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[祭礼]

 この一週間は何事も起きぬまま、少女にとっては「慌てふためく」ということがどんな様子かも気付けぬ内に、矢の如く光の如く時は飛び去っていった。


 アグラの街はいつになく活気に満ち、一体何処から集まったのかと思わせる程の人々で溢れ返っている。市場の喧騒はヒマラヤの峰へと木霊し、それに応えるかのように雄大な山々が久方振りのシルエットを顕わにした。


 ぼろ(きれ)(まと)った漆黒の民のヴァーラーナスィーへの長い巡礼は、今日は何処へ行っても見掛けることはない。成人した男女の殆どが祭りの準備に駆り出され、特にタージ=マハルの近辺は賑やかにざわめいていた。


 ナーギニーの兄も父の商売を手伝わず、早朝から墓廟の清掃に勤しんでいる。このところ穏やかな気候が続いているが、その中でも麗らかな陽光に照らされるタージ=マハルの煌びやかさは、まるで今日から始まる三日間の成功をほのめかしているようだ。


 インドといえば祭りのメッカであるが、それは遥か(いにしえ)の出来事となった。今はもうそんな出費を補える市井(しせい)は少なく、インド北部ではこのアグラを除いたら、片手の指で足りてしまう。その殆どがヒンドゥ最大にして最強たる救世主シヴァ神への礼節を尽くした祝祭だが、遠い過去の華やかで(あで)やかな出し物は、さすがに多くは見られなかった。


 この二十年に一度の大祭が、ナーギニーの出場する寵姫(ちょうき)選良披露の年と重なったのは、単なる偶然だったのだろうか。


 州代表は通常ならば、容姿・外見を吟味するのみで決められる。が、今年に限っては祭りの余興も兼ね、舞台に立たせた寵姫候補の少女達に、舞踊の美しさを競わせることになった。タージ=マハルの正面に配された空間で、祭りと霊廟の見学に数年振りの来訪を果たす……シャニの目の前でだ。


 めったにないクルーラローチャナ一族の訪問を期して、大々的な改築・改装が行なわれたタージ=マハルは、誇らしい姿を彼らに見せつけることだろう。インド一の──(いな)、世界一の藩王シャニに感嘆の溜息を零させなければならない。


 この一族はシャニを頂きとし、正妃一名、重臣・妾妃(しょうひ)数百名にて構成されている。シャニ自身はヒンドゥのヴァイシャ出身の為、男達はクルタという長尺の上着に、ピジャマと呼ばれる細身のパンツ、頭上には時にターバンを巻くが、一族を特徴づける物はその全身をくるむ白いマントであった。彼らだけが纏うことの許されたしなやかな外套(がいとう)には、シャニを象徴とする土星のマークが縫い込まれている。


 が、妾妃以外の女達の服装は(いちじる)しくムスリムの様式に(かたよ)っていた。肉親や夫以外の前ではブルカと呼ばれる面紗(ヴェール)黒いマント(チャドル)を羽織り、顔や身体を覆い尽くす「パルダー」という習慣を崩すことはなかった。(註1)


 これにはシャニの王として君臨した経緯に理由がある。彼の若かりし頃、ムスリムには禁忌とされる占いの術師によって、シャニはかつてのラジャスタン、その地域に繁栄をもたらした大藩王(マハーラーナー)の財宝に導かれた。そうして砂の城を建造するまでにのし上がった恩恵が、ヒンドゥでありながらムスリム文化を擁護するという、宗教の壁をも越えた思念に表わされていた。


 ムスリム美術の代表ともいえるタージ=マハルを深く愛する一方、彼は伝統的な刺繍の散りばめられた民族衣装サリーの美しさや、(なま)めかしい指先の仕草が誘うインド舞踊をこよなく愛した。故に集められた妾妃は淫らに肌を晒し、全身を着飾り、毎夜シャニの為に舞姫の如く、全霊を捧げて踊り明かすのだという。


