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■かつて(読者様にとっては現代の)タージ=マハル■


挿絵(By みてみん)




 タージ=マハル──。


 象嵌(ぞうがん)と呼ばれる精密な手法により、数多(あまた)の宝石を大理石に封じ込めた、あたかも白亜の宮殿と見紛(みまご)う荘厳な妃の墓廟。


 この世界的遺産は一六五三年、ムガール帝国第五代皇帝シャー・ジャハーンの、愛妃ムムターズ・マハルに注がれた大いなる想いから完成された。背後には今は涸れ朽ちたヤムナ河と、殆ど姿を残さないアグラ城を伴い、砂の海と化したなだらかな大地に悠然と立ち(そび)えている。以前は左右対称に赤砂岩のモスク(マスジド)迎賓館(ミフマーン・カーナー)、前方にはタージ全体を映す噴水に、二十二年という建築の歳月を表す大楼門を(たずさ)えていたが、永い砂の侵略によって影さえも失われてしまった。が、墓廟本体(マウソレウム)はこのインド=イスラム建築が最高傑作であることを誇るが如く、風化をものともせずにいる。四方にそそり立つ四本の尖塔(ミナレット)と玉葱型をした大小五つのドームは、まるで最後の炎を灯した真白い蝋燭のようだ。


 ナーギニーとその家族五人は、照りつける太陽の下を静かに進みながら、やがて目的地に集まる黒い塊が「人」と判別出来る距離まで近付いていた。


 ナーギニーの大きな、しかし外界など直に通したことのない純粋な瞳は何を見たのだろうか。そして蓮のように開かれた小さくふくよかな耳は──。


 『圧倒』──ただ一言でしかなかった。


 様々に着飾った老若男女。美しい民族衣装を身に着けた若い女性も居れば、汚れた麻を巻き付けただけの白髭の聖者(サドゥー)も居る。シヴァ神を祀った大きな神輿(みこし)が、砂埃を上げながら若い男衆に担がれ、それは人々の渦の中へ消えてゆき、また現れるという輪廻の繰り返しを行なった。偉大な白銀のタージ=マハルは、ナーギニーにとって窓から見える風景の一部であり、誰がこのように大きく立派であると想像し得ただろう。見たこともない動物・見たこともない楽器・見たこともない食べ物……更に否応なく吸い込まれてくる音楽・言葉・笑い声……身を取り巻く熱気だけでも眩暈(めまい)を起こしかねない状況に加え、矢継ぎ早に重ねられる強烈な初体験の全ては、少女の(つや)やかな(おもて)をつぶさに蒼褪めさせた。


 中央広場で動物達の大道芸が披露される中、クルーラローチャナ一族の到着予定時刻は無情のままに過ぎ去っていった。人々の(まなこ)はみな砂の城の地ヴァーラーナスィーの在る東へ向けられたが、何者も隠すことのない砂漠の彼方には、風に飛ばされる枯れ葉の一片さえも見つけることは出来なかった。


 焦りの生じた民は徐々に活気を失い、ひたすら目を凝らし立ち尽くしてしまう。今期の祭礼は本来の目的から大きく逸脱している──寵姫(ちょうき)選良披露の州代表選考。参加する少女達はシャニの視線を引き付け、心をも惹き込ませようと振舞わなければならない。が、そのシャニが存在しなければ──もはや祭りは祭りでなく、王をもてなす(うたげ)と化していた。


 それから数十分が流れ去り、皆の焦燥が頂点へ達した頃、黄砂の景色から一陣の風が舞い戻った。一族の進捗(しんちょく)を様子見に馬を走らせていた伝令が、汗と砂にまみれ手を振りながら、何かを叫び駆け寄った。


「きっ……来たぞー!」


 ようやく言葉となった伝令の大声に、途端呼応し発せられる、待ち焦がれた民の歓迎の騒めき。声、声、声……! ナーギニーは渦巻く音の波に、呑み込まれるような恐怖を(いだ)き、母親のサリーにしがみついたまま必死に両耳を塞いでいた。


 やがて左右前後から浴びせられた歓声の震動は掻き消え、街は神秘的な静寂を作り出した。不思議な雰囲気が少女の動揺をそっと鎮め、視力と聴力を機能させる。おもむろに顔を上げ、ヴァーラーナスィーの方角を見つめた。


