[記憶]
「彼女はどうして王宮に……それに君や僕に会ってもこんな表情なのは……」
──まるでこの国の民のようだ。
暗い石畳の通路を南へ進みながら、イシャーナは隣を歩くシュリーに問いかけた。自分の胸の内のナーギニーはいつの間にか眠りに落ちている。
「わたしも真相を掴むまでに、随分と時間が掛かってしまったわ。やっと原因をつきとめてナーギニーに知らせようとしたら、彼女はシャニの部屋に招かれていて……ボヤ騒ぎを起こして何とか部屋を開けさせたけど、もうシャニの毒牙に呑まれていた」
シュリーの話す王とナーギニーとの関わりに、イシャーナの心臓はドキリと強く震えた。
見える彼女の横顔は険しく、明らかに悔しさが滲んでいる。イシャーナは依然その『原因』の意味が分からず、と共に、シュリーの口調が変わったことも不思議に思い、首を傾げて続きを待った。
「此処へ来てからの数日間、侍女になりすましてあらゆる人物に接触を図ったの。侍女に家臣、時々外へ出ていく侍従や使者、街で働く民衆にも寵姫候補の少女達にも……全てが感情を表に出さず、最低限の返答しかしない……でもそれは魂を失っているのではなく、何処か奥の方へ封じ込められているのだと気付いた。だからナーギニーも自我を奪われた訳ではないわ。今もきっと心の中でもがき苦しんでいる筈。感情を示したいと、想いを伝えたいと……きっとあなたに訴えている筈よ」
「それがシャニ様の仕業だと……?」
静かな寝息を立てる少女の寝顔を見下ろす。シュリーは前方を向いたまま、そんなイシャーナを一瞥して口を尖らせた。
「もうあのシャニに「様」なんて付けるのはおよしなさい。あなたはまだ乗っ取られてはいないけれど、危うい立場であることは確かよ。わたしの推測では、シャニが人を操る為の条件は三つ。あなたも飲んでいたでしょ? 琥珀色の液体を。プラス必要なのは、シャニの唇が身体の何処かに接触すること、最後にその眼を見つめること……この三つの経緯がなされた後、人々は自我を出せなくなった。ナーギニーの話では、寵姫候補の少女達も、庭園散策の初日にシャニから手の甲へ口づけをされたというわ。その時偶然にもナーギニーだけがそれを受けずに済んだけれど……多分そのようなことが先の王室でもあったのではないかと」
「口づけ……」
震えた心臓は、今度は何かに刺し貫かれたような鋭い痛みを発した。
そんなイシャーナの傍らで、シュリーは過去を巡らせていた。あれからゾウに乗って街を闊歩した際も、アムラを摘みに果樹園で過ごした際も、民から笑顔で歓迎され、他の少女達から親切を受けられたのは、きっとシャニの計らいなのだろう。ナーギニーがこの国と、妾妃として見合う者であるということを、彼女自身に信じ込ませる為に──。
「シュリー、君は一体……何者なの?」
ついに白宮の真下まで辿り着き、イシャーナは足取りを止め、シュリーを真正面から見つめた。しかし返ってきたのは、彼女の驚きの眼と意外な返答だった。
「いやぁだっ! まさかあなたまで記憶を失くしているの!? わたしはてっきり誰に聞かれるかも分からないからと危惧して、地上では知らない振りでもしているのかと……! 明日の選良披露で全てを終わりにするつもりなのだと思っていたのに……道理で……今日も動かない筈だわ」
「え……?」
シュリーは独り興奮気味に語り、しかし最後には落ち着いて横目を逸らした。更に意地悪そうな微笑みでイシャーナを見上げてみせる。
「あなたもナーギニーも或る時間の記憶を失っているのよ。正確にはシャニに奪われているの。……思い出しなさい、自分が何者であるのかを。自分の本当の名を。一つだけヒントをあげるわ。わたしはあなたの親友の妻よ」
「親友の……?」
イシャーナの瞳は困ったように瞬いてしまった。これまでの人生で、親友と呼べる友人など出来た覚えがないからだ。
「あなたが全てを思い出せなければ、ナーギニーも救えないわよ。もう選良披露まで一日もない……イイ? それまでに必ず自分の過去を思い出して。あなたが思い出せばきっと彼女も……でも一つだけ忘れないでいて。ナーギニーも自分で思い出さなければ意味がないの。あなたはそのキッカケを作るだけで、彼女の本当の名はどうか自身で思い出させてちょうだい」
「それは……ナーギニーという名も本来の名前ではないと?」
