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[羅刹]

 シャニのたった一声で、人々は神輿(みこし)を担ぎ、音楽を奏で、行列を連ね、露店を再開した。或る者は儀式の支度に取りかかり、また別の者は舞踊大会の準備を始める。彼らは先程の沈黙など忘れてしまったように自身の仕事に勤しみ出した。まるで全てが決められていたかの如くクルクルと展開していく(さま)は、目まぐるしく動き回る人ごみの中、母親の腕にひっしとしがみついたナーギニーだけを独り取り残し、順応させる余裕さえも与えなかった。


 一方シャニは大勢の家臣や媚びへつらう群衆に囲まれながら、今度はお付きの少年ではなく、チャドルと呼ばれる黒衣を身に着けた正妻らしき女性と共に馬を巡らせた。彼の周囲には必ず(おも)だった世話役が(はべ)り護衛する──時には妻、時には妾、時には……? シャニは絶対者であり、神に次ぐ者であり、どのような願いも望みも有無を言わせず強要する。が、そうした行為に逆らうことの出来ない訳は、シャニの権力というよりも、金力によるものだろう。その財産は(いにしえ)の王達を数十重ねても及ばない。


 祭りは華やかに始まり、あらゆる方位からシタール、ヴィーナ、タブラ、シャハナイといったインド独特の音色が弾き出され、猿や熊、コブラなどの芸や技も各処で披露されていた。舞踊大会とは異なる小さな舞台では妖艶な女が舞い、貧弱ながらも派手派手しく(しつら)えた屋台からは、香辛料の強烈な香りと古臭い油の匂いが漂ってくる。神輿を先頭に長くくねる巡礼の中には、シヴァ神に自身を見立て、長い髪を頭上で結い、蒼い灰で身を包み、毛皮と数珠を束ねた苦行者の淫らな裸体が幾つも見受けられた。


 ナーギニーにとっては、直視出来る者など何一つとして無かった。貧しさ、汚らわしさ、いかがわしさ……目を背けずにはいられぬ砂絵の真中で、唯一美しいと感じられる象徴──タージ=マハル。その基壇上からちょうど良く眺望出来る眼下に、熱く焼ける砂を綺麗に(なら)した大会専用の舞台が設置され、周囲には今か今かと待ち焦がれる観衆の壁が出来上がっていた。


「そろそろのようね……さ、行きましょ、ナーギニー」


 開催間近と悟った母親の手は、肩から流れるサリーにすがる柔らかな指先を(ほど)き鷲掴みにし、拒む声すらも出すことの出来ない少女の身体を引き寄せた。


 観客席は計三部に分かれている。クルーラローチャナ一族専用の特等席・一般観覧席、そして出場者の関係者に与えられた簡素な無料待機席。もちろんシャニと正妻には基壇上に豪華な玉座が整えられ、また有料席からあぶれた民と、その代金も払えない貧しい人々で、立ち見の山が出来るのは必至だった。


 ナーギニーが連れていかれた無料待機席のすぐ右隣には、踊り子達の為の更衣室が設けられていた。形だけは何とか更衣室の名を留めているが、歪んだ支柱四本で支えられただけの貧相な天幕である。褪せた綿布を無造作に重ね合わせた入口の隙間からは、色とりどりの舞踊衣装が揺らめき、様々な色の肌がちらつき、ひそひそと話す声や驚いたような奇声が発せられていた。


「ねぇねぇ、背中のホック留めてったら」


 褐色の娘が背後の母親にささやいて、応じる指先が垣間見えた。笑い声もあれば、緊張の余り泣き出した者もいる。歯の欠けた大きな口。睨みつけるようなギョロリとした()。ナーギニーにとっては全てが異質であり、受け入れる方法など到底見出せない。更に辺りを見渡せば、そのような人波が舞踊を楽しみに期待を膨らませながら、席に腰掛け談笑しているのだ。一度の経験もなしに幾千もの(まなこ)に晒される明日の午後、自分はしっかりと舞うことが出来るのか──いや、ナーギニーにはもはやそれすら考える余地もなく、ただ一心に「この場から逃げ出したい」という欲求の渦に呑まれていた。けれどそれが不可能である以上彼女の出来る精一杯のことは、誰にも見つけられないようにひたすら身を縮込ませることだった。