 だがこれは民衆に広められた語り草で、誰一人見た者は居ない。


 祭りの始まりは一行の到着予定である夕暮れとされていた。期待に胸膨らませ急ぎ支度を進める家族とは裏腹に、ナーギニーの心は暗く恐怖に怯えていた。寵姫として選ばれた後には、もちろん王宮で舞えねばならない。そのため彼女の午後の日課には、舞踊の稽古も組み込まれてはいた。しかし人目に晒されたこともなく、母親相手に練習した程度の彼女が、舞踊大会に集まった幾つもの険しい視線の中、その舞台へ進み、舞い、シャニの心を勝ち取れるのだろうか。


 一族が訪れるとの情報が流れてから、街はまるで別人のように変わり、少女の母親も例外ではなかった。彼女は遠くジャイプールの絹商人に渡りを付け、格安で手に入れたそれを二晩で仕上げた。品質も良く光沢も輝かしいが、胸と腰の辺りのみ先を通さず、以外は全て身体の線が見通せる、如何(いか)にもシャニに()びている風がある。流石に宝飾までは新調出来なかったので、今ではもう数少なくなった曽祖母の形見を貰い受けることになった。


 少女の美しさはそれらによって益々惹き立つであろうが、何とも嫣然(えんぜん)とした装いに、外界への拒絶反応は増大せざるを得なかった。


 ナーギニーはその衣装を手に取れぬほど苦痛を感じたが、切ない瞳で訴えるのみでは訂正される筈もなかった。ウッタルプラディッシュ州の若い娘を持つ親達は、何処(いずこ)も皆この調子だ。現に容姿に自信のない娘でも、妖艶な衣装と舞踊の技術で「あの(、、)シャニ様を魅了してごらんなさい」と、大会への志願者はいつの間にやら数百にも及んだ。


 仕方なしにある程度の振るい落としがなされ、厳選された七十人の少女に絞られた。もちろんナーギニーも余裕で含まれている。初日は一族到着を皮切りに二時間、二日目と最終日は午前と陽の和らぐ午後四時より三時間を取り、一日合計六時間となる。ナーギニーは抽選の結果二日目の後半に順を得たが、祭り初日当日となっても、覚悟の定まる余裕などありもしない。


 開催時刻間近の頃、清掃を終えた兄がようやく帰宅をし、ナーギニーを除く家族全員がにわかに活気づき出した。予選通過に意気込みを見せつつ出立の準備がなされていく。


 母親は自分のことなどお構いなしに、ナーギニーの支度に念を入れた。色白の肌に黒く大きな瞳と小さく纏まった紅い唇、それらを更に強調させた化粧に、ヒンドゥの結婚式を思わせる金糸の刺繍が刺された真紅のサリー。飾ることの出来る全ての部位には黄金の装飾が施され、細身のナーギニーにとっては、それらは重いようにも感じられた。漆黒の長く艶のある、堅く編まれた()()(しん)のような髪は美しくたゆたい、後ろ姿さえも神々(こうごう)しい(まばゆ)さを発したが、その揺らぎはあたかも彼女の心の奥底を示しているようだ。


 一族の目指す墓廟の周りが祭りの参加者で溢れ返った頃、ナーギニーの家族も万事整い、父親が勢い良く扉を開け放った。


「ナーギニー、とうとう貴女の出番が来たのよ……」


 母親は優しく甘い口調で、けれど視線はあくまでも厳しく、ナーギニーの小柄で柔らかい人形のような足に、革のサンダルを履かせてやる。


 少女はもういつ触れたのかも分からない熱い砂を──それ以上に焼ける砂塵を、身体に晒すことになるとも知らずに、ゆっくりと踏みしめつつあった──。




[註1]ムスリムについて:非常にデリケートな時期(元々今作は2015年に連載しておりました)でありますので、少々戸惑いましたが・・・こちらの作品はもう二桁の年数昔に思いついた構想でございます。タージ=マハル自体が遠い過去の建造物とは云え、ムスリム美術の賜物(たまもの)である為、以前のプロットは変えずに掲載させていただきます。作者自身は宗教思想や観念に対し偏見や他意は有り得ず、一文化と捉え使用していることを何卒ご理解ください。




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