[恵与]
この頃のナーギニーは、砂の城に到着して以来一番の幸せを噛み締めていたのかもしれない。
シュリーが無事に戻ってきた! 彼女の笑顔は自分の笑顔の、まるで着火剤のようだった。
あれからシュリーは冷めた夕食をとても美味しそうに平らげた。初めての食事にあの人参ケーキを見つけたが、シュリーの手作りの方がずっと美味しかったこと、毎朝シマリスがバルコニーに現れて、今朝はナッツを慌てて頬張り帰っていったこと……そしてマントの持ち主がシャニの血の繋がらない息子であったこと、夕食後にインドコブラを介して彼と二度も会話が出来たこと……いつの間にか食事の手を止めさせてしまうほど興奮気味に語ったナーギニーを、シュリーは頷きながら微笑ましく見つめた。
明日の予定に影響してはいけないと、シュリーは小一時間で侍女の寝所へ戻ってしまったが、少女が見つけた裁縫道具を手に取り、明晩から刺繍と舞踊──あの大会でシュリーが踊ったバラタナーティアム──の稽古をつけてあげると約束をした。日中は侍女に身をやつし、この城のことを探りたいのだという。シュリーもやはり此処で働く民衆の様子が気にかかったらしかった。
明日からはきっと忙しくなるに違いない! ナーギニーはシュリーが去った後、すぐにベッドに横になった。夜明けと共にリスにナッツをあげ、再びの庭園散策に三度目の昼食会、挿絵でしか知らないゾウに乗ることも街巡りもきっと緊張することだろう。夕食の後には約束は出来ていなくとも、ナーガラージャが来てくれるかもしれない。そしてその後にはシュリーとの楽しい時間も待っている──そう考えを巡らせば、高まる鼓動の揺らめきは、なかなか少女を眠りに導いてはくれなかった。
それでも翌朝の目覚めは良く、全ての計画はスムーズにこなされた。リスは昨朝よりも警戒心が薄れ、慌てることなくナッツを口に含み、意気揚々と戻っていった。そして何よりも有り難かったのは、朝食を運んできた侍女の一人がシュリーに代わられていたことだ。お陰ではにかみながら掛けた朝の挨拶も、こっそり自然に返された。ナーギニーはそんな当たり前のやり取りに、もう一人の侍女に隠すのが難儀なほど喜びが全身に溢れてしまった。
イシャーナの推測した通り、少女達は黒宮東側の庭園に集められ、昨日同様シャニの案内で西の庭園にて自由時間となった。早速王宮側の並木の内、河より三番目に近い幹に歩み寄る。この沙羅双樹は他に比べてひときわ高く太さも際立っていた。まずは根元の辺りを注意して一周したが何も見つからず、次の一周は自分の目線の辺りに刮目した。するとそれよりやや高い位置に、縦に細長い樹洞が見えた。グッと背伸びをして中を覗いたが、暗くて良く見えない上に特に何も居る様子はない。
が、諦めて伸ばした足裏を戻そうとした瞬間、何かがキラリと光った気がした。ナーギニーは今一度背伸びをし、恐る恐る手を差し込んでみれば、触れたのは紙の質感と、金属らしき細い輪だった。
両方を指で優しく挟み、逆の掌にそっと乗せる。小さな淡い水色の封筒と、そして──ひよこ豆ほどの卵型をした、碧い宝石の嵌め込まれた金の指輪が其処にあった。
「あっ……!」
それだけでも驚きであったのに、続けてその手に落ちてきたのはカシューナッツの欠片だった。ハッと上げた少女の瞳が、樹洞の縁にしがみついたシマリスとかち合う。此処は自分がナッツを渡したリスの食糧庫なのだと気付かされた。
広げたそのままに、静かにリスのすぐ下まで掌を寄せた。やがて固まっていたリスは、目の前のナッツを受け取り樹洞へ消えた。
「綺麗……」
滑らかな石の丸みを指の腹でなぞり、ナーギニーは降り注ぐ木洩れ日に照らした。途端碧を集めた表面に小さな星が瞬く──ブルー・スター・サファイア。インドで最も気高き珠玉──。
惹きつけられるようにしばらく見入ってしまったが、ふと思い出したように封書に目をやり、木陰にしゃがみ込む。震える指先で丁寧に開いたその中には、同じ色の便箋が小さく畳まれていた。