 やがて(ソーマ)は満ちた状態で現れ、逃げる太陽(スーリヤ)を淡く照らし出した。天と地と墓廟が真っ赤に染め上げられた夕暮れ、タージの左右には白と赤の真円が遠く並ぶ。方形の舞台四方に松明(たいまつ)が灯され、複雑な揺らぎは砂粒一つ一つに小さな影を作り出した。


 炎・光、そして闇と影の凹凸。砂以外に何ものも存在しない空間さえ、何処か高尚に見える。


 騒めきは次第に薄らいでいった。始まりの雰囲気を醸し出す演出だろうか。ついには沈黙に包まれた会場で、ずっと目を閉じたまま玉座に坐していたシャニは、一つ深い息を吐き勢い良く立ち上がった。


 両腕を大きく広げ高々と掲げる。あたかも獲物をとぐろに巻き込んだ大蛇の如き貪欲さと快楽の微笑。囚われし民衆が捕獲者の力に屈した時、彼はようやく声を発した。


「さぁ、集まりたる紳士・淑女の各々方よ! 今一度、(うたげ)を盛り上げようではないかっ!!」


 嬉しそうな王の叫びに、民は再び歓喜の声で呼応した。果たして舞台奥の暗がりから、地響きのような太鼓の音が紡がれ始める。闇の(うごめ)きから突如紅い点が生まれ、徐々に辺りに染み渡り、それは一瞬の内に舞台の中心に踊り出で人型を造った。実際には紅い布を被った少女が、それを()ぎ取り踊り出したに過ぎない。典型的な南インドのどぎつい面持ちをした少女は、光沢のある茶色い細腕と骨張った胸を揺さぶりながら、視線は情熱的にシャニへ向け、激しいダンスを展開していった。


 身長はそれなりに高いが、ナーギニーよりずっと年下に思われる。鋭い動きの中に幼さが残り、それがむしろ妖しさを引き出している。固唾(かたず)を呑み注目する観客の中、中盤を迎えた踊りは更にスピードを増し、回転を多く取り入れた痩せぎすの足は、舞台の隅々までを余すことなく踏み締めた。


 少女の瞳はもう何処も見ていなかった。極度の緊張感が自己を内に閉じ込めたまま、ただ一途にくるくると回り続ける。制限時間を知らせる笛の音にも気付かず、終盤を通り越しても止まることを受け入れぬ肉体。汗に覆われたその全身は満足感と狂気に充ち溢れ、やがて何かに取り憑かれたように甲高く叫んだ。足跡だらけの砂の上に少女はどさりと倒れ、完全に意識は事切れていた。


「ラクシャシニーっ! あんたって子は!!」


 観客全員が総立ちとなり、どよめきが頂点に達した時、一人の太った中年女が大の字になった少女の元へと駆け付けたが、叫ぶや失神したその頬を容赦なくはたき出した。ナーギニーの母親同様、娘だけを頼りに裕福な未来を望んだ母親──緊張と重圧に(さいな)まれ倒れ伏した娘を気遣うこともなく、ただ怒りと失望を打ちつける──その光景は、辺りに佇む全ての民にどのような波紋を描いたのだろうか。


 ──……あの()、これからきっと……奴隷のように働かされるのだわ……そして、私も……。


 ナーギニーは明日の自分をラクシャシニーと呼ばれた少女に重ね、ふと自分の母親の横顔を見上げた。


 彼女の眼は、既に運ばれ少女の居なくなった舞台の中心、地面を均す掃除夫の(もと)、滑らかに輝き出す砂を見つめ冷やかに冴えていた。


 しかし口元だけは、邪魔する者が一人でも減ったことを喜ぶように(かす)かに吊り上がり、それこそ真の羅刹女(ラクシャシニー)に変わっていた──。




◆以降は2015年に連載していた際の後書きです。


 いつもお世話様になっております。お付き合い誠に有難うございます!


 第二話[少女]の回で「美女」という言葉のルビを「ラクシャシニー(羅刹女)」にしたのですが、今話で使う為に「美女」の方は「モハーナ(魅了する者)」に変え、こちらで本来の「羅刹(鬼神・人を惑わし食らう魔物)女」として利用させていただきました。


 書きながら更新故、そうした訂正は今後も多々あると思いますが、どうぞご了承くださいませ*


   朧 月夜 拝




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