 地平線の先、陽炎(かげろう)に歪んだ灼熱の空間に、黒く小さな点が確認された。それは少しずつ大きくなり、馬や駱駝に乗った人型と認められるや否や、気付けば霊廟の手前に立つ群衆の真中へ溶け込んでいった。


 まさしく「息を呑む」光景だった。そして全ての人々が「息を呑んで」しまったのだ。


 一族の白い衣を(まと)った男達と、黒い衣装に身を包んだ女達の、単彩(シンプル)対比(コントラスト)が美しく響き合う。重臣・侍女合わせて百を越える人数に、それぞれ伴う乗用家畜達は反面、色鮮やかな絹や宝石で飾り立てられ、まるで異国の遊牧民を思わせるいでたちだった。


 驚く程の数と姿に民衆が度肝を抜かれている間、一団の隊形は変貌を遂げ、先端より二手に流され中央が開かれた。『家臣』という名の城壁に守られた『砂の城』──シャニ=アシタ=クルーラローチャナ三世、その人──。


 消極的な色彩でまとめられた一族の中にあって、シャニだけは豪奢(ごうしゃ)な装いが眩しくすら思われた。赤みがかったオレンジ色のターバンには、虹色の孔雀の羽根が飾られ、上質な絹の白いクルタの上には、(みどり)の地に金糸の刺繍が煌びやかなベストを羽織っている。両手全ての指には金・銀・宝石が通されて、彼の(またが)った白馬にも、カシミール産のきめ細やかなカシミヤ毛で編まれた真紅の鞍が装着されていた。栄華の一部を切り取ったかのような絢爛(けんらん)豪華な身姿は、其処に佇む全ての声を黙らせた。


 シャニは傍らに付き添った痩せた少年に手綱を引かれ、人の波間を通り過ぎ、タージ=マハル基壇の真下までやってきた。呆然自失した大群は皆シャニに魅せられ、シャニに吸い込まれるように華やかなその背を見つめる。──シャニをか? いや、シャニの『財産』を、だ。


 けれどサリーの裾で顔と髪を隠し、萎縮しながらじっと固まるナーギニーにとって、彼の姿は至極不気味な存在でしかなかった。


 身長はかなり低く小太りで、大きく張り出した腹部の為に、鞍に背もたれがなければ今にも後ろへ倒れてしまいそうだ。少々白めの肌には茶色い(まだら)が点在し、太い首はもはや見えない程、垂れ下がった頬で隠されている。人を見下したような皺の集中する瞼の中には、ギョロリとした黒目が鈍く光り、眉は薄く鼻は大きく、唇は何もかもを舐め尽くす炎の舌をチラチラさせた、厚ぼったく大きな『闇の穴』であった。


 民達を背後としたまま無言で墓廟を見上げるシャニは、一体どのような想いを馳せているのだろうか。全てが無とされ、時すらも止められた砂の画布(カンヴァス)に、唯一不動で染み込む生ける彩色。しかしそれは程なくして大きく息を吸い込み、安堵するかの如く深く空気を吐き出した。そして(のち)、彼は振り返る。ゆっくりとゆっくりと、小柄な身体を気高く見せながら。刹那民は直立不動で刮目(かつもく)し、ナーギニーの瞳も魔力に囚われたように視線を上げさせられた。完全にこちらを向き、先程とは想像もつかない大きく変化した双眸(そうぼう)で、シャニは全てを見通していた。 

  

 その照準が一直線にナーギニーの姿を貫く。そんな錯覚に(さいな)まれた少女は、呪縛から逃れる為に出来るだけ小さく身を(すく)めた。


 やがて、シャニは──。




「ごきげんよう」




 ただ一言、そういったように思われた。


 小声ながら良く通り良く響く、低い大人の声だった。張り詰めた静謐(せいひつ)な空間が、半強制的に引きちぎられ消え去る。


 それは何処か夢見心地で起立した人々に、精彩さを取り戻させる、『開始』という名の合図だった──。




挿絵(By みてみん)


■大学時に遭遇した聖者(サドゥー)?■




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