[幸福]
思った通り、危惧した通り、砂時計の中の砂粒が流れ落ちるが如く、イシャーナとの時間は二人の間をすばやく吹き抜け、息つく間もなく引き離してしまった。
ナーギニーが伝えられたのは、今日の出来事と明日の予定のみだ。それでもイシャーナは話された内容から、幾つかのアドバイスを与えてくれた。明日の午前は黒宮側の庭園を巡ることになっている。ならば西の庭園で自由時間となる筈だから、王宮に近い東の木立の、河から三番目の沙羅双樹を注意して一回りしてほしいとのこと。きっと面白い物が見られるよ、と微かに含み笑いをしながら、其処に人工の物が見つけられたら君に持ち帰ってほしい、とも告げた。
昼食会の後の午後は、ゾウに乗せられて街を巡るのだそうだ。それに対しては出来るならゾウの後方、左側に腰掛けることを勧められた。
今回は隣室の戸が開けられた気配で、ナーガラージャが逃げてしまい終わりとなった。そのためナーギニーは別れの挨拶すら伝えることは叶わなかった。小さな声で急ぎ「おやすみなさいませ」とは呟いたものの、もうその時には見えない所まで降りてしまったナーガラージャには、きっと届かなかったに違いない。明晩の約束すら貰えなかったナーギニーは、僅かながら哀しみの溜息を零し、部屋に戻るや枕に顔を埋めてしまった。
しかしそれと同時に、部屋の外から二度ノックの音が響いた。聞こえてきたのはいつも通り回廊へ続く扉だが、もう夕食を終えている時間に訪問があったことは一度もない。日中のブラウスが仕上がって、早々に届けてくれたのだろうか? ナーギニーは慌てて応答し立ち上がった。現れたのは侍女ではあったが、たった一人きりな上に、閉じた扉の前で深くお辞儀をしたまま、姿勢を戻す様子はなかった。
「お食事を片付けに参りました」
頭を下げた状態で侍女は一言そう告げる。今までにない事態に少女は慌ててワゴンに目をやった。シュリーの為にと食事が半分残してあるのだ。今持ち去られてはシュリーに会えた時・彼女が空腹を抱えていた時、一体どうしたら良いのか……困ったナーギニーはとにかく持ち帰られないように、刹那に拒む台詞を発していた。
「あのっ……下げるのは明日にしていただけませんか? その……あの……もしかしたら夜中にお腹が空くかもしれません……」
意地汚く思われはしなかっただろうか? 咄嗟に浮かんだ言い訳に、語尾は小さく掠れ、いつの間にか鼻の頭が赤らんでしまった。
「良かった」
「……え?」
ふと聞こえてきた安堵の言葉に、俯き始めていたナーギニーの頭は一気に持ち上げられた。
「夜中にお腹が空くなんて……元気な証拠だわ!」
「あっ……──!」
同時に立ち上げた侍女の顔がニッと笑い、その懐かしい笑顔にナーギニーは驚きの声を上げてしまった。艶のある紅茶色の肌に、色気を含んだ厚めの唇、そして嬉しそうに細められた黒い瞳を飾る長い睫の美貌は──
「あ、あぁ……シュリー……!!」
ナーギニーは叫ぶや駆け出し、迎えるように広げられた両腕の中へ導かれていった。きつく抱き締めた力と同じ強さで受け止められて、その肌の温かさにこれは夢でも幻でもないのだと、心の芯から感じることが出来た。
「遅くなってごめんなさいね。さすがにそう簡単には入国出来なくて……今言った通り、ちゃんと食べていたのよね? ナーギニー」
「うん、うん」と泣きながら呟き、また泣き出してしまう。呼ばれた自分の名は、誰からの声よりも心地良く思えた。後ろ髪を撫でるシュリーの手が、いつまでも止まらぬことに嬉しさが溢れた。
数分してようやく落ち着きを取り戻した少女を、シュリーは部屋の中心のテーブルに誘い、ちょうど良く用意された二脚の椅子に二人腰を下ろした。とめどない涙をハンカチーフで拭ってくれたシュリーは、質素な侍女の身なりをしていても、今まで通り清廉として美しかった。
「折角の美人が台無しよ、ナーギニー」
そう言って笑ったシュリーの目尻にも、涙らしき痕が煌いていた。震える唇の端に力を込め、ナーギニーも何とか微笑んでみせる。沢山訊きたいこと・話したいことがあっても、この全身を駆け巡る悦びは、声を出せるほど心を平らかにはしてくれなかった。
「幽霊なんかじゃないから安心してちょうだいね。あの時わたしは鏡を使って彼らの目を光で突いたの。お陰で銃弾は外れて命拾いしたわ。それからラクダに乗ってあなた達を追っていたら、途中で逃がした侍従の馬を見つけたのよ! ああ……残念ながら振り落とされてしまったのか、侍従は見当たらなかったけれど……ともかくそれで馬に乗り換えて、アラハバード──あなたの連れていかれた街ね──其処で砂の城の従者を探し回ったという訳」
問わずともシュリーは一から説明をしてくれた。理解しては相槌を打つナーギニーの様子を見て、満足そうに一度話を区切ったシュリーは、再び少女の瞳に溜まった涙を、慈しむように優しく布に含んだ。
「あなたを此処へ連れてきた使者達を覚えているわね? 彼らは貸してもらったマントと同じ物を纏っていて、ターバンを巻いて、その裾を口元まで覆うように巻きつけていたでしょ? あれが功を奏したわ。街でターバンを買って、同じ様相に扮したの。そうして昨日ついに似たような集団を見つけた時には、本当にツイていると思ったわ。だけど紛れても誰も気付かないのだから全く変な人達ね! まぁお陰で此処まで容易に連れてきてもらえた訳ではあるけれど。その後はこの格好からご想像の通りよ。侍女に変装して宮殿に潜入したの……これで全てかしら? どう? わたしもなかなかやるもんでしょ!?」
いつになくおどけた口調と笑顔で、とうとうシュリーは最後までの経緯を話し終えた。けれどそんなに上手く事が運ぶことなどあるのだろうか? それでもその手段など気にする気持ちは不要だった。こうして目の前にシュリーが居る、自分を見つめて微笑んでいる──それだけでもうナーギニーには、何も要らないと思える程の柔らかな幸せに抱かれていた。
「はぁ~一気に喋ったら喉が渇いたわ。ナーギニー、水差しから飲み物を頂いても良いかしら?」
取りにいこうと慌てて立ち上がるナーギニーを手で制して、シュリーは自ら赴いた。しかしワゴンの手前で「あっ!」と声を上げ、驚いたナーギニーも結局その後に続いていた。
「ちゃんと食べていると言っていたのに……どうして半分も残しているの? これでは夜中にお腹が空いても仕方がないわ」
訝しむような表情で振り返ったシュリーに、困った笑顔を返すばかりのナーギニー。やがて語られずして真相に行き着いたシュリーの面は、ゆっくりと涙に濡れていった。その腕は再び強くナーギニーを抱き締めていた。
「あり、がとう……わたしの為、だったのね……!」
「シュリーこそ……本当にありがとう……ずっと、会いたかった……」
抱き締め返す掌が、シュリーのブラウスをギュッと握り締める。そして──
お互いの首筋に触れた涙が乾くまで、二人の抱擁はほどかれることはなかった──。




