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[誘惑]

「……な……ぜ」


 ──何故、私のことを知っているの?


 本当はそう問いたかった。が、見知らぬ人間と話したことのない彼女には上手く言葉が続かない。それでも意味を悟ったシュリーは、握り締めた手を放しニコリと笑んだ。


「ガネーシャ村のナーギニーを知らない人なんていないわ。男性はみんなあなたの(とりこ)なのよ。窓の外を眺めるあなたを一目見る為に、はるばる遠くからやってくる人もいるのだと聞いたわ。気付いたことないかしら? 噂には聞いていたけれど、あなたを見てすぐに分かったわ。やっぱり他の女性とは違うもの。きっとクルーラローチャナ一族にも、あなたの評判は届いているに違いないわ! あっ……」


 シュリーは興奮気味に理由を語ったが、しかし刹那に勢いを(しぼ)ませた。


「……ごめんなさい。緊張させるつもりなんてなかったのよ」


 黒檀の瞳を覆う長い(まつげ)が、雨の如く降り注ぐ。ナーギニーにプレッシャーを与えてしまったこと。それを深く詫びている気持ちは、心の機微に幾度も触れたことのないナーギニーでさえも気付けていた。


 ──けれどそんなこと、本当にあるのだろうか?


 ナーギニーはシュリーの話した全てを信じることが出来なかった。自分の知らない誰かが自分を見つめ、それが()の一族にまで知れ渡る──少女は考えを巡らせることもなく、すぐさま否定をした。ただ生きているだけの何も出来ない人間に、誰が注目するというのだろう。何も出来ない──いや、したことがない、させてもらったことがない、というのが実のところだが。


「あ……」


 頭に浮かんだ反論と、言われたことを「気にしていない」との答えを、早く伝えなければという想いだけが先走って、唇から言葉にならない声が零れていた。反省の面差しのまま目の前の少女へ顔を戻したシュリーは、困ったように俯くナーギニーの、切なく(かぶり)を振り続ける様子に気持ちを改めた。


「ありがとう、ナーギニー。あなたは優しいのね」


 思いがけない返しの言葉に、咄嗟に視線を上げるナーギニー。(まばゆ)い光を集めたシュリーの微笑みは、甘くとろける蜜菓子(グラムジャムーン)みたいだと少女は思った。それを喉へ通した時に味わった面映(おもは)ゆい何かが胸の内に広がっていく。


「ねぇ……あなた、舞台は明日でしょ? わたしもなの。開始時刻は何時?」


 シュリーはナーギニーの寝台に並んで腰掛け問いかけた。月に照らされた彼女の横顔は、ナーギニーのそれより僅かにふっくらとし、弓なりの鼻筋はまるで三日月のように美しかった。


「……五、時……半」


 その質問に何とか答えてはみたものの、と共に消えていた震えが呼び戻されていた。明日……夜が明ければ、逃れられない歯車が動き出してしまう。


「随分遅い時間なのね。でも夕暮れ時は人をより美しく見せるし、涼しいから踊りやすいわ。わたしなんてきっと炎天下の真っ最中よ。汗でお化粧が崩れちゃうわ」


 シュリーは舌の先を軽く出しておどけてみせた。ナーギニーに明日への不安を甦らせたのは彼女であるのに、その仕草には憎めないところがあり、同時に心の安らぎを与えたのも彼女であった。


 シュリーの淡い紅茶色の腕には、インド人特有のふくよかな丸みと骨っぽい細さが入り混じり、妖艶な色気を醸し出している。光は若い肌の張りを示しながら影も作り、闇に溶ける鎖骨の凹凸は、息遣いの度に甘い香を立て波打った。


 陽の光の下の彼女もきっと麗しく、数多(あまた)の男性を惹きつけるのは間違いない。ナーギニーも自分とは別の美しい姿に心魅かれたが、シュリーの魅力はもっと違うところにあるような不思議な感じがした。彼女のナーギニーを映す綺麗な瞳は、温かみのある慈愛に満ちていた。


「……ナーギニー……」


 しばらくの沈黙の後、耳元で(ささや)かれた(ひそ)やかな声に、ナーギニーはハッと我に返った。慌てて向けた鼻先が触れそうなほど、シュリーの(おもて)は少女に寄り添っていた。


 先程までの穏やかな微笑みとは違い、何やら悪戯(イタズラ)っぽい顔つきでナーギニーを見つめている。薔薇の花弁のような厚みのある赤い唇が、その理由を語る為に白い歯を見せた。


「あなたはずっとお家の外へ出たことがなかったのでしょ? きっと夜のタージ=マハルを近くで見たことがないのだと思って。満月のタージ=マハルほど美しい物はないと言うわ。今夜は松明(たいまつ)も灯されているし、もっと綺麗だと思うのよ」


 ナーギニーは余りの近さに身動きが取れないほど動転した。視線もシュリーの(おもて)から一瞬も放すことが出来ず、その場に縫い付けられてしまったかのように固まった。


 吐息すら吸い込んでしまいそうに近いシュリーの口元から、まるで魔法を掛けられたような魅惑の言葉が紡がれる。母親の顔ですらこんなに傍に感じたのはいつのことだろう? ナーギニーは過去を巡らしながら、目の前の呟きに知らず同意の頷きを返していた。


「……でね。今夜は絶好のチャンスに違いないと思うの。……どう? 一緒にタージを見にいきましょう?」


「……え……?」


 ようやく魔法が解かれた唇から、流れ落ちた声は驚きだったのか、疑問だったのか──まだ理解出来ていない内に現れたそれに、自分自身驚き問うていた。ゆっくりとシュリーの台詞(セリフ)を噛み砕いたが、そうしてみても、やはり存在したのは驚きと疑問だけだった。


「あなたに見せてあげたいのよ。普段は夜に出歩くなんて危なくて出来やしないわ。でも今夜なら……わたしも小さい頃に見たきりなの。ちょっとだけでいいから……お願い!」


 シュリーの悪戯な瞳はこれだったのだ。ナーギニーは気付かされて唖然とした表情を見せた。数秒後やっと自分を取り戻し、先程と同じく(かぶり)を振って「無理だ」ということを必死に伝えた。


「ちょっとぉ、だあれ!? うるさくて眠れないわ。お喋りなら外でやって!」


 シュリーのおねだりにとうとう向かいの寝台からクレームが投げられて、ナーギニーはその声に怯え、シュリーの腕にしがみついた。「ほらほら、外に行きなさいって言われているわ」──見上げた先のシュリーが意地悪そうに目配せをし、枕元の紅いサリーをにこやかに手渡す。困り顔のまま強引に受け取らされたナーギニーは、鮮やかな碧のサリーに着替え出したシュリーに続けて、仕方なく自分もそれを身に巻き付けた。


 既に周りの少女達は、安らかな眠りとうたかたの夢に包まれていた。その間を二人の少女は静かに足早に過ぎ去った。


 しかしナーギニーは(のち)に知ることになるだろう。


 明晩、大会の後の舞妓(デーヴァダーシー)として踊る際、月夜のタージが望めるにも(かか)わらず、彼女がこの日に限って()いた訳を──。




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