[脅迫]
「貴女は……残念ながら私ではなく、我が息子に好意を持っている……」
シャニはゆっくりと呟き、それから撫でる手を止めた。
「い、いいえ……そのようなことは決して」
包み込まれたままのか弱き手は、まるで人質に取られた幼な子のようだ。即座に否定はしたが、王の真実を確かめるような面差しには、瞳を合わせることは出来なかった。
「貴女はお優しい。私を傷つけまいと必死なのですね? どうぞお構いなく……イシャーナが若く美しく、誠実であることは私にも分かります。貴女が惹かれるのも致し方ありますまい」
「……」
ナーギニーはどういう表情をして良いのか分からず、深く俯いて押し黙ってしまった。依然右手は胸元の高さで、シャニの両手に囚われている。
「ですが……息子も成人して久しい。そろそろ外へ出そうかと思いましてね。最近何処の管轄を任せようか思案しているところでした」
そうして再び手の上をかき混ぜ始めたシャニに、少女の呼吸は止まりそうになった。
「私はどうしても貴女を手に入れたい……もはや手段を選んでいる場合ではないのです。貴女が私を受け入れてくだされば、イシャーナを貴女の故郷アグラの領主に任命致しましょう。さすれば、貴女が時々故郷を訪れる際、再会することも叶う筈。ですが……貴女が拒むのであれば……ガンガーの源流近くガンゴートリーにでも追いやってしまおうかと。あの地はヒマラヤから吹く渇いた風が、とても冷たく厳しいそうです。……温室のようなこの国で育った息子など、ひとたまりもありませんな」
「そ……んな──」
衝撃を小さな肩に突き落とされたナーギニーは、それでも幽かに言葉を発し、何とか顔をもたげてみた。途端視界を埋め尽くす斑な笑顔。不敵な微笑みが、必ずそれが実行されるであろうとの確信をもたらしていた。
「ナーギニー、明日……私の指名を受け入れてくださいますね?」
今一度同じ文言で囁かれる問い。けれどせめて明日までは、心だけは奪われたくない──ナーギニーは答えを急ぐ王に、正式な返事は避けようとした。
「どうか明日、シャニ様がお言葉を発するその時まで、私の返答はお待ちくださいませ。今こうして私を気に入ってくださっているとしましても、一夜を過ぎればシャニ様のお心も変わられるかもしれません」
「私の気持ちはきっと同じだと思いますが」
苦笑いをしながらも、シャニは今この時点での求めはこれ以上しなかった。が、なかなかその手を放す様子はない。少女の困惑が唇を震わせ始めた。恐る恐る指先を引き戻そうとしたが、王の手は更に伸ばされ、か細い手首を握り締めた。
「では、明日への希望を私に与えてください。この滑らかな貴女の手の甲に、どうか口づけを捧げるお許しを」
そう言ってひとたび清らかな肌を一撫でする。これ以上王の望みをはぐらかせないと諦めたナーギニーは、さすがにその願いを受け入れた。
「有り難き幸せ。美しい姫よ」
ニィと口角を上げた王の顔が前傾し、ナーギニーの右手に近付いてきた。生温かい吐息が吹きかかり、思わず瞼を瞑ってしまう。次に軟体動物のような湿った皮膚が、ついにそろりと押しつけられた。途端、触れた部分から発生した電流のような痺れが、放射状に放たれ全身を駆け巡る。自由な左手をグッと握り締めたその時──抑え切れない内からの痙攣は、彼女の奥底から何かを引き出してきた。この感触は……ずっと昔に知ったことのある記憶だと──!