「そうよ。あなたも初めてこの名を知った時、ピンとこなかったのではなくて?」
その言葉に思わずイシャーナはハッとした。確かにあの真夜中の墓廟で巡り会った時、シュリーが叫ぶ彼女の名を聞いて、何かが腑に落ちなかったのはそういうことだったのだ。(註1)
「それじゃあ話しておくけれど、あなたのいう「母親」は、あなたの実の母親ではないから。或る意味もっと大切な存在かもしれないわよ? そして彼女もシャニに操られ、利用されている」
「母が……母でない?」
矢継ぎ早に差し出される衝撃の内容に、イシャーナの心と頭は混乱した。
「ああ……それと。これも記憶を辿る良い手掛かりになると思うから、少しの間なら貸してあげても良いわ。ナーギニーがわたしの為に作ってくれたの。だからどうか大切にして、返すことを絶対に忘れないで」
そうしてシュリーはブラウスの懐から、大事そうに白いハンカチーフを取り出した。ガネーシャの刺繍絵を施したナーギニーからの贈り物。イシャーナもまた貴重な品を受け取るように扱い、シュリーにお礼と約束を交わした。
「ありがとう……きっと思い出してみせるよ」
「健闘を祈っているわね。こちらこそ此処まで付き添ってくれてありがとう。あなたは地上に出ないで、明日まで身を隠した方がいいわ。待っていてくれたら食事を運んできてあげる。シャニはとても抜け目がない……これまであなたを自由にしてきたのは、自我を持ったままのあなたの前で、ナーギニーを手に入れたかったから──ただそれだけよ。苦しみ悔やむあなたを見たかっただけ……でも全てを思い出せば、あなたはきっと……──と、少しお喋りが過ぎたわね。ナーギニーが部屋に戻ったことは、別の侍女を通してシャニに知らせるわ。わたしもそろそろ素性が割れてしまいそうだから、同じように監視の目から離れるけれど」
シュリーは一息にそう告げて、眠ったままのナーギニーを受け取った。腕を肩に回させ、数段の石積みを登り始めたシュリーの背へ、イシャーナは最後に声を掛けた。
「ありがとう、シュリー。ナーギニーの為に……僕達の為に」
軽く床板を上げたところで、光差し込むシュリーの面が微笑む。
「いいえ。わたしはこの子の親友であるのだから……当然よ。だからお願い。必ずこの子を幸せにしてあげて」
振り向きざま頬に陰を纏った彼女に、イシャーナは大きく頷いた。
「ナーギニー……どうか負けないで。本当の自分を目覚めさせて」
シュリーはどうにか少女を階上の室内に運び、寝台にその身を横たえさせた。今もすやすやと眠り続けるナーギニーの右手を取り、祈るように手の甲を自分の額に当てた。
「あ……コ、コなの……? シャニがあなたに触れた場所は!?」
ヒリヒリと灼けるような感覚を得て、眠る少女につい問いかけた。彼女が頷く筈もないが、シュリーは自分の勘に確信を持った。
自身のハンカチーフを取り出し、その甲を優しく拭ってやる。次に少女の胸元からブルー・スター・サファイアの指輪を引き出して、そっとその部分へ触れさせた。
「お願い、ナーギニー……シャニの毒を追い払って」
両手で指輪と右手を共に包み込み、更にそれに自分の頬も触れさせ、シュリーは深い祈りを捧げた。やがて想いと共に溢れ出た涙が、シュリーの指の間をすり抜け、ナーギニーの指も温かく濡らした。
「あっ……そうね、それなら」
或ることに思い到り、今度はナーギニーの唇に自分の頬を押し当ててみた。先程のような熱い感覚はない……これを伝えれば、少しはイシャーナも安心するだろう。シュリーは身を起こし、これからなすべきことに心を向ける。
「……名残り惜しいけど、もう行くわね。明日必ず……彼があなたを助け出すから」
ほんの少し唇を少女の額に触れさせ、シュリーは後ろ髪を引かれながら部屋を後にした。
独り残されたナーギニーの口元は微かに笑み、目尻には真珠のような淡い涙が輝いていた──。
[註1]イシャーナがナーギニーと初めて出逢った場面で、彼女の名に違和感を覚えたシーンは、第二章四話目[遭遇]の以下の地の文にございます。
>「ナーギニーって……いうんだね?」
少女がホッと安堵の息を吐いたことに、青年は気付いたようだった。同じ穏やかな気持ちを含みながら、ゆっくり彼女の名を口にする。しかしその途中で僅かに言い淀んでいたことは、鼓動が耳奥を木霊してやまないナーギニーには気付くことは出来なかった。




