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[権化]

「ナーギニー?」


 夕暮れ前には雨は止んでいた。照らされた瑞々しい風景が、朱色に染まって闇に沈む。バルコニーの手すりに並んだ透明な水玉は、次第にマンダリン・ガーネットの輝きを帯び、やがてブルー・スター・サファイアの碧い色と溶け合い、涙のように落ちていった。


 夕食後現れたシュリーは、佇む少女を不思議そうに見つめた。その表情が溢れんばかりにニコニコと微笑んでいたからだ。首を(かし)げながらゆっくりと近付いたシュリーに、ナーギニーは後ろに回していた両手を勢い良く差し伸べた。


「あのっ……シュリー、これ……使ってはもらえないかしら……?」


 目の前に現れた封筒に、瞳を見開き丸くするシュリー。驚きつつも同じく両手で受け取り、中身を取り出して「あっ!」と声を上げた。


「ナーギニーったら……いつの間に完成させたの!? それも素晴らしい仕上がりだわ……でも、使ってって……?」


「まだまだ未熟で恥ずかしいけれど……初めての作品は、シュリーに使ってほしいと思って……」


 はにかみ俯いたナーギニーの口元は、それでも嬉しそうに弧を描いていた。柔らかみのある白い綿布は吸水性も良く、ハンカチーフとして使うには最適だ。しかし上質な絹糸をふんだんに用いた繊細な刺繍絵は、(がく)に入れて壁に飾っても十分な程に芸術的であった。


「そんな……もったいないわ! それにわたしはてっきりイシャーナ様に贈る物なのだと……」


 その申し出にシュリーは慌てた様子を見せた。まさか自分への贈り物だとは思ってもみなかったのだろう。


「飾ってしまっては傍に置いてもらえないもの……それに私は、シュリーに使ってもらいたいの」


 返そうとするシュリーの手を制し、ナーギニーは懇願の眼差しを向けた。シュリーのハンカチーフにはどれだけ涙を(ぬぐ)ってもらったか分からない……どれ程の愛情を戴いたかしれない……自身の危険も(かえり)みず助けてくれたシュリーは、もはや親友以上の親友であった。そんな友に何も返せなかった自分が、ついに心を込めた形ある物を生み出し、贈ることの出来る時が来たのだ。


 もちろんイシャーナにも捧げたい気持ちは大いにあった。美しい花飾りに、想いの募った手紙と(あら)たかな宝石、温かな励ましも優しさも沢山受け取ったのだから。けれど……もはや手渡せる機会もなく、もしそれがシャニの眼に留まれば、イシャーナと王妃の立場が危うくなる。せめて明日、最高の舞を観ていただくこと──それだけが唯一、少女が青年に差し出せる恩返しに思われた。


「そう……? なら……大切に、大切に使わせてもらうわね」


 シュリーは申し訳なさそうに、そして心から嬉しそうに、刺繍布を胸に当て微笑んだ。


 ナーギニーも満ち足りた笑顔を返し、再びの舞踊大会に向け、最後の稽古をおねだりした。




 翌日は正午には昼食を終え、午後早々に白宮大広間に集められた。二十九州中、無事にこの地へ辿り着いたのは計二十二名。一人十分の時間を戴いても、四時間に及ぶ大会となる。広間の正面に置かれた玉座にシャニ、その隣に普段はこの宮殿を訪れることのない王妃の玉座が並べられたが、彼女はアグラの街に現れた時と同様、黒いヴェールに覆い尽くされ、その表情すら判別は出来なかった。


 更に王の逆隣にはイシャーナの為の席が設けられた。二人の玉座に比べたら(とうと)さには欠けるが、自身の装いは立派に王子であることを知らしめる涼やかな気品に満ち溢れていた。


 広間を囲うように並ぶ円柱の間には、家臣や侍女達が所狭しと立ち並んでいる。舞い踊る少女達に与えられた席から、その様子が良く(うかが)えた。ナーギニーは入口から三番目の柱の陰に、シュリーの姿と自分に向けられた視線を見つけた。僅かに微笑んだ少女の表情に、シュリーはこっそりウィンクを投げた。


