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[別離]

 ベッドの天蓋に吊り下げた首飾りは、もう見る影もなく枯れていた。


 あれからナーギニーには曖昧な記憶しかない。口に入れた食事の味も、目の前のイシャーナの様子も、左斜めからずっと自分を見つめていたシャニの視線も、何も思い出せなかった。


 それでも食後、再び開かれた白宮大広間での衣装選びは、滞りなくこなしたことを覚えている。ナーギニーは、シュリーが舞踊大会で魅せた濃い緑の衣装が美しいと思っていた。バラタナーティアムは目の動きで感情を伝える舞踊だ。そのため瞳を強調させた厚めの化粧を施す。それに負けぬ装いは、やはり淡い色よりも原色に違いない。震える指先でいつの間にか選んでいたのは、そのような深紅の生地だった。


 採寸を終えて戻った自室で一人、夕食までの時を孤独に過ごしたナーギニーは、けれど一滴の涙も流すことはなかった。こうなることは運命だったのだ──イシャーナとたった数分でさえも言葉を交わせたこと、それがどんなに身に余る幸せであったことか、今回心底理解出来た ──シャニに(いさ)められたお陰で、これ以上踏み込まずに済んだのかもしれない。心壊れずにいられたのかもしれない……もう二度とイシャーナとは会うまい……でなければ母親である王妃の立場も危うくなる。自分は此処での楽しい想い出と、このように素晴らしいお守りを戴いたのだ。何の未練があるというのだろう。ナーギニーは胸元に隠した指輪をブラウスごと握り締めて、伏せた瞳に力を込め、昨夜の刺繍の続きと舞の復習を始めた。


 今までと同様に夕食を運んできたシュリーへ穏やかな挨拶をする。イシャーナが来ないことを知っている彼女は、その後昨日より早く少女の部屋を再訪した。ナーギニーは午前にアムラを摘みに出掛け、それがまるで自分のペチコートの硝子(ガラス)玉のようであったこと、沢山の少女に親切に手伝ってもらえたことを、いつになく満面の笑顔で話した。が、(うたげ)であった出来事は一切シュリーに話すことはなかった。


 刺繍と舞踊に集中することで、ナーギニーは心に抱える全てを忘れようとした。今夜を合わせて残り三晩、自分の発言により再びの舞踊大会も決まり、それにはもう二晩しかなかった。衣装もバラタナーティアムに見合う物を選んだのだ。もしもイシャーナが同席出来るのなら──会うことは叶わずとも、今度こそ乱れることなく完璧な舞を披露したい──そんな想いが少女の一挙手一投足を、確実に優雅に形作っていった。


 翌朝は日の出の気配が感じられぬまま、薄暗がりの中に天蓋の幕が現れた。まだ夜明け前に目覚めてしまったのだろうか? ナーギニーは少しだるそうに上半身を起こし、外の様子に目を向ける。夜の闇とは違う淡い灰色の空が見えた。近付けばしとしとと不思議な水の音が聞こえ、バルコニーの欄干が天から降る(しずく)に濡れていた。


「これは……雨?」


 あのアグラの街で、この十七年の人生の中でも、幾度か「雨」という物を体験したことはある。けれど干上がった砂の大地を潤せるほどの雨など、ナーギニーは見たことがなかった。驚きを隠せないまま、少女はバルコニーへの扉を開いた。その隙間から湿(しめ)()を含んだ涼しい空気が、彼女を手招きするように身を覆った。


 それはあの地下洞穴から不思議なトンネルに入れられた際の、豊富な水を湛えた壁面を思い起こさせた。あれがドームを伝い、この地へ雨として注がれているのだろうか? もしそうであるならば、一体どのように造られた物なのか? 謎を含んだ雨粒へそっと伸ばした掌が、ひたひたと受け止め濡れていく。(あらが)うことなく雨を受け入れた宮殿の大理石も白い街並みも、雨音に耳を澄ますよう静かに大地に横たわっていた。


 到着した翌日より五日目のこの午前も午後も、昼の(うたげ)以外は特に何も約束されていなかった。ドーム内の天候は明らかに管理されている筈だ。明日の舞踊の練習に励みなさい、と諭されたかの如く降る雨に、ナーギニーは思い立って急ぎ湯浴みを済ませた。支度を整え神への祈りを捧げる。舞の稽古を進める前に、どうしても刺繍を終えておきたかったのだ。あともう少しでガネーシャ神の全身が、完成するところまでこぎつけていた。


 本日の会食は全てが(おもむき)を異にしていた。毎昼集められた黒宮の最上ドーム内ではなく、初めて白宮の屋上に連れ出される。王宮同様に大きな丸屋根が中心を陣取っているが、侍女達がその中へ招き入れることはなかった。長いテーブルと人数分の席が設けられたのは、正面側の左右小楼(チャハトリ)を支柱として、張り巡らされた天幕の下であった。


「全員お揃いかな? 麗しきお嬢様方」


 少女達が席に着いた数分後、シャニは現れるやそんな挨拶をした。今回はいつもと違い、テーブルの長手中央に腰を下ろす。雨の降り注ぐ街並を見渡せるよう、長手の向かい側に席はなく、全員が一列に並んで堪能出来るように配されていたからだ。


「皆の街では、このように十分な雨が降ることはないのだろう? 見たまえ、目の前に広がる美しい水の景色を。今日はこれを愛でながら、食事を戴くことにしよう」


 そうして順に供された料理の数々も、今までの伝統的なインド宮廷料理ではなく、少女達の知らない西欧料理のフルコースであった。雨がもたらす涼しい空気には、暑さの似合うインド料理は不似合いと見越していたのか。確かにスパイスの主張しない優しい味わいは、この温度と湿度に絶妙に絡み合い、全員の舌と喉を柔らかくとろけさせた。視界を彩る雨の情景は、あたかも淡く透けたサリーのように、森の緑と街の凹凸を心ほどけさせる色と輪郭に変えていった。


 晴好雨奇なこの世界は、どれほど眺めようとも見飽きることはなかった。その所為(せい)なのか、この後に何の計画もされていないからなのか、いつの間にか四時間が流れていた。雨が本降りになり始めて、やっと王は美姫達を解放した。今日も独りになったシャニのご機嫌取りに、少女達の誰かが彼の部屋を訪ねるのだろうか。それとも明日の本番に備えて、各部屋で練習がなされるのだろうか。


 自室へ戻ったナーギニーは、あと僅かとなった刺繍の仕上げに取りかかった。小一時間ののちについに完成にこぎつけ、照明の灯りにその布を照らす。精悍なゾウの頭部を持つガネーシャ神が、こちらを愛おしそうに見つめていた。最後に縁取った赤い古典柄の枠が白地に効いている。少女は初めて一つの物を作り上げた喜びに打ち震え、それを優しく胸に(いだ)き、しばしの幸せに酔いしれた。やがてゆったりと折り畳み、キャビネットから見つけたベージュの封筒に差し入れる。それを裁縫道具のしまった引き出しに隠し、時を惜しむように舞踊の復習に励み出した。


 自分に与えられた『自由』はもう明日までなのだ。このままイシャーナの住むこの地に留まれたとしても、シャニに選ばれずアグラの街へ返されても、イシャーナともシュリーとも、きっと二度とは話すことも叶わない。今という時を心ゆくまで愉しもう。今夜と明晩はシュリーと話尽きるまで語らおう。


 ナーギニーは溢れる涙が零れぬよう、天井を仰いで瞳を瞬かせた。バラタナーティアムの物語る哀れなヒロインに我が身を映して──。




挿絵(By みてみん)





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