄紫色の夜空は、(かすみ)が掛かったように蒼白い光で月を包み、(そら)という天蓋の真中に掲げ、其処から生まれる涼しい空気を地上に降り注いでいた。


 朧月夜のタージ=マハル。


 (はかな)げな月光と力強い松明(たいまつ)が、青と赤の色彩を交じわせ、墓廟に紫の膜を(まと)わせている。その幽玄で壮美な(さま)は、仮宿舎を出てすぐでさえも、遠く見上げた視界を独占するかのように悠然と浮かび上がっていた。


「ああ……やっぱり! なんて美しいのかしら……さぁ、ナーギニー行きましょう!」


 シュリーは感嘆の声を上げ、反面ナーギニーは声を失くしてその光景に魅せられていた。両手を当てた胸元の、奥底の心臓は脈打つことも忘れてしまいそうだ。そんな彼女の小鳥みたいな柔らかい手首を掴み、シュリーは嬉々として走り出した。


 もう夜は相当に更けている。目指す先は炎が点在して明るいが、それまではまるで何ものも存在しない闇夜の砂漠に等しかった。シュリーの勢いにどうにかついていこうと少女は必死に後を追いかけた。が、慣れない暗がりを砂にもつれて走るというのは、こうも難儀なものなのかと、まさしく身を持って知ることとなった。


 タージ=マハルの周囲には、もはや人気(ひとけ)はないように思われた。それでも誰もが帰路に着いた訳ではなく、墓廟を正面とした遥かから、僅かに騒めきが響いている。明日・明後日と祭りは続く。そのため夕刻までの大勢は激減したが、「これ程までに端麗な風景はそう見られたものではない」──心を動かされた一部の民は、(あら)たかな絶景を全てその眼に収めようと、遠ざかった小高い砂の山へ(うたげ)を移し再開した。


 酒の力を借りて鬱憤(うっぷん)を晴らす男、自分の不幸を泣いて語る女。そんな(すさ)んだ心を晒す行為も止めてしまう程の清らかな風月無辺。平沙万里に咲いたインドセンダン(ニーム)の白紫の花群の如く、タージ=マハルは諸人(もろびと)の疲れを癒さんと此の地に咲き乱れていた。


「見て見て、ナーギニー。タージの周りには誰も居ないわ! わたし達だけでこの景色を堪能出来るなんて本当に素敵っ! ねぇ、上まで上がってみましょう!!」


 シュリーは疲れた様子もなく、前を走り続けながら興奮気味に叫んだ。腕を引かれたまま息を切らすナーギニーは、彼女の言葉の意味は理解出来ても、すぐに返事をすることは出来なかった。


 まもなく墓廟の西端へ差しかかるといった頃、ついにナーギニーの足はよろけ、その拍子に手元が離れ自由になった。お陰で倒れることはなかったが、砂の上に両手を着き膝も落としてしまう。地面を見下ろしながらしばらく(あえ)ぐことをやめられず、やっと呼吸が落ち着きを取り戻した時、目の前で待っている筈のシュリーを見上げようとしたが、突如吹き抜けた疾風が少女の視界を遮っていた。


「……きゃ……!」


 砂塵が巻き上がりナーギニーの大きな瞳を襲う。目を(つむ)って激しいうねりに耐え、やがて平穏を取り戻した世界を映そうと瞼を開いた。しかし先程まで光を放っていた満月は雲に隠され、松明もまた風が(さら)ってしまったように、明々(あかあか)と照らしていた炎は掻き消されていた。


「え……?」


 一瞬の出来事にナーギニーの思考は停止した。あれほど鮮やかだった紫の霊廟は、ただ空を黒々とさせる巨大な闇の塊に変わっていた。


「シュ……シュリー……?」


 恐る恐る身体を立ち上げてみたが、見える物は赤黒く化したサリーの(ひだ)と、煙に(いぶ)されたような自身の腕だけだ。そして……ずっとその手首を握っていたシュリーの柔らかな声が、彼女に応えることもなかった。


「シュリー……シュリー!」


 ナーギニーはまるで暗黒の宇宙に取り残されたみたいな心細さに(さいな)まれ、今まで上げたこともない悲痛な声で彼女の名を叫んだ。けれどその響きは風が溶かし、見えない先から何ものも返ってくることはない。


 遠く右側を望めば、かろうじて続いている宴の(ほの)かな明かりが見える。其処へ行って尋ねようか? 少女はすがることの出来る相手を求めたが、きっと言葉は続かない。それに独りきりで夜を彷徨(さまよ)う娘がどれほど男達の恰好の的であるか、彼女とて分からない訳ではなかった。


 ──シュリーは……確か「上へ上がってみましょう」と言っていた……きっとタージ=マハルの上だわ。


 依然黒い山のような墓廟を見上げる。(かす)かに戻ってきた心の静けさが、僅かな希望の(きざ)しを記憶から手繰り寄せた。


 ──私が其処へ来るのだと思って、待っているのかもしれない。


 徐々に闇に慣れ始めた瞳で、頼りない足元を踏みしめて歩く。時折寄せる波のように、泣き出したい気持ちが胸を詰まらせたが、かろうじて押し留め、涙が行く先を曇らせることはなかった。


 近くに寄った白い大理石は、日中照らされた光を集めたように、ほんのり明るさを漂わせていた。壁伝いに進み、やがて基壇上に続く階段が現れた。インドは元来聖なる場所では裸足となる風習がある。彼女も同様にサンダルを脱ぎ片手で摘まんで、滑らかに磨き上げられた白亜の床に足裏を触れさせた。夜の冷気がひんやりとした感触を与えた。


 階段を昇った先は高く広々とした方形の空間だった。中心に(そび)え立つ廟本体を正面にして、左右の隅に二本、ずっと奥の端にまた二本、計四本の尖塔(ミナレット)が偉大さを見せつけながら天高く見下ろしている。廟の手前には地下に続く空洞があり、(いにしえ)に飛び立った王と王妃の(ひつぎ)が眠っていたが、それは既に朽ち果てて久しい。真上に息巻く雄大なアーチの入口は、黒大理石の象嵌(ぞうがん)によるアラビア語のコーランに讃えられ、内部へ立ち入る者を無言で圧倒する大きな暗蔭(あんいん)(はら)んでいた。


 ナーギニーは廟の外壁をぐるりと巡りながら、過細い声でシュリーの名を呼び続けた。初めに見えた地下の空洞がもう一度現れた時、彼女を見つけられずして一周してしまったことに気付き、途端途方に暮れ立ち尽くした。


「シュリー……」


 小さく呟いたそれを最後に、もう言葉は発しなかった。大粒の涙が硝子(ガラス)玉のように幾重にも頬を伝う。次第に肩が上下に波打ち、すすり泣きが唇を震わせた。


 生まれては落ちる涙は止め()なく、もはや止める方法も分からなかった。きっと数秒・数分である筈なのに、何時間も泣いているような錯覚に陥ってしまう。それでもナーギニーはひっそりと泣き続けた。はぐれたシュリーを置いて帰る訳にもいかず、また涙に溺れる(まなこ)は、この暗がりの中で仮宿舎を探すにもおぼつかない。袋小路に追い詰められた小動物のように彼女は泣きに泣いた。泣き声でシュリーが気付いてくれれば……その望みを一心に注いだ──。




挿絵(By みてみん)




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