「あ……あぁ……」
長い接吻がようやく離れ、ナーギニーは目を見開き、苦しそうな声を洩らした。
「ナーギニー……いや、『○○○○○○○○』……。私の眼を見なさい」
頭上からの命令口調に、そうしたい気持ちは存在せずとも、身体が従おうと首を反らした。視界には王の嬉しそうな口元が、そして大きな鼻先が、そして──
「うっ……あ……はぐっ――!」
二つの淀んだ琥珀色の光が、ナーギニーの双眸から無理矢理侵入する。それは先程の電流のように全身を流れ、彼女の感情・意識・思考を『記憶』の湧き上がってきた奥底へ閉じ込めてしまった。
「これで『貴女様』も……ついに我が国の一員です」
シャニはもう一度ニィと嗤い、まるで人形のように動かなくなったナーギニーの頬に触れた。少女の瞳は淀んだ光に吸い取られてしまったが如く、輝きを持たず生気も失われている。
「ナーギニー、明日……私の指名を受け入れてくださいますね?」
問われる三度目の質問と共に、シャニの唇がナーギニーのそれに寄った。
「わ、私は……シャニ様の……」
──ご指名を、受け入れます。
そう綴られる筈の口元を、まさに奪い取ろうとした瞬間──
「シャニ様! シャニ様!! 火事でございます! 早く此処をお開けください!!」
回廊へ続く扉が勢い良く叩かれ、女性の必死な叫び声が響いてきた。
「火事だと……? そんなバカな! 火元は何処だ!?」
あと一歩でナーギニーの唇を手に入れるといった刹那、邪魔をされた王は苛立ちながらサッと立ち上がった。扉に近付き開いた途端、灰色の煙が一気に押し寄せる。
「シャニ様、どうか急いでお逃げください! 火元はこちらの隣室でございますので、どうぞあちらからっ」
目の前に現れた若い侍女はサリーの裾で口元を覆い、すぐに逃げる方向を指し示した。辺りに充満する煙は焦げ臭く、確かに火元とされる隣室から溢れ出ているようだった。
「待て、奥にナーギニーがいる。彼女を一緒に──」
「わたくしがナーギニー様をお救い致します。シャニ様はまずご自分の御身を!」
後に続いてきた家臣達が王を助け出そうと両際に侍り、その腕を急くように掴まえた。
「私は良いのだっ、とにかくナーギニーを……! いや、貴様……侍女ではないな!? 何者だっ!!」
両腕を抱え込まれ、既に脱出口へと導かれたシャニの面が、侍女を捉えようと足掻きながら振り返った。が、紫色のサリーがひとひら揺らめいて、その姿は王の部屋へと消えてしまった。
「ナーギニー? ナーギニー! 良かった……無事だったのね!!」
シャニを欺いた侍女姿のシュリーは、煙で覆い尽くされようとする部屋の真中、椅子に腰掛けたままのナーギニーをすぐに見つけた。喜びを口にしながら駆け寄ったが、当の彼女はそちらへ目を向けることもなく、ただ無言で佇んでいた。
「……一足、遅かったのね……」
伸ばした両手を愕然と垂らし、消沈とばかり首を曲げ立ち尽くしてしまう。
「いえ……ともかく逃げましょう、ナーギニー。この煙はわたしの細工だけれど、早く出ないと追手が来るわ」
何とか自分の気持ちと少女の身を持ち上げ、シュリーはナーギニーの手を引きながら煙る回廊を走り抜けた。階段を降り、正面出口を目指すべく身体を向けたが、その矢先横からの声に足を止められた。
「ナーギニー……? 君は一体──」
階上からの噴煙を見つけ駆けつけたのだろう、振り向けば焦燥を抱えたイシャーナが立っていた。
「イシャーナ様! 良い所に……わたしは……「シュリー」です」
「シュリー? 君……生きていたのか? 此処へはどうやって……」
驚きのイシャーナに頷くシュリー。だが説明などしている場合ではなかった。
「まずはナーギニーを部屋に戻したいのです。外の様子を教えてください」
シュリーの真剣な眼差しは、問いかけるイシャーナの二の句を黙らせた。一度出口を振り返り、イシャーナは落ち着いて言葉を継いだ。
「シャニ様は煙を吸い込んだのではないかと心配され、迎賓館に運ばれたが、正面口には家臣や侍女、寵姫候補の少女達が集まっている。もし人目に触れたくないのなら、宮殿への秘密の地下通路があるから其処へ案内しよう」
「ではそちらへ。申し訳ありませんが、ナーギニーを運んでいただけますか?」
イシャーナはその申し出に、ぼんやり立ち止まったままのナーギニーを抱え上げ、階段の陰となる床板をめくり上げて、早速シュリーを連れ立った──。