「さぁ、集まりたる紳士・淑女の各々方よ! 今一度、(うたげ)を盛り上げようではないかっ!!」


 アグラの祭りで舞踊の開始を告げたあの掛け声が、再びこの地の静寂を破り、出場者と観衆を興奮の渦に巻き込んだ。鮮やかな衣装に(まと)われた少女が、独りずつ美しい舞を披露しては去る。アンドラプラディッシュ州のクチプディに、北東部の代表舞踊マニプリ、東海岸オリッサ州のオディッシーに、ケララ州のモヒニアッタム……インド各地の古典舞踊が、各地の代表者である少女達の手で綴られていく。その度に異なる楽器・異なる歌声・異なる衣装が五感を楽しませ、其処に集った全員の心は軽やかに弾まされた。


 そして今までの行列の如く、ラストがナーギニーの出番となった。金糸で縁取られた深い(くれない)に包まれた少女は、いつになく颯爽と舞台の真中に及ぶ。不安だらけで臨んだ過去の舞踊大会、あの時の自分とは一切を決別し、華麗に舞いたいという想いだけが彼女の心を取り巻いていた。


「楽しみにしていたよ、ナーギニー」


 玉座に頬杖を突いたシャニは、ニタリと笑って声を掛けた。その姿を真っ直ぐに捉え、ナーギニーもまた微かな笑みを湛えて一礼をする。自分が自分の全てを表現出来るのは、もうこの十分しか存在しないのだ。明日からの覚悟を決めた少女の眼差しは、一瞬ですら映すことは叶わずとも、永遠(とわ)に達する愛おしみを見えない力に添え、イシャーナに向けて一心に注いだ。


 南インドの古典舞踊バラタナーティアムは、元来寺院から発祥した踊りといわれている。朝夕地母神に捧げられた巫女(デーヴァダーシー)による奉納舞を祖とし、のちに藩王(マハラージャ)に保護され、宮廷舞踊として発展を遂げた。


 ナーギニーは開始を告げるように、「アラマンディー」と呼ばれる基本のポーズに入った。膝を外側に開き腰を落とす。菱形に形を成した下半身の中心で、幾つもの美しい(ひだ)がヒラリと揺れて落ち着いた。


 刹那ヴァイオリンやフルートがメロディ(ラーガ)を奏で、小さなシンバル「ナットゥヴァンガム」と両面太鼓の「ムリダンガム」がリズム(ターラ)を刻む。それらに乗せた朗々と響く男性の歌声が、張り詰めた空間を(なご)やかに変えていく。少女は軽快に全身をくねらせ、化粧の施された瞳と唇・赤く塗られた手指と足の動きで物語を紡ぎ始めた。カタックと同様に足首に巻きつけられた何十もの鈴が、踊り(ヌリッタ)感情表現(ヌリッティア)の決まる度、目に見えそうなほどの展開に彩りを与えた。


 この舞踊は部位ごとに「カラナ」と呼ばれる百八の型を持つ。その組み合わせにより、舞は際限なく広がりを見せる。ナーギニーはもちろん全てを習得するには至らなかったが、今此処に描かれる一つの恋物語に、必要なカラナは完璧と言えた。


 出逢い、恋い焦がれ、(わざわ)いが降りかかり、壊れかけた愛が(すく)われ、ついに結ばれる……喜怒哀楽が精密に表現された白亜の舞台は、いつの間にかナーギニーの纏う深紅の愛色に染められていた。


 芸能の聖典「ナティヤ・シャーストラ」が身に宿されたかのような、一寸の狂いもない神秘的な流れ。あたかも目の前に坐す神々を、愉しませることに精を尽くした一人の巫女(デーヴァダーシー)


 終わりを迎えた大広間に、一瞬静寂が立ち込めた。が、直後鳴り響いたのは──終わりを知らない喝采の嵐であった──。




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