美しいデーヴァナーガリー文字で、昨夜突然去ってしまったナーガラージャについての詫びと、指輪を見つけられたなら、是非受け取ってほしいとの要望、そして今夜も出来れば話がしたい、という切なる希望が綴られていた。(註1)
昨夜哀しく溜息を零したことなど、忘れてしまうくらいの嬉しさが駆け巡った。ただこの指輪を戴くことには、やや戸惑いを感じてしまう。このように高価な品をどうしたら良いものなのか……指に嵌めることもためらわれ、ナーギニーはひとまず封筒の中に、手紙と共に指輪をしまい込んだ。今日の為に用意された薄紫のパンジャビ・ドレスには、右胸にポケットが縫われている。とりあえず其処に収めて、大切そうに布の上から手を当て、ナーギニーは感謝の言葉を何度も唇に乗せた。
残念ながら三日目の昼食会にも、イシャーナが現れることはなかった。侍女として働くシュリーも給仕係にならなかったのは、シャニに顔を知られているからに違いない。
三十分程度の休憩の後、降りてきた王宮の基壇傍から少女達はゾウに乗せられた。定員は一頭につき各四名。大きく華やかな鞍が設えられており、その手前ゾウの首の上には、それぞれのゾウ使いが跨っている。操御杖により大人しく待たされているゾウではあるが、どの街にもこれほど大きな動物を養える力はないのだろう、初めて見た巨大な姿に少女達は怯え、全員が乗るにはなかなかの時間が掛かった。
「優しい動物だ、危害はない。さて、出発するよ」
先頭のゾウに乗り込んだシャニは、最後尾のゾウまで聞こえる大声を上げて、ようやく一行は街へ繰り出した。
ナーギニーはいつもの通り行列の終わりに付いた為、最後の六頭目に乗せられることとなった。幸い残ったのは三人となったので、後方のどちらでも自由に選べ、もちろんイシャーナの望んだ進行方向左手に座した。
ゆっくりと揺れる輿に合わせて、上半身が大きく振れる。ゾウの背はとても高く、遠くまで見渡せる景色が、振動に合わせて振り子のようになびく。が、不思議と悪い気持ちはしなかった。やがて城内を出て大通りを南下し、ゾウが高らかと鳴き声を轟かせるや、辺りは一斉に静寂に包まれた。
道を横断する人々は慌ただしく左右に寄り、一列に並んで深い礼を捧げる。通りに面した建物の二階や三階から、雨のように花びらが注がれた。遠く何処からか手を打ち鳴らす音が生まれ、静けさに満ちた波間は一瞬の内に喝采の渦と化した。少女達を見つめる数多の面には、この国では今まで見たことのなかった温かな歓迎の微笑みが添えられていた。
まるで感情を見せなかった民に、初めて笑顔が宿された──それは永久に見ることの叶わない月の裏側が、あたかもくるりと振り向いたかの如き奇跡にも思えた──これこそが彼らの本来の姿なのか……戸惑いながらもそうであってほしいと願いつつ、ナーギニーは他の少女達に倣い、歓迎の拍手に手を振り応えた。
沿道はパレードを見送る群衆で埋め尽くされていたが、建物の隙間から時折掠める風景を眺めて、イシャーナが左手に着席を勧めた理由はすぐに判明した。遠くに見える白宮と、東に進むにつれ現れ始めた黒宮のコントラストが美しい。それは空がどんなに青くとも、この地へ辿り着いたあの夕暮れを思い起こさせた。緊張と不安で押し潰されそうだった自分……けれどまだシヴァと呼んでいたイシャーナに、再び会える希望で打ち震えていたあの頃──。
しかして東端まで進んだ一行は、街角を左折し北上を始める。何処までも拍手と歓声と花びらのシャワーは続いていた。道の折れる左側の館は、白塗りの壁が三階まで続き、どの窓辺からも沢山の人が手を振っていた。ナーギニーのゾウが最後にその角を回り込んだ時、鮮やかな軌跡を描きながら、何かが彼女の膝の上に落ちてきた。舞い散る花びらに紛れて投げ渡されたのは、ジャスミンを編み込んだ真白い首飾り。驚いて見上げた視界に純白の鳩が幾重にも飛び交う。曲がり切る間際にやっと開けた羽ばたきの先には、久し振りに見ることの出来た、イシャーナの眩しい微笑があった──。
[註1]デーヴァナーガリー文字:ヒンディー語などに使われる字体。横に通ったラインの上下に、記号のような字が連なるので、洗濯物の掛けられた物干し竿などに例えられます。




