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 ドームの天井中心に近付いた陽の光は、緩やかに流れる川面(かわも)に反射し、あたかも金の魚群が飛び跳ねる幻影を見せていた。


 庭園の西、沙羅双樹(シャラノキ)が影を作る根元に隠れて、ナーギニーは独り河の流れを目で追いながら、昼食までの時間をやり過ごすしかなかった。


 振り向けば短く刈られた芝生の上で、追い掛け回したり転げたりと、少女達が楽しそうな歓声を上げている。自分はどうしてあの輪に入ることが出来なかったのか……彼女達と何処にどのような隔たりがあったのか、集団の中で生活したことのないナーギニーには、その原因も理由も手繰(たぐ)り寄せることが出来なかった。


 それでも時間は戻ることなく進み続けるのが常だ。いつしか(うたげ)の刻が迫り、あの黒宮の最上階に再び集められた。イシャーナの苦悩した表情を想えば、彼がこの席に招かれぬことが最善であったが、それでも会いたい気持ちが微かに彼の同席を願っていた。けれど乾杯が食事の始まりを告げても、イシャーナの柔らかい声が現れることはなかった。


 全員に平等であるようにとの配慮なのだろう、前日と席順は異なっていた。ナーギニーはシャニから一番遠い南東の隅となり、お陰で必要以上のやっかみや緊張を回避することが出来た。少しばかりだが解放された心の余裕が、料理の味わいを深く堪能させてくれた。


 食事の後は予定通り、白宮の大広間にてサリーの仕立てが催された。長いポールに何重にも巻かれた布地のロールが、大理石のフロアーに所狭しと並べられている。それらには全て精密な刺繍や透かし織が施され、アグラの祭りで見たどのサリーよりも遥かに美しく豪奢(ごうしゃ)であった。


 少女達はおのおの布地を広げては肩に掛け、円柱に立てられた姿見の前で嬉々としている。シャニはそんな彼女達の様子を見守りながら、玉座で独り悦に入っていたが、数人の少女に選んでほしいとねだられて手を引かれ、満面の笑顔で布の山に歩み寄った。


 そうした賑やかな中心から一番遠い端の布地に、ナーギニーはいつしか手を伸ばしていた。今まで一度も(まと)ったことのない濃紺のサリー。それが気になったのは、共に織り込まれた金糸の模様が、昨夜見上げた夜空の流星を思い出させたからだ──イシャーナとの甘いひととき──もう一度会いたい……近くに居た侍女がスルスルと布を引き出して、鏡の前でナーギニーの肩に垂らしてくれた。と、突然夜空が現れて、箒星(ほうきぼし)が流されたような不思議な感覚が目の前に広がる。まるで時が自分だけを連れ去って、一瞬の内に(さかのぼ)ってくれたのかとナーギニーは息を呑んだ。


 が、そのような奇跡はある筈もなく、彼女を瞬く間に現実に引き戻したのは、あの低い王の声であった。


「貴女には淡い色がお似合いだと思っていましたが、この濃紺も肌の白さが際立って麗しいですね」


 鏡の端に身の半分を映し込んだシャニが、ねっとりとした眼差しで少女を褒め称えた。


「あ、ありがとうございます……」


 慌てて振り向いたナーギニーは、さらりと落ちたその布を抱き締め、身を屈めて礼を捧げた。きっと王の背後ではサリーを選ぶ手を止めて、全員の悪意のある視線が我が身をねめつけているのだろう。そう思いながらおどおどと瞳を上げたが、意外にも誰の目もこちらを向いてはおらず、はしゃぐ声は騒がしく広間に響き続けていた。


「サリーが決まったら、それに見合うブラウスの生地を選んでください。採寸後、仕上り次第侍女に届けさせましょう。気に入るペチコートがあったら、ハーフサリーも作られると宜しいかと。最終日のお披露目を楽しみにしていますよ」


 丁寧にこの後の指示をして、(きびす)を返した笑顔のシャニは、再び少女達の輪の中へ吸い込まれていった。ハーフサリーとは、普段隠されているペチコートを、敢えて見せるように巻きつける短いサリーのことである。その為にペチコートには鮮やかな染めや飾り、サリーのような(ひだ)などの趣向がされている。その申し出に少女の心は光を帯びたが、どうしてシャニがあのように敬語を用いたのか、余りに不自然で気にかからずにはおられなかった。それは舞踊大会で特別に賞を与えられた後、初めて面前にて祝辞を与えられたあの時を思い起こさせた。


 結局ナーギニーは手に取った濃紺のサリーを選択し、一着分の長さに裁断された端をまつってもらう間、その中に纏うシンプルな黒のペチコートと、繊細な花紋様の施された淡いピンクの布地を選んだ。ブラウス用に上半身の採寸をされたのち、アレンジの効いたペチコートの前に(いざな)われる。どれもまるで舞踊衣装のように(あで)やかで華やかだが、少女は白地に淡いみどり硝子(ガラス)玉が散りばめられた、可憐な一枚に目を奪われた。硝子と同色のサリーに、ペチコートと同じ白いブラウス生地を求めて、こちらも仕立てをお願いする為、全ての完成は明日まで持ち越されることとなった。


 やがて全員が事を終え、立ち去る王へ存分な礼を尽くした面々の半数は、昨日と同様に螺旋階段へ消えていった。後を静々と追いかけるナーギニーは、流石に警戒心を(ぬぐ)うことは出来ずにいたが、先程と同じく誰一人彼女を振り返る者はなく、一切の嫌がらせもなされずに自室へ帰り着くことが出来た。


 ああやっと……待ち望んだ時が来た……!


 思わずそう叫びたい気持ちで、寝台の枕を抱き締める。けれど外の景色はまだ明るい。イシャーナとの時間はあっと言う間に過ぎ去ったのに、待ち侘びる間はどうしてこうも長く感じられるのだろう。日暮れてからどれくらい経てばナーガラージャは来てくれるだろうか? いつの間にかナーギニーは窓辺に立って、水色と(だいだい)を混ぜ始めた空を見つめていた。募る想いが見たこともない雪のように、心に深々(しんしん)と降り積もってしまう。この雪が溢れるほど心を満たした時、自分はどうなってしまうのだろう。このまま降り続けたら……張り裂けた心の雪は、誰が()き止めてくれるのだろう。


 雪崩(なだ)れてしまいそうな弱々しい気持ちをどうにか抑え込み、思い立って先に湯浴みを済ませたナーギニーは、ひたすら『その時』を待ち続けた。やがてナーガラージャよりも早く夕食のワゴンがやってきて、昼食とは違い味も分からぬまま、いささか急いで半分を口に運ぶ。毎夜の全てを終えた少女は、暗く沈んだバルコニーの手摺に両手を置き、闇よりも黒い尖塔(ミナレット)をじっと見上げた。


 まもなくしてその上部から生まれた光が、点々と生まれては消え、消えてはまた生まれる。同時に手の甲にそろりと滑らかな鱗の通り過ぎる感触を得……


 ナーギニーの心に灯った温かな()は、たちまち積もった雪を溶かし尽くしていた──。




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